試魂
それは、キメラと呼ぶにはあまりにも形が曖昧だった。
レンの足元から這い出してきた“それ”は、骨と肉の輪郭を持っているはずなのに、見ているそばから形が揺らぐ。
四本あると思った脚が、次の瞬間には三本に見え、また別の角度からは六本あるように錯覚させる。
黒い泥のような影が、白い床を汚していた。
「……なに、あれ」
ひよりの喉から、知らずに声が漏れた。
右手のマークが、冷たい汗と一緒にざわつく。
肌に刻まれた“風の線”が、本能的に嫌がっている。
ルーチェでさえ、すぐには言葉を出さなかった。
「……気持ち悪い」
小さく、そう吐き捨てる。
召喚屋は、ひとりだけ楽しそうだった。
「ええやろ。
ゾンビや動物、コロニーの外で拾ってきたもん、いろいろ混ぜてな」
ローブの奥で笑う。
「死体やないやつも、ちょっとだけ混ざっとるけど」
ひよりの背筋が、ぞくりと粟立った。
「“魂”って、ええ素材なんよ」
召喚屋の言葉に、ルーチェの風がぴくりと震える。
「レン、立てる?」
佐藤が短く訊いた。
床に手をついたレンは、息を整えながら顔を上げる。
脇腹は焼けるように痛い。
肺も、骨も、まださっきの一撃の痺れが残っている。
それでも——左手だけは、握り込めた。
「……立つ」
ぐ、と床を押す。
炎は、まだ消えていない。
さっきより小さいが、白い衝撃の“音”は、拳の奥で静かに唸っていた。
「ひより、青年。ここから先、近づくな」
レンは、視線だけで二人を見る。
「でも——」
「これは、俺の足元から出てきてる。
あいつの“影”と、俺の“座標”を混ぜて作ったやつだ」
召喚屋の魔法の仕組みが、鈍い痛みの上からでもなんとなく見えた。
黒い染み。
座標。
影。
「ここから先、踏み込んだやつは、まとめて“材料”にされる」
ひよりの足が、ぴたりと止まる。
青年も、唇を噛んで一歩退いた。
「……わかりました」
それでも、右手のマークは、レンの方へ向かってずっと熱を放っている。
ルーチェが、ひよりの肩に手を置いた。
「今は我慢。
あいつが“こっちまで伸ばしてきたら”、そのとき押し返すのよ」
「……はい」
レンは前を見る。
影のキメラが、ゆっくりとこちらに首を向けた。
輪郭は溶けているくせに、その“視線”だけははっきりと伝わってくる。
人間の眼ではない。
かといって、獣のそれとも違う。
——嫌な気配だけが、まっすぐ刺さるようだった。
「名前、つけたったら?」
召喚屋が、からかうような声で言う。
「記念品やで。
帰還者レンが、この世界で初めて“ちゃんと殺される”ときに使われた怪物」
「……」
レンは拳を握り直す。
左手の炎が、かすかに音を変えた。
(音と炎。影と座標)
頭の奥で、いびつなパズルがゆっくり噛み合っていく。
感覚共有の“ハウリング”。
風の線。
グローブ越しに拾える、世界の音。
レンは、召喚屋から視線を外さないまま、短く息を吐いた。
「……一個だけ、試したいことがある」
自分に言い聞かせるように呟く。
影のキメラが動いた。
揺らいでいた輪郭が、一瞬だけ収束する。
地を蹴る脚の数も、伸びてくる腕の数も、そのときだけはっきりと“形”を持つ。
白い床を、黒い塊が走った。
距離はすぐに詰まる。
レンは、正面から一歩踏み込んだ。
左拳を、わずかに下からすくい上げるように構える。
「——うるせぇ」
振り抜いた。
炎と衝撃波。
だが、さっきまでのような乱暴な爆発ではない。
打撃の線だけに乗せた“音”が、影のキメラの胸部を抉った。
黒い泥が飛び散る。
空間の白さが、その部分だけぐにゃりと歪んだ。
「……通るやんけ」
召喚屋が、即席の拍手を送るみたいに指先を鳴らす。
だが、レンも笑ってはいなかった。
抉った部分は、すぐに埋まる。
飛び散った影が、空中で収束してまた本体に戻っていく。
(やっぱり、“壊したところ”から戻ってる)
影。
座標。
音。
「レン、脇腹!」
佐藤の声。
レンは躊躇なく横へ飛ぶ。
影のキメラの腕が床を薙いだ。
さっきまでレンが立っていたあたりが、そのまま黒い沼地みたいに沈む。
底が見えない。
そこへ落ちたものがどうなるか、見なくてもわかった。
「……遊び半分やったら、今ので終わりやったな」
召喚屋の声が、耳にまとわりつく。
「立つんやろ? 帰還者」
レンは、息を整えながら正面に立ち続けた。
痛みも、恐怖も、全部まとめて押し込める。
(ここで引いたら、ももりんも——こいつらも、全部まとめて持っていかれる)
ひよりの視線が、背中に刺さる。
右手のマークが、ずっとレンの方を向いて、熱を送ってくる。
レンは、一瞬だけ左手を自分の胸の前に持ってきた。
グローブ越しに、指先を軽く合わせる。
音が、そっと変わる。
耳に届く“世界のざわめき”の中に、ひとつだけよく知った気配を探した。
(……ひより)
桃農家のビルで、屋上の隅。
あの夜、右手の甲に触れたときに繋いだ、風の細い線。
まだ、完全には切れていない。
「——ちょっとだけ貸せ」
誰にともなく呟く。
グローブの音が、低く沈んだ。
召喚屋の足元の影と。
自分の足元と。
それから——ひよりの右手のマークと。
その三点を、一本の線で結ぶイメージを描いた。
影のキメラが、再び走る。
今度はまっすぐではなかった。
床の上を滑り、壁に貼り付き、天井から落ちてくる。
レンは、真正面を見たまま動かない。
代わりに——左手の音だけを、わずかに“上”に向けて放った。
ぱん、と小さく弾ける音。
天井の一部が、一瞬だけ“硬く”なった。
そこに、影のキメラの脚がぶつかる。
形の定まっていない肢体が、一瞬だけ引き伸ばされた。
その瞬間を——レンは逃さない。
「ひより!」
名前を呼ぶ声が、グローブとマークを通して、ひよりの右手に直接響いた。
風の線が震える。
「——はい!」
ひよりは反射的に右手を掲げていた。
目の前にいない。
でも、右手の“先”が、今どこにあるかだけは、はっきりとわかる。
空中で引き伸ばされた、影のキメラの胴体。
そこへ向けて、“押す”。
マークが、眩しく光った。
白い空間の一部が、ぐにゃりと圧縮される。
影のキメラの輪郭が、そこで大きくねじれた。
「……!」
召喚屋の笑みが、微かに揺らぐ。
レンは、左拳を握り直した。
「一発、通るラインは見えた」
脇腹の痛みを無視して、一歩前へ出る。
影は底なしだ。
だが——底なしごとき、何度も“底”を踏み抜いてきた足で割り込むだけだ。
白い空間の“風向き”が、確かに変わり始めていた。




