眠るなら一人が良い
「なんだ、来たのか」
迷惑がっているような声色ではなく、どこか悪ぶっていると言うか、皮肉屋って言うか、斜に構えたような声で先生は俺に向かって告げた。
「先生の奥様より、ご連絡をいただきました」
短く答えると、そうか、と、軽く先生は笑った。
最後に見た五年前よりも、少し痩せたように思う。いや、年を考えれば、そういうのもなのかもしれないけれど。
ただ――。
一目見た瞬間、先生らしくない場所だと思った。
俺が大学を卒業するのと同時に定年退職した、専任講師だった先生。研究室は、微生物の大手の教授に間借りする形で、特に出世も望まず、どこか浮世離れしたような人だった。
専門は自然科学。
どちらかといえば、昔の草木染や天然の染料、微生物の色素に関する部分の研究……というか、そうしたジャンルの他人の研究を手伝いつつ、自分自身の研究を持たずに過ごしている人だった。
講義は面白かったものの、そうした大学に飼われていない立場上、権力的には弱かったので、俺以外の学生は、それほど親しく先生と関わらなかった。せいぜい、一年の時に遊び半分で単位稼ぎに授業を受ける程度だ。
ただ、俺自身もあまり他人と歩調をそろえるのが苦手というか嫌いではあったし、他の研究室のように教授をトップにその下をポスドクや助手、副手、院生と固めていくピラミッド型の社会構造の一部になれもしなかったので、必要以上の時間は先生の講義を手伝って大学生活を過ごしていた。
「始業のチャイムが鳴ると同時に研究室を出て、ちょっと遅れて教室に着き、終業の鐘が鳴れば延長せずに途中でも切り上げる。それが、今時の学生にとっての良い先生像さ」
そう、皮肉に口をゆがめて笑う顔が一番印象的だった。
そして、そんな物言いは、いつのまにか俺自身の癖にもなっている。妻に言われるまで中々気付かなかったが、癖を指摘されれば、先生からうつったものが多かった。
なんとなく、親父のように思っていたのかもしれない。
尤も、自分自身の父親は普通のサラリーマンで、正直、どんな人かと聞かれても答えに困るくらいに印象が薄いんだけど。
いや、だからこそ、こうした飄々とした感じの人になりたいと思って吐いてきたのかもしれない、けど。
「こういう時は、遅れてくるものだろ?」
先生が、真っ白な病室で、機能的なベッドの上で俺をからかう。
「まあ、ドラマや映画では、間に合わなくて号泣するのって定番ですけどね」
はは、と、先生は楽しそうに笑った。
自然科学を教えていた先生は、てっきり、あの和風の家で最後を迎えるような、そんなイメージを……勝手な想像だけど俺は持っていた。病院で機械に囲まれて、というのは――もっとも、弱っているのは一度開いている心臓だけで、食事やその他の部分に問題は内容なので、管でつながれたという感じではない――、少し違和感があった。
すっと目を細めて俺を見てから、先生が口を開く。
「子供や婆さんの迷惑になるからな。死体の扱いに、今時の人は慣れてないだろ?」
そう言われれば、成程、という感覚だけど、先生としてはそれでいいんだろうか?
しかし、そんな俺の疑問もお見通しのようで、したり顔で付け加えられてしまった。
「寝床が変わると寝付けない、って性質でもないしな。結果が変わらない以上、どこでだって同じだ」
まだ、俺はそこまで悟れない。
が、まあ、先生がご自身で決めたのなら、それでいいとは思う。
それから……。
とりとめもない話をした。時事問題や、勤め先での俺の状況、先生の孫の話など。
昔、先生が入院していたときの経験から、病状を気遣うようなことは言わなかった。家族が充分に心配しているので、俺はこういう立ち居地でいるべきと怒られていた。
俺は、先生自身の血縁じゃないかこそ教えられる事っていう物がある、らしい。どうしても、身内にはしがらみが出てしまう、とは先生の言だ。
多分、俺は先生に似ているんだと思う。
コピーというわけではないし、俺自身の視点もきちんとあるので先生のようになりきれはしないけど、色々と受け継ぐ対象としてはお眼鏡に適ったってことなんじゃないかな。多分、だけど。
二時間ほどゆっくりしてから、話題もつき、自然とお暇の流れになった。その間、先生の奥様も子供さん達にも会わなかった。
かえって気を使わせてしまったのかもしれないな。先生、結構気難しいところもあるし。
「おう」
病室を出ようとすると、背後から呼び止められ、回れ右して先生に向き直る俺。
「次は、葬式までくんなよ」
「なんですか? それ」
意図が分からずに、半笑いで俺は訊き返した。
しかし、先生は真面目な目で――、表情はいつもどおりの斜に構えた笑みを浮かべ、
「一人で眠るのが怖いって歳でもねぇんだ。……眠るなら一人が良い。最後は自分自身とだけ向き合って、ねぎらってやりたいんだ。無理させてきたからな、この身体にも。お前は、弔辞でも考えとけ」
一瞬言葉が飛んでしまい、上手く口が動かせなかった。
ニイと、先生に悪そうな笑顔を向けられ、ようやく俺はいつもの顔で言い返した。
「それは、どうぞ息子さんにでも」
再びドアへと向かって歩き出す。先生からは、もう声は掛からなかった。それでは、と告げ部屋を出る。おう、だか、うん、だか、そんな声だけがベッドの方から聞こえた。
ノブを捻って軽く押せば、パタンと病室の扉は閉じ、目の前には無機質な病院の風景広がっているだけだった。