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味方

ビルの最上階は、やけに静かだった。


 ゾンビのうめきも、悲鳴も届かない。

 さっきまでとは違う、妙な“空白”の気配。


「……ここから別世界みたいですね」


 ひよりが小声で言う。


 レンは答えず、左手のグローブを握り直した。

 さっき奪った“音使い”のグローブだ。指先だけが露出している。


「ちょっと集中させてくれ」


 ぼそっと言って、レンは目を閉じる。


 足元から、細い風が立ち上がった。

 一本の糸みたいに伸び、天井付近で何本にも分かれていく。


 壁の隙間、配線ダクト、廊下の角——

 このビル全体に、限りなく細く、限りなく広く。


(……この階にいるのか?)


 フロアの端から端までなぞった風の感覚の中に、ひとつだけ筋の違う流れがあった。


 突き当たりの部屋。

 その中だけ、風が螺旋を描いている。まるでそこにも術者が立っているみたいに。


 レンは目を開ける。


「見つけた」


「ももりん、ですか?」


 ひよりが思わず身を乗り出す。


「……わからん」


 レンははっきりとは答えない。

 眉間にだけ、うっすら嫌な気配がにじんでいた。


「とにかく、行くぞ」


 * * *


 最上階の廊下は、赤い非常灯と、さっき自分たちがぶち抜いた天井から流れ込む風に満たされていた。


 扉がいくつも並んでいるが、どれも同じ無機質なデザインだ。


「どの部屋です?」


 青年が小声で聞く。


「一番奥」


 レンは迷いなく歩いていく。


 一歩進むごとに、肌の上をなでる風の向きが変わる。

 このフロアの空気自体が、奥の部屋へ吸い寄せられている。


(ここだけ、“俺の風”が押し返されてる)


 突き当たりで、レンは一瞬だけ立ち止まった。


「レンさん?」


「……悪い予感する」


 そう言って、ノブに手をかける。

 鍵は、かかっていない。


 ゆっくり押し開けると——中から先に声が飛んできた。


「遅かったじゃない」


 女の声。


 ひよりが条件反射で、レンの背中に半歩隠れる。


 部屋の中は、拍子抜けするくらい“普通”だった。

 元はスイートルームか何かだったのだろう。ベッドとソファ、簡素なテーブル。


 その中央、壁にもたれて立っている女がひとり。


 タイトなパンツに、片手だけグローブ。

 ビルの谷間でレンとやり合った、あの女幹部だった。


「……アンタか」


 レンの声が低くなる。


 女幹部は、嬉しそうに口の端を上げた。


「ようやく会えたわね、レンくん」


 ひよりは、部屋の中をざっと見回した。

 ——ここにも、ももりんの姿はない。


「ここにいるの、あなたひとりですか」


 思わず聞いてしまう。


「さぁ?」


 女幹部は、意味ありげに微笑むだけだった。


 レンは、部屋の空気を確かめるように一歩踏み込んだ。


 自分が張り巡らせた風が、この部屋だけ外側で弾かれている。

 中に入ろうとすると、別の風に指先をはじかれる。


(この風……)


 女幹部は、レンの表情を見てくすっと笑う。


「ああ、その顔。ちゃんと気づいてるわね」


 グローブをはめていない右手を、軽く持ち上げた。


 指先に、透明な何かがまとわりつく。

 見えない風が、指の動きに合わせて揺れた。


「あんたに会いたくてね。あの娘に、魔力を貰っちゃった」


 女幹部は、唇をゆがめて笑う。


「本当にいい力だわ」


 ひよりが、息をのむ。


「……“あの子”って、まさか——」


「ふふ」


 女幹部は肩をすくめる。


「誰かなんて、どうでもいいでしょ?」


 わざと曖昧に笑う。


「大事なのはね」


 指先で空気をつまんで、くい、とひねる。


 それだけで、ひよりの髪が一瞬ふわりと浮き上がった。


「私が、“あんたたちの側”かもしれないってことよ」


「はぁ?」


 レンが、少し気の抜けた声を出す。


「上の連中は、あんたを消したがってる。

 私は、もう一回あんたとやり合いたい」


 女幹部は、壁から身体を離し、数歩前に出た。


「でもね、ハンデつきのあんたと戦っても、全然楽しくないの」


 ひよりが前に出ようとするのを、レンが片手で制する。


「だから」


 女幹部は、真っ直ぐレンを見た。


「協力してあげる」


 ひよりと青年が、同時に固まる。


「……は?」


「え、今、協力って——」


 女幹部は、人差し指を立ててみせた。


「勘違いしないで。仲良しこよししたいわけじゃないの。

 このままだと——」


 顎で天井をしゃくる。


「このコロニーごと、綺麗に実験材料にされるわよ。

 あんたの“推し”もね。多分、あたしも」


 ひよりの喉が、びくっと鳴った。


「……どうして、そんなこと——」


 女幹部は、耳の横で指をひらひらさせた。


「風は便利なの。

 こうやって——」


 彼女が軽く指を鳴らすと、レンの左手のグローブがかすかに震えた。


 誰かの笑い声、誰かの怒鳴り声。

 断片的な“音”が、一瞬だけそこに乗ってくる。


 すぐに、ぱたりと途切れた。


「……そのために拾ったんでしょ?」


 女幹部は、レンのグローブをちらりと見た。


 一拍置いてから、言葉を続ける。


「ももりんを、このビルから出してほしいのよ」


 ひよりの目が、大きく見開かれる。


「……あなた、それ——」


「勘違いしないでほしいわね」


 女幹部は、ひよりを制するように片手を上げた。


「私だって、聞かされてた話と違ったのよ。

 あいつは“桃瀬鈴”で、何か企んでる。何かはまだはっきりしないけど——」


 肩をすくめる。


「要するに、私たちはうまく“利用されてた”ってこと。

 それって、ちょーむかつくじゃない?」


 ひよりは、言葉を失う。


「だから、あんたらに協力する」


 女幹部は、さらっと言った。


 レンは、しばらく黙って女幹部を見ていた。


「……条件は?」


「単純よ」


 女幹部は、指を一本立てる。


「全部終わったあとでいいから——」


 そこで、少しだけ笑う。


「本気のあんたと、もう一回やらせなさい」


 レンは、鼻で笑った。


「手を抜いた俺に負けたくせに」


「むかつく!」


 女幹部の風と、レンの風が、部屋の真ん中で絡み合う。


 敵か、味方か。

 その境目だけが、まだ曖昧なまま。


「レンさん……」


 ひよりが、不安そうに袖をつまむ。


 レンは短く息を吐いた。


「……いいだろ」


 女幹部を見る。


「その代わり、ひとつだけ覚えとけ」


「なに?」


「もし“上”より先に、あんたが俺たちの邪魔をしたら——」


 レンは、グローブをはめた左手を軽く握った。


「約束の本気勝負、そこで前借りさせてもらう」


 女幹部は、一瞬きょとんとして——すぐに声を上げて笑った。


「やっぱり腹立つわ、あんた」


 それでも、楽しそうだった。


「でも、そこが好き」


 彼女は、部屋の奥の壁を指さした。


 そこには、何の変哲もないクローゼットの扉がひとつ。


「ももりんの部屋は、ここじゃない」


 指先で空気をひねる。


 カチリ、と隠し錠の外れる音がした。


「本当の“VIP”は——この下よ」


 床下から、冷たい風が吹き上がる。


(さっきネクロマンサーのところに来てた、おっさんも気になるしね。

 ダサい連中と、これ以上一緒にいられないわ)


 女幹部は、ぼそっと吐き捨てるように言った。


 風向きは、もう完全に“戦い”だけのものじゃなくなり始めていた。

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