バタフライ・エフェクト
その白い蝶が見えるのは、決まって誰かが死んだ時だった。
鼻先を掠めた蝶に誘われるように振り向くと、若いOLが白を纏って人混みに消えていく。
黒いスーツの無表情な背中をぼんやりと見送って、ああ、誰か近しい人を亡くしたんだろうな、とぼんやり思った。
こんな縁起の悪いものが一体いつから見えるようになったのか、私にもはっきりとはわからない。
ただ、いつしかこの不気味な蝶の存在を嬉々として語るようになった私を見て、祖母は言った。
「野乃ちゃんは、きっと仏様の御遣いなのね。」
今思えば見えるだけで御遣いなど馬鹿らしいにも程があるし、第一この白い蝶が死者の魂である確証なんてこれっぽっちもないのだが、まだ小学二年生だったその頃の私は大好きな母方の祖母が言ったこの言葉を何の躊躇いもなく信じた。
信じたからといって私のちっぽけな手でできることなんて皆無なのだということは、その母方の祖母が亡くなった小学六年生の時に嫌という程思い知らされたのだが。
あの時、白い綿の着物を纏い、色とりどりの花に埋もれるように柩に横たわる化粧を施された生気のない顔を見ながら、私は自分の無力さに呆然と立ち尽くした。
人々のすすり泣き、黒い縁の内側で静かに微笑する祖母の遺影、葬儀場を埋め尽くすほどに湧きあがっては天井の向こうに消えてゆく真っ白い蝶の羽ばたき、届かない声──
「……っ、……。」
どん、と肩に衝撃が走り、思考が中断される。
髪を人工的な金の輝きに染めた青年が、なにぼうっとつっ立ってんだと言いたげに睨んでくるのに軽く頭を下げ、私は忘れかけていた帰宅という目的を果たすべく歩き出した。
高校二年生になった今でも白い蝶の幻影は消えないし、私が無力であるという事実も何一つとして変わらない。
いるのかどうかもわからない神様か仏様が一体私に何をさせたいのかもわからない。
わからないけれど、現実として見えてしまっている以上、何か意味があると思いたくなってしまうのは自然の流れだろう。
溜息を吐き、ゆっくりと歩を進める。
帰り道は残り半分、川の近くにさしかかったところだ。
沈みかけの夕日に土手の芝生が照らされて、血染めのように真っ赤に染まっている。
夕暮れ、暮れなずむ街。
日は沈んでまた登り、世界は新しく生まれ変わる。
再生する。
真っ直ぐ家に帰る気にもなれず、河原に腰を下ろして太陽の光を反射し波打つ川面を眺めてみる。
水が流れていくのを見るのは心地良い。禊のイメージもあながち的外れではないのかもしれない。
「……なんてね。」
久しぶりに白い蝶を見たからだろうか、こんな感傷的な気分になるのは。
らしくない、早く帰ろう。
家に帰って寝てしまえばすぐ忘れる、その程度のものであるはずだ。
そう自分に言い聞かせ、立ち上がろうとした時。
視界の端を、白いものが掠めた。
「え……っ、」
慌てて振り向くと、夕日に煌めく芝生と戯れるように一羽の白い蝶が飛んでいた。
否、一羽ではない。
地面から湧きあがるように、あとからあとから蝶が現れては天に向かって羽ばたいていく。
まるで、あの時のように。
誰かのすすり泣きが、聞こえた。
「お祖母ちゃん……っ!」
反射的に手を伸ばす。
あの時掴めなかったものを掴もうと、高く、高く。
(野乃ちゃんは、きっと仏様の御遣いなのね。)
本当に御遣いだというなら、今度こそ。
「届け……っ!」
飛び去ってしまう前に、今度こそ抱き締めて、離さないように──
「……っ!」
ばしゃん、頬に跳ねた冷たい感触で我に返る。
強く瞑っていた眼を開くと、揺れる水面が先程より近くに見えた。
寒い。服が水を吸って気持ち悪い。
そこで初めて、川に落ちたのだと納得した。
傍から見たら完全に、ひとりで叫んで暴れてあげく川に落ちたおかしな女子高生だ。救いようがない。
「何ばかなことしてんだろ、私……。」
固く握りしめた手を開いてみても、掴んだものは何もない。
わかりきっていたことだ。私のちっぽけな手で掴めるものなんてたかが知れていることくらい。
それでも願ってしまう、私にできることを。無力さに苛まれ押し潰されそうな時は、いつも。
「……帰ろ。」
そうやって私はいつも、救われる日を願っている。
蝶々効果。