第1話 世界一丁寧な「お掃除」
初めまして、作者の 杠 爽です。 数ある作品の中から、本作を見つけていただきありがとうございます!
不思議な力を持つ少年ロアと、彼を育てるガレン。 世界の「汚れ」を剥がす物語が、ここから始まります。 もし少しでも「おっ」と思ったら、ぜひ最後までお付き合いください!
ガリッ。
小さな、けれど確かな感触が指先に伝わる。 垂直に近い岩壁。その僅かな凹凸に指を引っかけ、ロアは自分の体を引き上げた。
グリッ。
次につま先。 革靴の先が岩の隙間にピタリと噛み合う。まるで岩のほうが、彼の靴を受け入れるために形を変えて待っていたかのようだ。
「……九百九十五、九百九十六、九百九十七……」
ロア――本名、ロアークは、鼻歌を歌うような軽やかさで数字を数えていた。 背中には、その日の「おやつ」や「ごはん」と交換するための重い鉱石を詰めた籠。十歳の少年にしてはあまりに過酷な崖登りだが、ロア本人はこれを「爺ちゃんとの遊び」くらいにしか思っていない。
「……九百九十八、九百九十九……」
最後の手がかり。 指先が崖の縁を捉える。
「……千! やったぁ!!」
ヒョイッと。
ロアは羽が生えたような軽さで、てっぺんの平地へと飛び乗った。 着地した場所は驚くほどフラットで、まるで滑走路のように滑らかだ。
「あれ? ここ、こんなに平らだったかな〜? ……まぁいっか」
ロアは首を傾げながら、自分の掌を見つめた。 「登ってる間も、なんか指が思ったよりちゃんと掴めてた気がするなあ。……地面さん、今日も仲良くしてくれてありがとう!」
そう言って、自分の足元の岩場をポンポンと叩く。 その純粋な感謝に応えるように、彼が踏みしめた地面から、不可視の温かい波動が微かに広まった。
ロアが今立っているこの山は、あまりに「正解」が過ぎていた。 標高二千メートルを超える峻険な頂。そこから見下ろす緑の海は、風に揺れるたび陽光を反射し、まるで精巧なエメラルドの細工物のように輝いている。 鳥のさえずりは心地よい旋律を奏で、風は常にロアの体を優しく包むように吹いている。
この世界が、彼に対してだけは、あまりに「過保護」であることを。 そしてロア自身が、世界の「理」そのものに愛されていることを、彼はまだ知らない。
「おーい、ロアーク! いつまで空を眺めておるか! 薬草の選別がまだ残っておるぞ!」
麓の小屋から、彼を拾い育てた隠居人――ガレンの声が響く。
「今行くよ、爺ちゃん!」
ロアは崖の縁から身を乗り出し、躊躇いもなく足を踏み出した。
ドドドドドッ!
重力を無視した速度で、垂直に近い斜面を駆け下りる。 一歩踏み出すごとに、足裏が地面に吸い付くような感覚。 ヒュンッ! 途中で突き出した巨木の枝に飛び移る。 本来なら折れてもおかしくない細い枝は、ロアの体重を支えるために一瞬でしなり、力強いバネとなって彼をさらに前方へと送り出した。
「わーい、楽しい!!」
地面が迫る。 そのまま激突するかと思われた、その瞬間。
ふわっ。
どこからともなく、温かい上昇気流がロアの体を包み込んだ。 見えない手で支えられるように、彼が落ちる速度がスッと緩やかになる。
スタッ。
ロアは、羽毛の上に降り立ったかのような軽やかさで、完璧に地面に着地した。 「へへっ、今日もいい風だなあ!」
ロアはゴーグルを直し、尻もちをつくこともなく駆け出した。 麓の小屋の前では、ガレンがパイプをくゆらせながら待っていた。
「……遅いわい。情報の……いや、お前さんの動きは無駄が多い。目は飾りか?」
「えー、だって爺ちゃん。今日は崖の上の風が、すっごくいい匂いでお散歩に誘ってきたんだもん」
「ふん。……まあよい。ロアーク、お前さんの修行は、今日で終わりじゃ」
「えっ、もう終わり? もっと崖のぼりしていたいよ?」
ガレンは呆れたように鼻を鳴らした。彼は足元に転がっている、ボロボロのクワを指差した。 刃が深く欠け、全体が粘土のような赤錆に覆われている。キノコさえ生えかけたその道具は、ロアの目にはすごく悲しそうに見えた。
「そいつはもうゴミじゃ。壊れておる。捨ててこい」
「えー、もったいないよ。ほら、ここをトントンってしてあげれば、きっと元気になるよ」
ロアは腰のベルトから、大事なハンマーピッケルを抜いた。 ガレンが「お掃除用」として作り上げたその道具は、金色の輝きを放ちながらも、どこかおもちゃのようにも見える。
「えいっ!」
コンッ。
軽い音と共に、ハンマーピッケルの先がクワの刃に触れる。
パリ、パリパリ。
次の瞬間、クワの表面を覆っていた赤錆が、まるで「古くなったシールの皮」のようにペリペリと剥がれ落ちた。 剥がれた皮の下からは、作りたてのような鈍色の金属光沢が露出する。 刃の欠けも、ひしゃげていた柄も、なめらかな曲線を取り戻していく。
「お掃除、完了! 見て爺ちゃん、ピカピカだよ!」
ロアは無邪気に笑い、新品同様になったクワを掲げた。 それが、世界の法則を書き換える究極の権能であることなど、ロアは微塵も思っていない。ただ、道具が綺麗になったことが嬉しいのだ。
ガレンはそんなロアを眩しそうに見つめ、小さく溜息をついた。
「……ロアーク。明日お前は山を降りろ」
「えー、お外に行くの? なんで?」
「ふん。最近は麓の町も活気づいておるようじゃからな。ここでお掃除ごっこをしておるより、もっと広い世界で多くの賑わいを見てこい」
「賑やかなところ? おやつとか、いっぱいある?」
「おやつ以上の『驚き』が、嫌というほど転がっておるわ」
ガレンはロアの頭を大きな手で撫でた。 「山の下には、おもしろいことがいっぱいあるぞ」という爺ちゃんの言葉。 それが、ロアにとっての旅立ちのすべてだった。
「わかった! 僕、お外もピカピカにしてくるね!」
少年の瞳には、まだ見ぬ世界への期待だけが溢れていた。
第1話を読んでいただきありがとうございました!
崖を登り、風に舞うロアの自由奔放な姿。 ここから始まる彼の旅路を、どうぞお見守りください!
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