世界で一番好きな彼
『拝啓 初春の候。父上、母上のお二人におかれましてはご健勝のことと、お喜び申し上げます』
だぁああ! 違うっ! なんで、こんなくそっ堅い内容の手紙なんて書かなきゃいけないのよ!!
筆を滑らせ始めてわずか十数秒で、ルチルは真新しい便箋を破り捨てた。書かれた内容が自分の普段とはかけ離れすぎていて、なんとも気持ち悪い。あまりのことに、便箋を破った後、丸めて地面へポイ捨てしてしまったほどだった。
それを見た夫が少しだけ居心地悪そうに身じろぎ、ごみを拾ってくずかごに捨ててくれている。
ある意味、理解のある優しい夫だ。嬉しいのは嬉しいけど、構ってられないからルチルは再び便箋に向けて臨戦態勢に入る。
――――まずい。
いつも手紙を書くように、同じペースで便箋を破って捨ててを繰り返していたら、便箋がなくなってしまう。せっかく夫が買ってきたばかりの真新しい便箋だというのに、勿体無いではないか! この便箋を使い終わったら、次はいつ買ってきてもらえるかも分からないのに。
ここは、慎重にならざるを得ない。
ルチルは手紙を書くのが下手だった。人を目の前にしてのおしゃべりなら、同世代の女の子の中でも結構喋るほうだというのに、便箋を前にすると、普段の自分の口調が思い出せなくなる。ましてや、手紙として形が残るものである以上、文面は相手を傷つけるような内容であってはならないから、その書き方にも気を配る。けれど、それと相反するこの直情的な性格。
結果、気分の赴くままに書き始め、筆が多少乗ったあたりで『こんな書き方、あるかっ!』と自分でその手紙を全力で否定する。感情のままに便箋を破り捨てて、あたりへと書き散らし、部屋の中をぐっちゃぐっちゃにしてようやく無難な内容が出来上がる。
ルチルが筆不精になるのも仕方のないことだった。
こんなことだから、マメに週一回の手紙を欠かさずに送ってくれていた前の恋人とは反りが合わずに結局分かれることになったのだ。
――――話が脱線している。
ルチルは改めて、夫が買ってきたレターセットを見つめた。
可愛らしい花柄のあしらわれた便箋。自分で買うならまずチョイスしない可愛らしいものなのだが、夫がどんな顔をしてこれを買ってきたのかを考えると、文句はなかった。むしろ、こうして文明の利器にありつけるだけ、マシだろう。
真冬になると冷たさが身にしみる洞窟暮らしのルチルは岩の隙間から零れてくる光を頼りに手紙を書いている真っ最中。
夫の手からレターセットが手渡されたとき、不覚にも涙が出そうだった。書いた手紙も必ず届けてくれる、という優しい言葉に、思わず彼に抱きついてしまったほど。
けど今から思い返してみれば……それって普通の夫婦として当たり前じゃない?
――――そうか。自分たちは『普通』ではないから仕方ないのか。
手紙の内容を頭で先に吟味する。とりあえず、書かなければいけないのは、自分の現状だろう。唐突な手紙だから、両親はきっと驚く。下手をすれば、死んだものとみなされている娘からの手紙なのだ。慎重に慎重になることに越したことはない。
ルチルが真剣になって手紙に取り組み始めると、ふとそれを見下ろしていた夫が『きゅるる』と鳴き声をあげた。
彼の赤い瞳はルチルのよりもずっとずっと大きい。その瞳が心配そうに揺れている――――のかと思ったら、単にルチルの意識が手紙に向かっていることが気に食わないというだけだったようである。『構って』とばかりに硬い尾尻尾が腰に絡みつき、ルチルは眦を吊り上げる。
「ダーリンッ! 一体、誰のせいでこんなことになってると思ってるの!?」
『……』
「全部ね、ダーリンのせいなのよ! ダーリンが、急に私を浚うとか、訳わかんないことするから、私、親に顔合わせられなくなってるんじゃないっ! 今、その二人に手紙かいてるところなのっ! 邪魔しないでっ!」
あまりの形相にさすがの夫も遠慮したらしい。名残惜しげに尻尾を下げ、『しゅうん』とばかりに肩を落としてしまったのだが、当然だと思う。むしろ、たまには反省くらいして欲しい。
そのままルチルは手紙相手に格闘。夫は洞窟の端っこで大きな巨体を丸めて、小さくなっていたのだが、そのこう着状態に耐え切れなかったのは、ルチルのほうだった。
「ダーリン出てって」
『……?』
「駄目。ダーリンがいると、集中できない。私、今日中にこの手紙を出したいの。早くしないと――――二人とも、心配してるし」
下手をしたら――――と思い唇をかみ締める。
最悪な状況を夫に知らせるのは、そのときが来たらでいい。
ルチルの言葉に夫は悄然と首を垂れた。けれど、同じ言葉を繰り返すと、ふらり、と立ち上がり、その背にたたんだ翼を広げた。
広がる赤の鱗。それに覆われた風きり羽根は、堅そうに見えるその外見に反し、意外に柔らかで暖かい。羽毛布団のような温もりに昨夜もきっちりその恩恵にあずかったルチルは彼のことを『怖い』だなんて思わない。
たとえ、身長が10メートルを超えていようと、自分を一呑みで食べてしまえそうな大きな口があっても、鋭い鈎爪や牙があろうとも、口から火を吹こうとも! それでも、彼のことが怖くない。だって、ルチルは彼がルチルに優しいことを、知っているからだ。
ルチルの夫は、しばらく逡巡するかのように、ルチルを見下ろしてきていたのだが、彼女はそれに気づかないフリをした。『怒ってるの』というポーズなのだが、ぷい、と横を向くだけで、夫が大きくため息をついて、落ち込むのが分かる。
優しすぎる夫。
不意に彼が飛び立ち、やがて、洞窟にはルチル一人だけが取り残された。大空を舞う夫を見送り、ルチルは思わずその優美さにため息をついてしまう。
紅い鱗の火竜。
世に『炎帝』と呼ばれるドラゴンが、ルチルの夫だった。
ルチルと彼との出会いは、おおよそ、半年前にさかのぼる。
たまたまハイキングに来ていた彼女と、ちょうど同じ場所で水浴びをしていた炎帝。
両者は見つめあったまま動けなくなってしまい、情熱的に一瞬で恋に落ちる――――わけがなかった。
ルチルは彼を一目見て、盛大な悲鳴を上げた。一緒だった友人らも、巷で噂の『人食い竜』が出た! と悲鳴を上げ、皆一目散に逃げ出したのだ。一番彼に近かったのがルチルで、最初に悲鳴をあげてしまったのもルチル。よく訳のわからない間に、その爪でひょいと服を引っ掛けられ、気が付けば巨大な竜の鈎爪だらけの危なっかしい手のひらの上。
『助けてぇええ!』と友人に救援を叫ぶ中、浚われてしまい、この洞窟に連れてこられてしまった。
自分は保存用の食料なのだと、自らの死期と悟って、えぐえぐ泣くルチルに、けれど、驚いたことに炎帝は何も仕掛けてこなかった。
後で聞くところによると、彼もパニックを起こしていたらしい。とりあえず、人間に驚いて、一番叫んでいる人間の口をふさごうとしたらしいのだが、巨大なドラゴンの手でふさいだら最後、人間はあえなくお亡くなり。それならばと両手で密封した空間を作り出し、黙らせようと思ったらしいのだが、人の数が多すぎる。
――――結果、一人をつかんだところで自分のとった策が間違いだったと悟った彼は更に、更に動揺してしまい、ルチルをつかんだまま自分の家に逃げ帰ってしまったらしいのだ。
なんとも表現できない――――へたれっぷりだった。
えぐえぐと泣いている女の子を見て、どうにかしようと思ったらしいのだが、爪でひっかけたら、それだけで死んでしまいそうな女の子。もう一度手のひらの上に乗せて、元の場所に返すこともできないし、そのときはちょうど、お腹も一杯だったので、食べる気もしなかったらしい。
そのときの彼のお腹事情にはこの上なく感謝している。ルチルと彼とが出会う直前に、その犠牲になった牛さんには感謝してもしきれない。後で話を聞いて、ルチルが、骨を拾い集めて、お墓を作ってしまったほどだ。
とにかく、なんやかんやで、1週間が過ぎる頃、ルチルは自分を食べない竜にあまり恐怖を感じなくなってしまっていた。
むしろ、『お腹すいた』と呟けば、森中の果物を全部取ってきました、と言わんばかりに、山ほどの食べ物を運んでくれたり(最初は生肉を前にどん、と置かれて『どう食えと?』と心底悩んだし、自分を丸々太らせて食べるつもりなんだと泣きじゃくった)、寒さに震えれば、その風きり羽根を毛布代わりに暖めてくれたり(これも、最初は、押しつぶされると思って、泣き喚いて逃げた)、寂しさに泣き出せば、精一杯に嘗めて慰めてくれる(最初はやっぱり誤解して、味見されているのだとばかり思って、彼を攻撃までしてしまった)。
それでも、二人の距離はまだ開いたまま。人と獣。お互いに共通の言葉を持たないルチルと彼は、近くにいるのに、その心をすれ違わせたままだった。
それが変わったのは彼が人の姿を取れるようになった時のことだ。ルチルが洞窟から外の様子を見に行こうとして、入り口から転げ落ちそうになったのだ。この洞窟は切り立った崖の中腹あたりに位置している。人が降りられたり、上ったりできるような場所ではなく、だから、彼も気軽に、誰かの襲撃に怯えることなく住んでいられるのだ。
その崖から、腕一本の支えで一気に転げ落ちそうになり、ルチルは再度、死を予期した。その頃にはもう、自分が死んだら、彼が悲しんでくれることが分かっていた。仲良くなんてならなければ、彼はたかだか人間が一人死んだくらいで悲しまなかったのに。人間を餌だと思ってくれているままなら、きっと自分の死骸でも、おいしく食べてくれたはずなのに。
こんなことなら、彼に食べられたかった。
つるり、と手が最後の力をなくして落ちる。そのルチルの手をつかんだのは、巨大な爪を持つ凶悪な手ではなくて、暖かな人の形をした手のひらだった。
――――後で聞いたところによると、竜という生き物は基本的に皆、成人すると好きな姿を取れるようになるのだという。それは、自然界には不釣合いすぎる巨体をその場にあわせて生きようとする竜族のごく初歩的な力で、彼はまだそれを覚えていなかったらしい。巨大な爪のある手では、彼女を助けられない。けど、『助けたい』、『触れたい』と願う彼の気持ちが成長を後押ししたのか、たまたまそのときに、彼の変化の力は開花した。
人の姿になった彼は急速にルチルに近づいてきた。そして、ルチルもまた、自分と同じ人の形をした炎帝に――――してはいけない恋をした。
望めば帰してくれると知っていたのに、願わなかった自分はわがままだと、ルチルは思う。けれど、崖から落ちて、肩を外すほどの大怪我を負ったルチルは当初、彼につきっきりで看病されており、彼は、ひな鳥を守る親鳥のような形相で、ルチルの行動を何から何まで制限し、べたべたに甘やかされてしまったのだ。
前の彼氏と別れて間もない頃だったせいもあるだろうし、彼の言葉はどこまでも自分を誤解させるように、甘く、優しかった。
もしかしたらストックホルム症候群のような、一種の刷り込みに近い状態だったのかもしれないけれど、彼に恋をした。
自分は人間で、彼はドラゴン――――となれば、どうしても番うことはできないし、同じ道は歩めないと分かっていたのに、それでも、と思ってしまったのだ。そして、その状態は今でも続いている。
お互いの思いが通じ合うようになって、三ヶ月。あの衝撃的な出会いから半年も経ったころになってようやく、彼はルチルが家族と連絡を取り合うことを許した。それまでは、他の竜族のやっかみやらがうるさかったので、外へ出すのもはばかっていたようなのだが、最近になってようやく警戒が解けてきたのか、彼が一緒なら外へも行けるようになった。
『ダーリン』なんて、呼ぶのは恥ずかしいけれど、実を言うと、これは今に始まったことではない。ちょっとしたおふざけで呼び始めたのが定着して、その呼び名がたまたま『夫婦』となった二人にとって、蕩ける蜜のように甘くって、気恥ずかしい呼び方に変わってしまっただけ。
『恋人』から『夫婦』への階段を一気に駆け上ってしまった今でも、ルチルはご丁寧にその呼び方を続けている。そして、彼もそれを知っていて、直さない。
本当は、名前で呼ばれたがっていることを知っている。けれど、彼の呼び名はルチルにとって特別なもので、だから普段から口にしたくない、というのが本音。そして、たまにしか呼ばれないその名を呼ばれるだけで満ち足りた気分になれるので、彼もそれを了承してくれていた。
まもなく、自分たちの新婚生活は、転換期を迎える。
ルチルは知っているのだ。先日訪れた街で、炎帝が『人食い竜』として国を挙げて、討伐される話が出始めていることを、聞かされた。そして、その発端となった事件は、たまた近くの村の少女らの一人が炎帝と思しき『人食い竜』に浚われて、殺されてしまったことだという。
その少女の特徴と、村の場所は、一致した。
だから、きっとそれは自分のことで。自分のせいで、彼が、殺される話が出ていて。
手紙を書く最中にぽろり、と水滴が便箋に落ちる。父と母に、自分が生きていることを告げて、今は、彼と一緒に住んでいて、幸せ一杯になれていることを伝えているだけなのに、それだけで涙が溢れた。
彼の手元から、離れていくだけで――――すべてが丸く解決できればいいのに。
けれど、火種はすでに大きくなりすぎた。ルチルが周囲に無関心でいたために、逃してしまったタイミング。彼が死んでしまうかもしれないだろう訪れを、はっきりと感じ取ってしまった彼女は精一杯にあがくことを始めた。
『お父さん、お母さん。親不孝でごめんなさい。それでも、彼が好きなんです。彼は、私が世界で一番好きな彼なんです』
書いた後、読み返して恥ずかしくて便箋を破ってしまいそうになった。けれど、それが偽らざるルチルの本心。
彼女はしたため終えた手紙を丁寧に封筒の中にいれ、夫の帰りを静かに待った。
――――が、しかし、今度は待てど、暮らせど、彼が帰ってこない!
不安になった。
あれで気の小さい、優しい性格である。ルチルが『出て行って』なんて言うから、それを真に受けたのかもしれない。
――――帰ってこないのかもしれない。
そう思ってしまった瞬間のぞっとするような寒さ。もうそろそろ春なのに、ぞくぞくという寒さが怖くて、ルチルは震えた。
鼻水を啜り上げ、自分の体を抱くように縮こまる。そのまま『ダーリンの馬鹿』と呟くこと、数分間――――空気の震える音を耳が捉えた。
「イヴァルっ!!」
暗い闇夜に向けて、叫ぶ。途端、空気が密度を増し、自分へと向けてまっすぐに飛び込んできた。
ばたばたと髪がはためき、風に吹き飛ばされそうになる中、開いた目の先に、紅い鱗が見えた。
やがて、風が急激におさまり、洞窟の外。入り口に少しだけ離れたルチルには手の届かない位置に、赤の巨体が浮いていた。
燃え盛る紅い焔を宿した瞳。
闇夜を切り裂く光は、何よりも鋭く先を見通し、その猛き翼はどんな遠くでも一瞬のうちに辿り着く。
紅で覆われた鱗は決して、どんな鋭き槍も弓矢も通さず、鉄壁の鎧を誇り、同時にその鋭き白い爪は鉄をバターのように易々と引き裂いてしまう。
炎帝。
『ルチル!?』
「イヴァルッ!」
気が付いたら洞窟の入り口から炎帝に向かってジャンプしていた。
中空に向かって地をけったルチルに炎帝が慌てたような声を上げて、すかさずその手を広げて抱きとめる――――その直後に怒鳴られた。
「死にたいのかっ!?」
燃えるような紅い髪。赤い瞳の青年がルチルをお姫様抱っこにしていた。ふよふよと浮いている人の姿をした炎帝。
その背に羽根はないけれど、人の姿をしていても、本質は竜なので、同じように力をふるえるらしい。
爛々と光る紅い瞳に、驚愕と怒り、そしてわずかな恐怖を滲ませた炎帝がルチルを抱きしめる手に力を込めた。
危なげなどまったくない安定感でルチルを抱きかかえたまま、洞窟の入り口に降り立ち、そのまますかさず10メートルは洞窟のほうへと足を踏み入れる。何かのうっかりで、ルチルが入り口から二度と落ちることのないように、彼はいつもいつも気にしている。
ルチルのことを一生懸命に考えていてくれる。
『何があった!?』と眦を吊り上げて、ルチルのことを心配してくれる夫に向かい、ルチルは叫び返した。
「ダーリンが帰って来なかったの!」
「? ……今、ここにいるが?」
「遅いの! 遅いから、心配したの! 怖かったの!」
子供の言いがかりに近い言い方だった。こんな理不尽な責め方はないだろうに、彼はルチルが本気で泣きそうになっていることを知って、素直に謝罪してくれる。
「すまなかった。俺も、気が動転していて――――何時なのかわからなかったんだ」
「怖かったの! 怖かったの! 言い過ぎちゃった、って、怖かったの!」
「すまない」
きゅ、と再び強く抱きしめられて、安堵する。とうとう押さえようのなくなった涙が溢れてきて止まらなかった。
彼は困ったように息を吐くと、ルチルの目元に唇を寄せてその涙を舌で拭う。
彼を前にすると、自分は子どもに戻ってしまう、とルチルは改めてそれを自覚する。彼が甘やかしてくれるのが分かっているから、ついつい甘えすぎてしまう。
冷静に戻ってみると、恥ずかしいことをしたのが理解できたので、ルチルからも謝った。けれど、その謝罪を聞いて、彼は『気にしていない』と笑う。
「むしろ、それだけ俺のことを心配してくれたという事実が嬉しい。俺は粗暴だし、人間のことは分からないから、貴女を傷つけてしまったことを申し訳なく思う」
「ダーリン……」
好きだなぁ、と思う。
けれど、自分を容赦なく甘やかしつけ、懐に入れてなおも広い、度量の深さを見せ付けられると、その都度、自分は彼に何をしてあげられるのか、と自問するのだ。
――――絶対に守る。守ってみせる。
「あのね、イヴァル――――大好き」
「ルチル。俺も愛している」
――――お父さんお母さん。
これが私が世界で一番好きな彼、です。
呼んでくださり、ありがとうございます。別の連載の最中、ふと元気の良い女の子の話が書きたいと思い、書きました。
もし反響があったら、こっちも連載にするかもしれません。一応、ネタだけはあるのですが、まだつぎはぎなので、検討中。
11/19 久々に誤字修正。