初恋が終わる
「ずっと、あなたが、好きでした」
彼女は、ゆっくりとそう言った。
微笑んだまま。銀色に輝く双眸を潤ませて。
視線の先の貴公子はうろたえ、側にいる少女と彼女を交互に見る。
「ですから、お気になさらないでください。私の身の振り方は家の方で決めますので。ああ、これ、お返しします。遅くなって申し訳ありませんでした」
真っ直ぐな朱金色の髪が、風に揺れる。
夕日にも似た、美しい髪。
珈琲色の、艶のない髪の下には艶やかな色が潜んでいた。
厚いレンズの奥の瞳が澄んだ銀色だとは知らなかった。
貴公子とは、数年前に婚約したというのに。
細い、少し荒れた手が、乳白色の手巾を差し出した。
「――これは…」
「湖の畔で、私の頬を冷やして下さったときの手巾です。少し刺繍させていただきました」
「君だったのか!」
「お気になさらず。あなたは父親になるのでしょう?過去は過去としてお捨て置きください」
「いや、君だと思って…」
「それ以上は口になさらないで。どうか、彼女をお願いします。私はこれ以上は何もできませんから」
彼女は微笑み、貴公子の隣にいる少女に視線を移す。
「リリアーヌ嬢。もう、私は貴女に何もあげられないわ。でも、私の分まで幸せになってね」
「――おねえちゃん」
「もう、貴女のおねえちゃんではないわ。貴女は、ウィリアム様の御子を身に宿しているのでしょう?母親となるのです。御子を守り、ウィリアム様をお支えしてね?」
「なんで?おねえちゃんはおねえちゃんでしょ?」
「貴女がウィリアム様の妻になるためには、私は邪魔なの。消えなきゃいけないの」
ゆっくり、言い聞かせる彼女に少女は頭を振り、近付いていく。
「なんで?おねえちゃんがいないと私…っ!」
「大丈夫よ。貴女にはお父様お母様がいらっしゃるわ。ウィリアム様もね。だから、私は、いらないわ」
さりげなく、彼女は後ずさる。
立ったままでの会話にしては重いが、逃げることができるのは不幸中の幸いだと、内心で溜息をついていた。
「ローザ?どういうことだ?」
「上位貴族からの婚約破棄ということはそれだけで下位貴族にとっては大事ですの。私は、フィーアウトの家から出なければなりません。私の為にも、フィーアウトの為にも」
「――私の家に来てくれれば」
「書類上は『フィーアウト伯爵家の娘』になっていますので、私から彼女に替っても齟齬は生じません。私のことはお気になさらないでください。彼女のことだけをお気になさってください」
アホなことを言い出す貴公子に無表情に彼女は言った。
「……おねえちゃんおねえちゃんおねえちゃん…」
ぶつぶつと呟く少女に二人は視線を向け、凍りつく。
少女の手には小さな糸切り鋏が握られていた。
それ以上に異様なのが、少女の眼だった。
いつもにこにこ笑んでいる少女が今は、虚ろな眼でぶつぶつ呟きながら糸切り鋏を握りしめている。
愛らしい容姿も相まって、怖い。
「リリアーヌ…?」
「おねえちゃん、ちょうだい?かみもめも、ちょうだい?まえもいったのにくれなかったね…?」
少女が一歩踏み出す度に、彼女は後ずさる。
視界の端で周辺を確認し、逃走経路を考える。
それでも、背を向けたらおしまいなので、とにかく、後ずさる。
「なんで?なんでくれないの…?おねえちゃんのものは、わたしのものでしょ…?」
熱に浮かされたような声に、彼女の頬が引きつる。
「私は、私のものよ。貴女と私は赤の他人よ」
「ちがう。おねえちゃんじゃない。ずっとおねえちゃんじゃない。わたしのおねえちゃん」
いきなり駆け寄る少女を確認し、彼女は走り出す。
「なんでにげるの」
声に応える余裕はない。
糸切り鋏とはいえ、刃物を振りかざした人物が向かってきたら普通逃げる。
「ウィリアム様っ!」
貴公子は、硬直したままだった。
自分の名を呼ばれても尚、立ち尽くす。
質素とはいえ、ドレスを着て逃げるのは少々しんどい。
「マレーネっ!」
人間やめました、という風情の少女が真横に吹っ飛んだ。
「リリアーヌッ!」
「大丈夫か、マレーネ、怪我は?」
いきなり現れた騎士は彼女の頬を撫で、腕を優しくさする。
「大丈夫です。ありがとうございました」
「何をするんですか!リリアーヌは妊娠しているのにっ!」
「知るか。妊婦であれば人を害して良いとどの国で認められているのか言ってみろ!」
黒銀の長い髪の、精悍な顔つきの騎士は貴公子を睨む。
「…っ、それでも、やりようはあったはずだっ」
「そんなことより、早く医師に診せた方が良いのではなくて?」
より大きな声で話しながら数人の男女が現れる。
護衛らしき騎士の制服を纏った男性たちは、激しく暴れる少女を地に伏せさせ、糸切り鋏を取り上げた。
「ヴィクトリア様!」
「大丈夫?」
銀色の髪の麗人が彼女を抱きしめる。
優しく、背を撫でられ、安堵の吐息を漏らす。
「早く、医務室へ連れてお行き。グレッグ侯爵子息、だったわね?貴方も付き添ってね?」
「私の近衛を貸すから早く行った方がいい」
「王太子殿下!なぜここに!」
「気の置けない友人たちと婚約者と茶を飲みに来ただけだ。貴殿こそ、何故こんな所で騒ぎを起こす?学園中に広がったぞ?いいから、医務室へ行け。命に関わるかもしれないのだから」
「……っ、失礼しますっ」
走り去る貴公子を見送り。
遠目からでもキラキラ輝く集団は彼女を取り囲んだ。
「大丈夫?」
「怪我はしていない?」
「痛いところはない?」
「こわかったねーもう大丈夫だからねー」
「うちの護衛を貸すわ」
口々に優しい言葉を掛けられ、彼女の肩が震える。
「大丈夫です。怪我もしていません」
「マレーネ、耳が赤いわ?」
「照れてるの?」
「可愛い!」
「からかわないでくださいっ、初めっから見てたんじゃないんですか」
「いや、さすがに途中からだよ。なんだっけ、『湖の畔で~』あたり?詳しく訊きたいなあ」
黒に黄金の光を織り交ぜた王族の髪を持つ青年は微笑みながら言った。
「私は、『おねえちゃん、ごめんね?おねえちゃんのぶんまで幸せになるから』あたりから?」
「殆ど全部じゃないですかっ!」
硬質な銀色の髪の美女の言葉につい、彼女は叫ぶ。
「いやあ、凄い茶番でつい見入っちゃったんだよねえ…」
「ハルさん抑えてたけどね」
「アレが噂の『お下がり姫』か、と感心してたんだよ」
「ハルさんマジでブチギレモードだったけどね」
「いいもん見せてもらったわ」
「茶でも飲もう?まだ、落ち着いていないだろ?」
「ハルさんやさしー」
「クィントゥス、少し黙れ」
「お湯が沸きましたのでお茶淹れますよー」
数人の男女は口々に言いたいことを言いながら侍女の言葉に茶席に向かった。
「――マレーネ?」
すとん、とその場にしゃがみ込む彼女。
「――安心したら、腰が抜けたようです……」
耳を赤くして俯く彼女の背をそっと、黒銀の髪の騎士が撫でる。
「少し、落ち着こう」
「ピクニックみたいでいいわね」
侍女たちが素早い動きで芝の上に敷物を広げ、軽食を並べ始める。
軽々と彼女を抱き上げ、騎士は揺るぎない動きでその上に座りこんだ。
彼女を膝の上から逃さないまま、侍女から茶を受け取り、彼女に渡す。
「…あの……」
「どうした?」
「ちゃんと座りたいのですが」
「落ち着いたらな」
女性陣は微笑みながら、男性陣は砂でも吐きそうな表情でその様を眺める。
そうして、ゆったりとしたお茶の時間が始まった。




