生存者
ビルの屋上を渡っていくのは、
慣れたことではない。
足裏にわずかな風を感じながら、
レンは向かいの屋上へ静かに飛び移った。
人の姿をした影が、無機質なコンクリートの上をすべるように移動する。
異世界で出会ったエルフの女の声が、
ふいに頭の奥で揺れる。
『身体を強くするだけじゃだめよ。
風は、足場にしてこそ価値が出るの。』
レンは小さく息を吐いた。
この街に戻ってきてからというもの、
役に立つのは大抵“もう使わない”と思っていた技ばかりだった。
屋上から見下ろす街は、
昼の光を吸い込んで静まり返っている。
ところどころに立ち尽くすゾンビの群れが、
まるで事故後の放置車両のように動かない。
昼はこうなのか。
観察するまでもなく、分かる。
レンはまたひとつ屋上を渡る。
足の裏にかすかな風が集まる。
そのときだった。
どこか遠くで、小さな悲鳴が上がった。
レンは動きを止め、
屋上の縁に手をかけて下を覗く。
細い路地で、少女が壁に追い詰められている。
ゾンビが二体、じりじりと近づいていた。
助けるつもりはなかった。
そんな余裕はないし、
映画ならこういう場面は大抵ろくでもない結果になる。
——それでも、身体はもう動いていた。
屋上から飛び降りる。
落下の途中で鞘を握りしめる。
ゾンビは昼のせいか、反応が鈍い。
レンは着地と同時に踏み込み、
鞘で横腹を払った。
単なる打撃にしか見えないはずだ。
ゾンビが崩れた隙に、
もう一体がのろのろと向かってきた。
レンは距離を詰め、
足を払うように蹴り倒した。
静かになった。
少女はしばらく声を出せなかったが、
小さく「ありがとう」とだけ言った。
レンは路地の奥に視線を向ける。
特に何もない。
ただ風が流れるだけだ。
(……人工のやつも、どこかで見てるんだろうな。)
昼は距離を置いて追ってくる。
レンはまだ姿を見たわけではないが、
背後に薄い違和感が残っている。
気にしても仕方がなかった。
ももりんのことが何より優先だ。
こういう寄り道は、本当はすべきじゃない。
だが、少女はまだ震える手で壁を押さえ、
とても一人で歩ける状態ではなかった。
レンはため息をついた。
「大丈夫か。」
声をかけると、少女は小さく頷いた。
レンは空を見上げる。
ビルの縁の向こうに誰の姿もない。
それでも、誰かの視線だけは風の中に残っている気がした。




