奪還
目を開けたとき、天井の模様がはっきり見えた。
(……ちゃんと、全部見えるな)
レンはしばらく仰向けのまま、深く息を吸った。
肺に入ってくる空気も、胸の奥の重さも、もういつもの感覚だ。
体を起こす。
筋肉のきしみも、魔力の抜けるような虚脱感も、ほとんど残っていない。
毛布をめくると、簡易ベッドの横でうとうとしていたひよりが、びくっと顔を上げた。
「……れ、レンさん!?」
「よう」
レンは、軽く手を上げた。
「おはよう。何時間寝た?」
「こっちのセリフですよ! どれだけ心配したと思ってるんですか!」
ひよりが、目尻をうるませながら怒る。
その声に、隣の部屋からもざわざわと人の気配が近づいてくる。
扉が開き、ちかと、短髪の青年、それに何人かの桃農家たちが顔を覗かせた。
「レンさん、起きた!?」
「マジか……よかった……」
ちかが胸をなでおろす。
「昨日まで、ほんとに死人みたいな顔色でしたからね」
「ゾンビと並んでも違和感なかったっすよ」
「おい」
レンは、苦笑しながらベッドから足を下ろした。
立ち上がる。
膝も、ふらつかない。
(ルーチェの負担、女幹部戦、キメラ、選抜会場……
あれだけ無茶したわりには、まだ動ける)
窓の外からは、遠くのざわめきだけが聞こえる。
ゾンビのうめき声。
時折混じる、何かが爆ぜるような音。
「外は?」
レンが訊くと、青年が肩をすくめた。
「相変わらずっす。
人工ゾンビと、ネクロ側のゾンビと……なんかよく分からん勢力争いしてるっぽいですけど、
このビルの周りは、今のところギリ“死角”って感じで」
「だからこそ、ここで籠城しながら様子見……って案もあったんですけど」
ちかが言いかけたところで、ひよりが口を挟んだ。
「でも、ももりんが向こうにいる以上、それは“ただ逃げてるだけ”だってことで」
レンは、ちらりとひよりを見る。
ひよりの左手首——内側には、紺色の印がうっすらと残っていた。
昨日より少し、輪郭がはっきりしている。
(マークも、落ち着いてきたな)
「……で」
レンは、室内をぐるりと見渡した。
段ボールを積んだバリケード。
集められた食料。
簡易ベッドと毛布。
その合間に座っている桃農家たちの顔には、疲れと、それでも消えない光がある。
「そっちはもう、覚悟は決まってるって顔だな」
ちかが、レンの目をまっすぐ見返す。
「もちろんです。
ももりんが“あそこ”でどう扱われてるか、だいたい想像ついちゃいましたし。
このまま待ってたら、多分——“壊される”だけなんで」
青年も、腕を組んで頷いた。
「ここが安全圏なのは分かってます。
でも、“安全な場所で推しが壊れていくのを見てるだけ”なんて、
それはそれで地獄っすから」
ざわ、と周りの桃農家たちの視線が揃う。
「レンさん」
ちかが、一歩前に出た。
「私たち、戦力としては足手まといかもしれませんけど……
ももりんの居場所や動かされ方、見てきた分の“情報”は持ってます。
どうか、それごと“使って”ください」
ひよりも、レンのほうを見た。
「レンさん。
わたしも、そのためにここまで来ました」
レンはしばらく黙っていた。
昨日までなら、“単身突っ込んだほうがマシだ”と思っていたかもしれない。
仲間という存在が、足枷にも罠にもなりうることは、異世界で嫌というほど知っている。
けれど——
(ももりんは、一人じゃ笑えないタイプだ)
あのステージで、ひよりと戦ったときの顔を思い出す。
笑おうとして、笑いきれなかった目。
(だったら、奪いに行く側も、一人じゃだめだろ)
レンは、深く息を吐いた。
「全員で突っ込むのは、論外だ」
まず、それだけははっきり言う。
「正直、お前らが大勢で動いたところで、
向こうから見りゃ“ももりんに執着してる群れ”でしかない。
まとめて潰されるのがオチだ」
桃農家たちの肩が少し落ちる。
だが、レンは続けた。
「だから——前線に出るのは、四人までだ」
ひよりが目を瞬く。
「四人?」
「俺」
レンは、自分の胸を親指で示す。
「北川ひより」
「……はい」
「ちか」
「っ、はい」
「それと——」
レンは、短髪の青年を顎で指した。
「“現場慣れしてる桃農家”代表。一名」
「ちょ、肩書き雑すぎません?」
青年が苦笑しながらも、頷く。
「でも、正直嬉しいっす。
ここまで来て“留守番してて”って言われたら、一生寝つき悪くなるところでした」
「他の桃農家は」
レンは、室内の全員を見渡した。
「ここを守れ。
外のゾンビがどれだけ暴れようが、このビルが“戻ってくる場所”であり続けるようにな」
ちかが、思わず口を開く。
「でも、それじゃ——」
「奪還は“部隊”でやるもんだ」
レンは静かに言った。
「前線に出るやつだけが、戦ってるわけじゃねぇ。
戻る場所がなきゃ、心も折れる。
お前らは、“ここを折れない場所にする”役だ」
しばらくの沈黙。
やがて、一人の桃農家がぽつりと言った。
「……それ、めっちゃ……責任重い役じゃないですか」
「そうだ。だから任せる」
その一言で、空気が少し変わった。
ただ置いていかれるんじゃない。
ここを支える“戦線”として残る。
そんな役割が、言葉として形になった。
桃農家たちの目に、もう一度火が灯る。
「いいじゃん、それ。
奪還部隊と、防衛部隊ってことだね」
ちかが、少し笑う。
「じゃあ、防衛部隊のリーダーは……」
周りが一斉にちかを見た。
「ちかちゃんが一番、ここ長くいるし」
「ももりんのことも、一番知ってるしな」
「じゃあ、頼む」
レンは、あっさりと言った。
「俺たちが連れて帰る。だからやっぱり奪還部隊は3人だ
お前らは、迎える準備をしとけ」
ちかは、唇をぎゅっと噛んでから——
少しだけ、泣きそうな顔で笑った。
「……はい。
“おかえりなさい”って言えるように、ちゃんと部屋も空けて待ってます」
ひよりが、その横顔を見て、胸の奥が熱くなるのを感じた。
(ももりんを連れ戻すのに、一番必要なのは——
きっと、こういう人なんだ)
レンがひよりの方を見る。
「ひより」
「はい」
「お前の役目は二つだ」
レンは、指を二本立てた。
「ひとつ。俺の“目”をやること。
視界共有と、マークの力。さっきみたいに、敵の動きを読むのを手伝え」
「……はい」
「もうひとつ」
レンは、ふっと目線を落とした。
「桃瀬鈴を、俺と同じくらい引きずり戻すことを諦めてないやつが、ここにもう一人いる」
ひよりは、一瞬きょとんとして——
すぐに、自分の胸を親指でさした。
「……わたし?」
「そうだろ」
レンは、少しだけ笑う。
「北川ひより。
お前は、“推しを殴れない側”の人間だ」
ひよりは、言葉に詰まる。
「でも、だからこそ——
俺が踏み込みすぎたとき、止められるのもお前だ」
ひよりの喉が、きゅっと鳴る。
「……レンさんこそ、推しを殴れるタイプじゃないと思うんですけど」
「俺は、“必要なら殴れるタイプ”だ」
レンはあっさり言った。
「でも、“殴らせちゃいけないライン”があるのも分かってる。
その線引きを、俺一人でやると間違えるかもしれねぇ。
だから、お前がいる
(なんだそれ…)
「……分かりました」
ひよりは、まっすぐレンを見た。
「レンさんが殴りすぎそうになったら、全力で止めます。
それでも殴らなきゃいけないときは、一緒に殴ります」
「上等だ」
レンは、満足そうに頷いた。
短髪の青年が、頭をかきながら口を挟む。
「前衛、俺だけなんすかね」
「心配するな」
レンは青年の肩を軽く叩いた。
「お前には、“モブの顔して一番しぶとく生き残る役”をやってもらう」
「なんすかその役名!?」
「一人ぐらい、そういうのがいた方がパーティは潰れねぇんだよ」
ひよりが吹き出し、ちかも笑う。
重かった空気に、少しだけ余裕が生まれた。
レンは、ベッド脇に立てかけてあった剣を手に取った。
鞘を握る。
重量も、柄の感触も、いつも通りだ。全快
(頼むぞ。今度は、無茶な使い方はしねぇ)
ルーチェの名前を胸の奥で思い浮かべ、そっと息を吐く。
「行くぞ」
レンは、窓の外を一度だけ見やった。
遠く、新宿の空がうっすらとくすんでいる。
黒煙と、魔力の残り香。
あの向こうに——桃瀬鈴がいる。
「奪いに行く」
レンは、はっきりと言った。
「桃瀬鈴を、“向こうの武器”じゃなく、
“こっちの”桃瀬鈴として取り戻す
反撃開始だ」
ひよりが、うなずく。
「取り戻しましょう」
ちかが、涙をこらえながら笑う。
「うちの箱入りアイドル、返してもらいましょう」
青年が、拳を握る。
「行きましょう。
あんたらが主役なんすから」
ビルの非常扉が軋む音を立てて開く。
冷たい通路の空気が、四人の頬を撫でた。
新宿コロニー・桃瀬鈴奪還作戦——
その一歩目が、静かに踏み出された。




