明智探偵の休日返上
「どうしたね。そんなに慌てて……僕はまっぱだかだぞ」
「先生! た、大変です! 殺人事件です!」
「なに!」
トモロウ氏がいきおいで湯船から立ち上がった途端に、彼のものすごいイチモツが見えた。
「キャッ、ばけもの!」
「なにがばけものだ。状況を説明したまえ……いや」
トモロウ氏はまた湯船へと沈んでいった。
「今回は休暇で来てるんだった。断じて殺人事件の話など聞かないぞ。聞かないぞ」
「いいんですか」
「ああ、こんな田舎、容疑者も少なかろ。警察でなんとかなる」
「でも、お友達の金田一ホウスケさんの事件はいつも田舎じゃないですか」
「彼は特殊だ。彼の言う田舎は箱根なんてもんじゃない。警察もほぼ機能していない」
「はあ、じゃあ僕はもう何も言いませんよ。本当に何も言いませんからね」
「けっこうだ」
「それでは、サヨナラ」
トモロウ氏が鮮やかに事件を解決することが何よりも好きなコマワシ少年がこんなにあっさり引き下がるのは不思議だったが、彼も余暇を楽しむという選択をしたのだろう、とトモロウ氏は鷹揚に構えて長風呂を楽しんだのだった。
トモロウ氏が脱衣所に謎のメモを見つけたのは上がってすぐだった。
事件についての概要。と、いちばん上に書かれている。「何も言わないとは言いましたが、書くことは止められていません」と、得意気な奴の顔が浮かぶようだった。
「あいつは一休さんか!どれどれ……」
なんだかんだで職業病のトモロウ氏は、メモを読んでしまった。
――今朝早く、他殺と見られる死体が発見された。被害者:十八前後と見られる少年。死体の特徴と現場に残されたカードからして、いわゆる紫乙女の仕業である。
「紫乙女!」
その名前には聞き覚えがあった。現在、東京を騒がせているおそろしい変態殺人鬼!
被害者の男根を切り取ることが紫乙女のおぞましい特徴だった。現場に必ず紫乙女と書かれた薔薇のカードを落としていくことからこう呼ばれるが、当然性別などは不明の怪人である。
しかし、今回の紫乙女の凶行は、明智トモロウが箱根にいると知っての事だろうか。だとすれば、『明智くん、君は捕まえられない犯人はいないと豪語していたね。さて、私はどうだろうか。今すぐ捕まえてみたまえ』という大胆不敵な挑戦状のようなものではないか。
「おのれ、紫乙女め! 失礼千万!」
トモロウ氏は奮起して、サッとシャツを羽織り、現場へと向かったのだった。
「せんせーい、こっちですよぅ」
事件大好きのコマワシ少年はやはり先回りしていた。
「君ねえ、紫乙女なら先に言いたまえ」
「へへへ、びっくりしたでしょ。先生なら来ると思いましたよ。僕ですらかわいい彼女よりレディ・パープルのほうが大事ですからね」
コマワシ少年はほっぺたを赤くしてにこにこしている。
「なにがレディなもんか。犯人は変態趣味のジジイに違いない」
「そうですかねえ。僕は倒錯趣味の美婦人と見ますがね」
「がっかりするぞ。今にね」
トモロウ氏が肩をすくめると、不意に声が降ってきた。
「明智せんせーい」
警視庁の轟警部であった。その名のとおり非常に轟く声をしている。
「君か!はて君は東京にいたのではなかったのかね」
「それが」
轟警部はションボリと肩を落とした。
「紫乙女を逮捕できないからってんでこんな田舎に降格です。まあ、のんびりしてていいや、と思ってたら紫乙女が出張してきちゃって。トホホ……岡山に飛ばされたらどうしよ。金田一さんとだけは組みたくないなア」
「君もつくづく運がないね」
がっかりの轟警部を慰めたあと、事件の概要を聞く。
「それがね、明智先生、じつは容疑者がいるんですよ」
「ほう! 珍しく進展がありそうじゃないか!」
「そうなんです! この辺をウロウロしてたってんでね、今事情を聞いていますよ」
警部が顎をしゃくった先には一人の少年がポツンと立っていた。少し離れたところには少女――
「薔子ちゃん!」
思わず声を上げる。あの、かれんな少女が現場に立っている!
「探偵さん」
よく見ると、容疑者の少年も以前薔子の隣にいた克彦だった。彼はやたら屈強な刑事に囲まれて目を白黒させている。
「探偵さん、わたくしたち、たまたま散歩に来たのよ。それだけよ……」
薔子は弱々しかった。
「きみは少し黙っていなさいね。彼に聞いているんだから」
と、屈強な刑事のひとりが言った。それを横目で見て轟警部は続けた。
「何せ挙動不審でしてね……問い詰めたらあの通り、真っ青でしょ。ありゃあ何か隠してるんですよ」
長年の経験による勘ですよ、轟警部は言った。
「まさか、あの女の子は関係あるまいね。僕は昨日彼女とデートしたんだよ」
「はは、紫乙女があんな美少女だったら面白いが、残念ながら……あ、これは言ってなかったかな。どうやら紫乙女は男ですよ」
「ほう?なぜ」
「被害者以外の精子が見つかりましてね……つまり、犯人は変態の男」
「なんだあ」
コマワシ少年はつまらなそうに口を尖らせた。
「きゃあ!」
不意に高い声が響いた。薔子の声だった。彼女を振り返ると、克彦がよろめいて倒れる寸前だった。
「克彦さん!」
地面と仲良くする前に刑事に抱きとめられた彼の顔はすっかり生気を失っている。
「あらら……」
呑気な轟警部である。トモロウ氏は近寄って、彼の頬を叩いた。後ろで薔子が心配そうに両手を組み合わせて立っている。
「だから言ったのに。克彦さんは昨日から具合が悪かったのよ。挙動不審もそのせいなのに、あんまりひどいわ、ひどいわ、日本の警察はやくざよ、やくざ……」
さめざめ泣く薔子をそつなく慰めるコマワシ少年はさておき、克彦はトモロウ氏によってなんとか覚醒した。
「きみ、大丈夫かね。気分は」
「アノ……だ、大丈夫です……ぼく……」
「克彦さん!」
何か言おうとした克彦を遮るように叫んだのは薔子だった。
「帰りましょうよ。こんなところに居られないわ。ああいや」
「薔子ちゃん、彼はまだあまり良くないよ」
「パトカーを用意してるんでしょう。送ってってくださらないの?」
「きみきみ、パトカーはタクシーじゃないからね」
「まあ、犯人扱いした上に病人を放っておくなんて、ひどい。本当にやくざそのものだわ」
あくまでもゆったりした言葉遣いで、それでもきちんと我を通すところに、彼女が大事に育てられたであろうことが知れた。呑気の轟警部はため息をついて、刑事のひとりに「君、送ってやりたまえ」と告げた。
「しかし、君、嫌疑が晴れたわけじゃないからね。気分が良くなったらまた話を聞くからそのつもりで」
「僕は……」
克彦がようやく、という様子で口を開いた。
「僕は、犯人じゃありません」
まっすぐな目は、しかし不安げにすぐ逸らされ、彼はすぐ側のトモロウ氏を見た。
「探偵さん、助けて……僕が必ず、犯人でないことを、どうかどうか、知ってください」
彼の両の目から、熱い涙が湧きでた。手はふるえて、トモロウ氏の裾を掴んでいる。心からの懇願の仕草だった。トモロウ氏にはその様子がいじらしく、またかわいらしく感じられた。
「うむ、きみ、万事任せなさい」
手を取ってやると、安心したように彼は目を閉じた。顔色はいよいよ蒼白だった。彼は確かに怯えているようだった。いったい何に……?なんとか支えてやって、薔子と克彦はパトカーに乗り込んだ。トモロウ氏はそれを見送りながら、ひとり思案に暮れていた。そこに轟警部が声を掛ける。
「いやあ、まいった。どうやら彼も、犯人の線は薄いですな」
「そうだな。幼気すら残る少年じゃないか」
轟警部は太い首をボキボキ鳴らした。彼のくせだった。
「ま、一応血液検査で以前見つかった精子と照合して、ハイおわり……でしょうな」
「でも、あやしいですよ。パトカーまで出させるってことは、ここからわりと遠いところに住んでるんでしょ。もしかしたらホテルかもしれないけど。病人がわざわざ、こんなとこまで来るもんですかね」
コマワシ少年が言った。
「ふーむ、しかし、人間の行動なんて、本当に予測できないからね」
「先生は美少女や美少年に弱いからたまんないや」
コマワシ少年は呆れ顔である。