婚約者は穏やかな文官だと思っていたら、実は戦闘系公安官でした
私の婚約者は、細身だ。
透けそうな程に淡い金の髪は柔らかそうで、仕草の一つ一つが洗練されている。
その彼が、細長い指先で眼鏡の位置を直した。私の視線を感じて彼が顔を上げ、ふわりと笑む。
「……どうしたの? アメリア」
ティーテーブル越しの彼。
私は首を振る。
「あなたの翡翠の瞳が美しいなと思って」
カフェの個室。
窓から差し込む光は白い。磨かれた木製テーブルの上を、光がよく滑っていた。
白い陶器の茶器。
ソーサーに戻され、それはごく小さい音を立てる。
彼――レオポルドは小さく首を傾げた。
「アメリアの黒曜石の瞳のほうが、澄んで、綺麗だよ」
「……地味でしょ?」
「まさか。夜空の瞳じゃないか。月の女神の君に相応しい瞳だね」
「何を言ってるのよ」
「君のお父上と、同じ色味だろう?
僕の尊敬するリチャード侯と同じだなんて、素敵じゃない」
私は口に手を当てて、つい笑ってしまった。
「レオポルドはお父様が好きね」
「強……じゃなかった。
聡明で……仕事もできて、まさに尊敬できる上司だもの。憧れるよ」
「お父様をそう言ってもらえるのは、嬉しいけど……。
宰相府の文書課勤務のくせに、あの体格の良さは不思議よね」
彼は、ふっと笑った。
穏やかで優しい笑み。
私はつい、吸い込まれるようにして見つめてしまう。
その時――
個室を隔てていたカーテンの向こうから声がかかる。
「失礼いたします。
ウェストウッド侯爵令嬢様。お迎えの馬車が到着しました」
レオポルドと目を見合わせる。彼は、しょんと眉を下げた。
「もう……時間か」
音を立てずに席を立ち、私のそばまで来ると、彼は手を差し出した。
「お嬢様……お手を」
「ふふ。仰々しいわね」
「そうかな?」
私はその手に指先を添えて立ち上がる。彼の眼鏡の向こう、その翡翠の瞳を見上げた。
彼は、こうして並ぶと背が高い。
細身に見えるけれど、実は均整のとれた体型をしている気がする。
指先を、彼の手から滑らせて肘に添えようとすると、レオポルドはすっと一歩引いてそれを避けた。
改めて私の手を取り、手の上に乗せさせる。
「腕を絡めるのは、結婚してから」
「どうして?」
カーテンを開け、カフェの廊下を進んだ。
「緊張しちゃうから」
「ふふ」
一階へ降り、店の外へ。
石畳で停車するウェストウッド侯爵家の黒塗りの馬車の扉を、御者が開けた。
レオポルドにエスコートされながら、乗り込む。
座席に座って彼の方を見れば、レオポルドはちらりと辺りを見回した。
そして、颯爽と馬車のステップを踏むと一歩だけ車内に入り、私に顔を寄せる。
ほんの一瞬。
頬が触れ合う。
至近距離で、視線が絡む。
甘い微笑み。
それだけを残して、彼はさっと道へ戻った。
「会えるのは、一週間後かな。アメリア」
「えぇ。またね。レオポルド」
手を振れば、彼も小さく手を振り返してくれる。
――チークキスはしても、身体には触れさせないのよね。
御者によって馬車の扉が閉められ、やがて車輪の音を立ててゆっくりと動き出した。
窓から、彼を見る。
まだ手を振ってくれていた。
「……ふふ。変な人」
自分の顔に手を添える。
触れられた頬が、熱い。
――私の婚約者様は、穏やかな文官の彼。
優しくて愛しい、最高に素敵な人。
◇
「ねぇ、お義父上」
「あ?」
王城の裏手にある、灰色の石造りの建造物。三角破風はあるものの、飾り気のない質素な建物だった。
その門柱には〈宰相府文書課〉と彫られているが、それはほとんど傷んでろくに読めはしない。だが、そのことを気にする者は特にいなかった。
その一室。
巨大な執務机に向かっている巨躯の中年の男に向かって、レオポルドは書類を差し出した。
「お前に“お義父上”と呼ばれる筋合いはまだない」
お義父上こと――リチャード・ウェストウッド侯爵はレオポルドからひったくるようにしてそれを受けとる。
机の前に立つレオポルドは、腕を背に回して脚を肩幅に開いた姿勢のまま、にこりと笑んだ。
リチャードの背後にある窓からは、霧に濾された鈍い光が差し込んでいる。
整っているとは言い難い机上、書類の詰め込まれた書架、軍靴で踏まれた傷だらけの木床、それから無数のピンが刺されている壁に貼られた巨大な地図。
その全てに鈍い影を落としていた。
「僕を女神の婚約者に選んでくださったのは閣下ですよ。
愛を持って“お義父上”と呼ぶことに異論がお有りで?」
リチャードは嫌そうに眉を歪める。
「調子に乗りやがって……」
侯爵は太い指で書類をめくった。
「お前なぁ……。
実力は抜群だし、見た目も血筋もいいけど……ちょっと腹黒いのがなぁ……」
「腹黒くない男に“特務官”は務まりませんよ」
「……まぁな」
表向きは〈宰相府文書課〉勤務の彼らは、その実、〈王立秘務局特務官〉。いわゆる公安の男たちだった。
「閣下の場合は、奥様はご存知なんですよね?
なぜ、アメリアには教えないのです?
そのおかげで僕は苦労しているんですけど」
「アメリア“嬢”な」
リチャードは眉を寄せてちらとレオポルドを見る。澄ました顔をして静かに立つ男は、文官にも特務官にも見える。
「箱入り娘として大切に大切に育てた結果、のんびりした娘になってしまってな……。
ちょっと言えない空気に……」
レオポルドの眼鏡のレンズに光が反射し、その翡翠の瞳は隠されていた。
「僕、着やせする人なので細く見えますけど、胸や二の腕に触れられたら即バレてしまいます。筋肉質なことが。
あと、脇にも武器仕込んでますし――」
「つまり?」
「閣下がちゃんと伝えてくれないと、僕はいつまでもアメリアを抱きしめられない」
「わかった。一生言わないでおく」
「えぇ!?」
リチャードは書類を机上に放る。
「それにしても、この調査書……」
「はい。身辺お気をつけください。僕たちを嫌う人間は多いので」
「……お前もな」
「昔、閣下が処理をした一味の生き残りですよ? 狙われるのは閣下では?」
リチャードが立ち上がる。
レオポルドは背が高いが、リチャードはさらに背が高い。
「お前は俺の息子だろう」
「まだ他人です」
レオポルドは一礼すると、さっさと踵を返した。扉に手をかけ、ふと振り返る。
「ちゃんとアメリアに“自分は公安の人間だ”って伝えてくださいね。
――パパ」
「うるせぇ!」
リチャードが投げたペンホルダーをレオポルドはさっと避けると、扉の向こうに滑るようにして出ていった。
木床に、小さく音を立ててペンホルダーが落ちる。
「今のよく避けたな……」
リチャードは椅子にどさりと腰掛け、窓の向こうを見た。
「……生き残りか……。何も無ければいいが……」
白髪の混ざり始めた黒髪をかきあげると、彼はまた机に向き合い、書類を手に取った。
几帳面なレオポルドの文字。
それを見て、小さく息を吐く。
◇
「あら?」
先日とは別のカフェの個室。
落ち着いた深色のベルベット張りの一人掛けソファに私とレオポルドはそれぞれ身を預けていたが、私はカップをテーブルに置いた。
猫脚のテーブル。
四隅には螺鈿が埋め込まれ、それがテーブル上のランプの明かりを滑らせている。
昼でも厚手のカーテンが引かれた部屋は、どこか夜の静けさを思わせた。
斜め向かいに置かれたソファに座る彼の頬に手を伸ばすと、レオポルドはそれをすっと避けた。ハッとしたように、彼は自分で頬に手を触れている。
「……何?」
「傷?」
レオポルドの細い指が、自分の頬をなぞった。
「あ……あぁ、この間紙で切ってしまってね」
「まぁ……そうなの」
「ふふ。どんくさいでしょう?」
私は首を振る。
レオポルドは宙に浮いたままだった私の手を取るとそっと握り込んだ。
「いつも、忙しそうだもの。書類もたくさん扱うのでしょう?」
「書類は、確かにたくさん扱う。毎日毎日調べものだよ。
紙もなかなか重いからね。腕が鍛えられちゃうかな」
「まぁ」
私が思わず笑うと、レオポルドは瞳を優しく細めた。
「……何か、閣下は仰っていた?」
「え?」
翡翠の瞳が、まっすぐに私を見つめる。
「いえ……特に変わったことは」
彼は一瞬向こうを向く。
「ちっ」
「……え?」
レオポルドは咳払いをして、もう一度こちらを向いた。
「いや、なんでもないよ。閣下は僕なんかよりよっぽどお忙しいから、疲れてらっしゃるんじゃないかと思ってね」
「そう。優しいのね。レオポルドは」
彼は苦く笑う。
「ねぇ、もし僕が書類運びの毎日で、鍛え上げられた身体の持ち主になったら……アメリアはどう思う?」
「紙は重いから?」
「そう」
私が首を傾げると、彼も追いかけるように首を傾げた。
「そんなあなたも、素敵だと思うわ」
彼は私の手を握ったまま、少しだけソファから身を乗り出す。
「本当にそう思う?」
「えぇ。あなたがお父様のように筋骨隆々になっても、お太りになっても、髪の毛が減ってしまっても……。
あなたがあなたなら、それでいい。私が好きなのは“あなた”だもの」
私が微笑んで言うと、彼の動きがとまった。
「……レオポルド?」
彼は私の手を離し、頭を抱えて何事かつぶやいている。
「くそ……抱きしめたい……」
「……何か言った?」
レオポルドは姿勢を正すと、顔をこちらに向けて甘く微笑んだ。
「何でもない。
それにしてもこのカフェは、噂通り、雰囲気があるね。
アメリアの黒曜石の瞳にランプの明かりが映り込んで、星の瞬く夜空を眺めているようだ」
「あなたの翡翠の瞳だって、翡翠と橙が混ざり合って神秘的だわ」
視線を絡めて、微笑み合う。
甘くて、穏やかな、大切な時間。
あっという間に時間は過ぎて、私は家の迎えの馬車に乗り込む。
いつものように、レオポルドはそっとチークキスだけをすると、すぐに離れていった。
扉が閉められてしまう。
窓から彼を見る。
手を振ってくれているレオポルド。
先程までは晴れていたのに、重たい雲が空を這っていた。
その時、ほんの一瞬だけ、彼の翡翠の瞳が何かを追うように細められた気がした。
私は空を見上げた。
――雨が降ってきそう。
だからかしら?
彼の姿が遠ざかる。
私は背もたれに身を預けた。
馬蹄の音と、車輪が石畳を打つ音。
「また一週間後か……」
――寂しいわ……。
遠くで、ゴロゴロと雷の低い音が鳴っていた。
ウェストウッド侯爵邸に馬車が向かうその道中。王都の整った石畳の道を抜け、ほんの短い時間、馬車は疎林を通る。
振り出した雨が馬車の屋根を叩いていた。
木の葉が光を遮り、車内は向かいの座面が見えないほどに暗く沈む。
稲光。
間を置かずに、雷鳴。
続いて、馬の嘶き。
途端に――馬車が激しく揺れた。
「お嬢様! 伏せて!」
御者席から声。
私は慌てて頭を抱えるようにして、馬車の床にしゃがみ込む。
雨が降れば、道がぬかるむ。
私は、馬車が車輪を滑らせたのかと思った。
だが、外から響いて来るのは、金属の打たれるようなかん高い音。
――まさか……剣戟?
肌が粟立つ。
車体が振られる。
耐えられず、背を閉め切られた扉に打ち付けた。
外からは、怒声。
――襲撃にあっているの?
怖くて、立ち上がれない。
窓から外を覗くこともできず、震えて馬車の壁に身を預ける。
激しい揺れに舌を噛まないよう、歯を噛み締めた。
その時、馬車の扉が激しく外から叩かれる。
驚いて離れようとするも、馬車の揺れに身体がろくに身動き取れない。
――狙われているのは、私?
――どうする?
――どうしたらいい?
御者の彼は護衛も兼ねた男ではあるが、たった一人。
喉が張り付く。
声さえ出せない。
ただ無力に、扉が叩かれるのを震えて見ているだけ。
――怖い。
金属が軋む音。
車体が傾く。
馬車が壊れてしまうかもしれない。
ふと、脳裏によぎる、彼の姿。
――レオポルド……。
白金の髪。柔らかい翡翠の瞳。
――怖い……。助けて……。
扉が、打ち破られる。
瞳を強く伏せた。
「……レオポルド!!」
開いた扉から、雨が肌に叩きつけられる。
外から腕を強く掴まれ、引かれた。
車体の外に引きずり出されそうになる。
――嫌だ!!
「アメリア!!」
声。
目を開けた。
私の腕を掴んでいるのは、レオポルド。
――嘘。
「車輪が外れかけてる!
もう馬車がもたない! 跳べ!!」
――なぜ?
考える余裕なんてない。
私は、跳んだ。
彼の胸に。
全速力で駆けていく馬車。
それに並走して馬を駆るレオポルドの腕に引かれるまま、飛び込んだ。
力強い腕。
その胸に強く抱き込まれる。
レオポルドが後ろを振り返ってから、前を向いた。
「もう馬車はもたない! お前も飛び降りろ!!」
彼の視線を追う。
侯爵家の御者が、御者台から飛び降りるのが見えた。
レオポルドに抱かれたまま、私は彼の背後に目をやる。
馬に乗った黒衣の男たち。
三騎。
私たちを、追いかけてくる。
ぞわりと肌が震えた。
「……あの人たちは」
私の声は情けないほどに震えている。
レオポルドの顔を見上げる。
私の背に回された腕に、ぐっと力が込められた。
「大丈夫。絶対に守る」
彼は私を抱いたまま、手綱を強く引いた。
馬が嘶きを上げながら急停止する。
血だらけの御者が私たちに駆け寄った。
「レオポルド様!」
御者が声を上げる。
レオポルドは私を横抱きにすると、馬から飛び降りた。私を立たせ、御者の男の肩に手を置く。
「あいつらは任せろ。アメリアを頼む」
「だが……」
「事務所には人を走らせた。閣下たちもすぐ来てくれる。
僕なら――やれる」
「……わかった」
レオポルドがフロックコートを脱ぎ、私の頭からそれを掛けた。
「濡れないようにね」
そして、背を向ける。
「……レオポルド?」
彼は、少しだけ振り返った。
彼の髪は、しっとりと雨に濡れている。
フロックコートを脱いだ彼が身につけていたのは白い高襟シャツとウエストコート。
それから、隠されていたかのようなショルダーホルスター。
そこに挿されていたのは、リボルバーと予備弾。
腰の革ベルトにはダガーナイフ。
――なぜ、あなたが武器を?
私が眉を歪めるも、彼は静かに眼鏡を外して、ウエストコートのポケットに押し込んだ。
「待ってて」
甘く、微笑んだ。
そして、駆け出す。
「レオポルド!」
「お嬢様!」
追いかけようとした私の腕を御者が掴んだ。
「あいつなら、大丈夫ですから!」
「でも……彼、文官なのよ?」
御者が眉を寄せて、視線を泳がせた。
「えっと……。とにかく大丈夫ですから!」
視線でレオポルドを追う。
雨。
彼の足もとを泥が跳ねる。
彼が腕を振り抜く。
走ってきた馬の手綱めがけて、彼は小型のナイフを投げつけた。
鳴嘶。
黒衣の男が道に投げ出される。
雨と泥が靄を作り、視界が霞んだ。
別の男が馬から飛び降り、レオポルドに向かって剣を振り上げた。
レオポルドはその男に向かって、踏み込む。
泥で彼の足が滑る。
その肩が浅く切られ、シャツが裂ける。
だが、そのまま彼は男の懐へ入り、肘で強かに押した。
うめき声。
男がふらつき、レオポルドから離れようとした。
彼はすかさず身体をひねる。
リボルバーのグリップで男の顎を下から打った。
男が背から倒れる。
鈍い音。
泥が跳ねる。
レオポルドはダガーを、倒れた男の腿に振り下ろす。
低い悲鳴が上がる。
雨の中でも漂う、血の匂い。
ダガーを引き抜くと、レオポルドはすぐに立ち上がり、また別の男へと駆け出す。
その男は不利を悟ったのか、彼に背を向けた。
「逃げられると思うな!」
レオポルドの怒声。
男の服を掴み、後ろに引き倒す。
「どこのもんだ!」
男は悲鳴を上げるだけ。
レオポルドは男に馬乗りになると、その手から武器をはじき、腕をひねり上げ、関節を固定した。
「言え! どこの差し金だ!」
男が顎を上げ、口を強く閉じようとした。
――自害しようとしているの!?
レオポルドはそれを止めるように、素早く男の首筋を肘で打つ。
途端に――男の意識が飛び、大人しくなった。
雨。
雨音が、大きくなる。
私の頭にかけられたフロックコートから滴る雫が、ドレスのスカート部分を濡らした。
「全員仕留めた。手伝ってくれ」
レオポルドが私を庇うように立っていた御者の男に声をかける。
「お嬢様は木の下にいてください。行ってまいります」
「え……えぇ」
二人は、伸びている三人の黒衣の男たちを引きずって一箇所にまとめ、手際よく木に縛りつけていた。
私は、やっと、息を吐きだす。
――え?
私は理解できず、レオポルドのコートを、ただ、掴んだ。
――何が起きたの……?
雨音が、耳を打つ。
木に男たちを縛り付け終えたレオポルドは立ち上がり、私に体を向けた。
雨が、ゆっくりと小雨になっていく。
彼は土の道を確かめるように、私の方へと歩いてきた。
整髪料の取れた髪は、彼の頬に張り付いている。
それを片手でかき上げた。
レオポルドは、ぎりぎり腕を伸ばしても届かない距離で、立ち止まる。
視線で、さっと私の全身を確かめた。
私の額に目を止めると、その瞳が細められる。
彼が自分の額に指先を当てた。
「ここ……」
私も彼の真似をして、額に指を当てる。
わずかに、血が手袋についた。
「……揺れる車内で……ぶつけてしまって……」
「他に、怪我はないですか?」
――どうして?
私は首を振った。
「あなたこそ……肩に……」
斬りつけられた彼の肩。
白いシャツに、わずかに血が滲んでいる。
「大したこと……ありません。守れて良かったです」
「レオポルド……」
――どうして、そんな距離のある話し方なの?
彼が視線を下げる。
「僕のこと……怖くないですか?」
「え?」
雨が、止む。
「僕のこと……」
「レオポルド」
彼の声が、わずかに震えている。
「僕は、宰相府文書課勤務……というのは表向きで、本当は、王立秘務局の特務官をしています」
彼が顔を上げる。
レンズのない彼の顔。
その翡翠の瞳が、まっすぐに私へ向く。
「“特務官”は特別な職です。地位が高い。
ご覧の通り、戦闘能力もあります。
顔も……人からは悪くないと言われます……。
血筋だって……侯爵家のご令嬢の婿になれるくらいには……確かです。
僕なら、あなたをいろんな意味で守ってあげられます」
葉から、雨の残りが音を立てて落ちてきた。
「でも……ずっと……文官のツラして……。
嘘をついて、あなたのそばに、しれっといたような……そんな男のこと……信じられます?」
「……レオポルド……ねぇ……どうしたの?」
彼が、唇を噛む。
「僕は、不誠実です。
可憐なあなたには、相応しくないかも」
私は首を振る。
「もし……僕を怖いと思うなら、こんな男……お勧めしません」
私は、思わず駆け出した。
掛けられていたコートが、濡れた地面に落ちる。
彼の胸に飛び込む。
レオポルドの肩が震えた。
「……忘れちゃったの?」
顔を上げる。
彼の翡翠の瞳。
それは、わずかに潤んでいる。
「私が好きなのは“あなた”だってこと。
あなたが文官でも特務官でも、関係ないわ。
私が好きなのは“あなた”だけ」
レオポルドの唇が震える。
恐る恐る、私の背に、彼が腕を回す。
ゆっくりと力が込められる。
「……ずっと、こうやって抱きしめたかった。
でも、抱きしめたら、胸板が意外と厚いことがバレてしまう。腕だって太い」
私は思わず吹き出した。
「ふふ。なぁに? それ」
「ただの文官がこんなに筋肉質なわけない」
腕のなかで、背伸びをする。
「でも、レオポルド……。
あなたの香りも、温もりも、そのままよ。
あなたはあなただもの」
互いの服は湿っていて、冷たい。
でも、その奥に、確かな熱を感じる。
「それに……怖かったけど……
あなたが来てくれて嬉しかった。
戦うあなたも、最高にかっこよかった」
彼の翡翠の瞳が揺れる。
「それから……あなた……もともと背が高いわ。
私が背伸びしても、あなたにキスできないの」
レオポルドが体を震わせる。
視線が、私の目と唇をいったり来たりした。
「い……いいの?」
「いいわ」
レオポルドが少しだけ腰をかがめ、私に顔を寄せる。
呼吸が触れ――
だが、彼は動きを止めた。
「うっ……視線」
彼はさっと私を離れ、隣に並んだ。
「……え?」
私は呆然と彼を見る。
重なる馬蹄の音。
ちょうど向こうから騎馬の男たちが霧を裂くようにして現れた。
「あ……お父様だわ」
先頭にいたお父様以外の男たちは、木にくくりつけられた黒衣の男たちの前で馬を降り、御者と話を始めた。
お父様だけ、こちらへまっすぐに向かってくる。
「アメリア!」
「お父様!」
馬を飛び降り、私の前へ。
私の肩を両手で掴んだ。
「無事か?」
「はい。レオポルドが……」
お父様の視線が隣の彼へ。レオポルドはいつの間にかいつもの眼鏡をつけていた。
「閣下。バレました」
「その前にお前……アメリアに」
「僕は神に誓ってもお嬢様に手は出していません!
……閣下のタイミングのせいで!」
レオポルドがお父様を見据える。
「来るのが早すぎですよ! 空気読んでくださいよ!」
「……えぇ~」
私はお父様と、レオポルドを見比べる。
「もしかして……お父様も……」
私が手で口を覆うと、レオポルドは静かにこちらを向いた。
そしてお父様を手で指し示す。
「こんなガタイの良い文官がいるわけないでしょ。
リチャード侯こそが、王立秘務局特務長官だよ」
私は目を見開いてお父様を見つめる。
「だ……だって……お父様……
ペンより重たい物は持ったことないって……」
「はぁ!? 閣下! どんな嘘ついてるんですか!」
お父様が肩をすくめた。
「可愛い娘に怖い人だと思われたくないじゃないか」
私は言葉を失う。
遅れて、思わず笑ってしまった。
レオポルドとお父様が目を見合わせ、彼らも笑いだした。
お父様は黒衣の男たちの取り調べをするからと、私とレオポルドを残し、他の特務官たちを連れて戻っていった。
その背を、二人で並んで見送る。
雨はすっかりやんでいた。
さわりと風が吹くたび、葉から雫が落ちてくる。
彼らが見えなくなると、レオポルドは私の正面に立った。
私の手をそっと取る。
「馬で、邸宅まで送る」
「はい」
「それから……」
彼の視線が一度下がり、ゆっくりと持ち上がった。
「改めて、僕でいい?」
「あなたがいい」
レオポルドが、その翡翠の瞳を優しく細める。互いに顔を寄せて、触れるだけのキスをした。
目を合わせ、微笑み合う。
――私の婚約者様は、穏やかな文官……
そう思っていたら、本当は戦闘系の公安官でした。
だけど変わらず、
優しくて愛しい、最高に素敵な人。




