明智探偵推理する
その晩、トモロウ氏の泊まるホテルへ電話が掛かってきた。誰かね、尋ねると、「僕です……今日お世話になりました、克彦です」細い声が返ってきた。
「きみか。どうだね、具合は……」
「ええ、すっかり良い具合です。ご心配をおかけしました」
声こそ小さいが、陰気は感じられず、具合は本当に良くなったのだろうとトモロウ氏は察した。
「それは何よりだ。では」
「待ってください、あの、……」
克彦は一瞬ためらい、しかしすぐにこう言った。
「……お話したいことがあります。ですが、その……」
「電話では話しづらい?」
「ええ……直接お会いしたい。あなたに」
あなたに、という言葉をつとめて強く発して、彼は時間と場所を告げた。
「ええ――ええ、必ずいらしてください。僕はもう、あなたしか頼る人がいない、縋る人がいないのです。お願いです……」
「落ち着きなさい。きっと行くからね」
受話器の向こうから溜め息が漏れた。必ず、必ずです。と念を押して、克彦は電話を切った。ツー、ツー、という音を聞き受話器を置き、トモロウ氏はその灰色の脳細胞を動かした。
――彼はいったい、何に怯えているのだろう?
具合が悪いのは昨日からだと、薔子から聞いている。そんな病人がなぜ滞在先のホテルから離れた殺害現場に?また、なぜ薔子も一緒だった?なぜ――
「先生!」
取り留めない思考に身を委ねていたのを引き戻したのは助手の声だった。
「どちらの女性ですか?」
「残念ながら男だ」
「男!」
「例の――今日の容疑者の少年だ」
「ははあ!あの美少年!」
コマワシ少年は納得したように頷いた。
「先生はさすがです。女も男も来るもの拒まず。僕も見習わなくっちゃ」
「きみねえ……」
トモロウ氏はあきれて後頭部をバリバリかいた。
「僕ァまだまだ男はダメだなあ。いやしかし、薔子ちゃんはきれいだった。きゃしゃで、色も抜けるように白くって」
「まるで日本人形のようだね彼女は……チョット東京でもお目にかかれない美形だ」
「いやあ、僕は一度だけあのくらいきれいな人を見たことありますぜ」
「ほう、それは誰だい。ぜひ伺いたいな」
するとコマワシ少年は得意気に、それではお教えしましょう、と気取った。エヘン、と咳払い。
「三代目夢之介ですよ。僕ァ芝居が好きでしてね」
「なんだ、女形じゃないか」
「いえね、実際きれいなもんですよ。女より女らしいんだもんなあ」
何気ないその言葉にトモロウ氏はハッとした。
「女より、女よりね……」
□□□□
一方、こちらは薔子と克彦の部屋である。
「克彦さん、どちらに行ってらしたの」
「いえ、少しはばかりが長くなっただけです」
「まあ!ほほ……それは失礼」
薔子は笑ってベッドに腰掛けた。
「ご機嫌ですね、薔子さん」
「ええ、そうね。ふふ、楽しい。わたくしは――紫乙女は決して捕まらない……あの探偵さんが悔しがる様が目に浮かぶようだわ」
ああ、なんという事だ!この美少女が紫乙女!なんと大胆不敵!なんとふてぶてしい!犯人は堂々と探偵の前に姿を現していたのだ!
「ああ、なんだか暑い……克彦さん」
「水を、飲みますか」
「ええ、それと、わかっているでしょう?」
薔子が微笑むと、克彦は目を逸らした。薔子の笑顔が――計算し尽くされたこの美しい笑顔が克彦は嫌いだった。笑顔は、造形として美しくないモチーフだ。しかし、だからこそ心根の誠実さが見えて好ましく思えるのに、この笑顔ときたら誠実さの欠片もない。
水の代わりに葡萄酒を傾けて、薔子は顔色を変える様子もない。克彦は冷たい水を飲み干して、薔子のブラウスに手を掛けた。「よくわかっているのね」薔子は囁いて、克彦の頭を撫でてやる。あらわれた薔子の胸に乳房は見当たらなかった。薔子は女性ではないのだ!冷水をのんだ冷たい克彦の舌が薔子の首筋をなぞる。薔子は顔色も変わらない。ただ、「冷たくて気持ちがいい」とだけ言って目を閉じた。
「薔子さん、明智探偵は気に入りましたか」
「ぜんぜん」
薔子はかぶりを振った。
「だめね……まるで俗人よ。組織に属さない探偵なら、あるいは素敵かしらと思ったけれど、あの人は美しくない。ためらいなく打ちのめせるというものだけれどね……」
聞きながら、克彦は薔子のスカートにも手を掛けた。その顔は欲情とは程遠い、親に叱られまいとする子供のようだった。
「今日はよしましょうよ……せっかく冷えたのにまた暑くなるわ」
克彦は何も言わず、ただ息を吐いて、薔子にブラウスを着せた。その手がガタガタふるえている。「なにを怖がるの?」「いえ」薔子はブラウスの釦を上まできちんと留めてもらうまで何も言わなかった。手伝いすらもしなかった。そしてすべてが留まるのを待って、吐き出すように呟いた。
「女はまもの」
蝋燭の火が揺れる。
「女は少年を男にする魔物。童貞こそがいちばん美しい」
「ええ、ええ知っています」
「わたくしは嬰児の頃に母を失い、ついぞ女の乳房に抱かれなかった。まったく女に触れていない清らのからだ……わたくしこそ童貞の中の王なのよ」
薔子の青白い肌を、月が余計に青く見せていた。薔子は花瓶の薔薇の花を掴んで投げた。紅い花びらが散る。
花びらが落ち切る前に、薔子は命令のように言った。
「その野暮ったい服を脱ぎなさいな」
「あ……いえ、僕は……」
「いえ? アラマア、おかしいのねえ……わたくしに逆らう……おかしいのねえ……」
薔子が笑う間、克彦はただふるえていた。
「あなた、薔薇はお好き?お好きよねえ。わたくし克彦さんのために良いものを作ったのよ」
薔子が取り出したのは、薔薇の棘を模した鞭だった。
「ひっ!」
思わずよろめいた克彦の髪を薔子が掴んだ。
「選びなさい。わたくしを打つか、わたくしに打たれるか。さあ、早く!」
「そんな、僕は……」
「ほほ……優しいのね克彦さん、かわいいのね……では、わたくしが決めてあげる」
薔子は掴んだ手を緩めて言った。克彦には月の逆光のせいで薔子が影のような不気味な化け物に見えた。
「わたくしをぶちなさいな。そうしたら、不躾もすべて許してあげてよ……」
克彦は、自分の血の気が引く音を聞いた気がした。