第三章 第四節 遠き名の影
スーツは壊れたまま。ログは気味の悪い形をしたまま。
自分は、この場所で、なぜ生きている。
「今日は、ここまでにしておこう」
シールがそう言うと、実験室の音がいっせいにひとつ段を下げたように感じた。
"結局Qスーツとの共鳴はあの一度きり" あれ以降何度触れても反応は無くなってしまった。
タンクの唸りも、歯車の振動も、ツバキから視線を外して、それぞれの持ち場に戻っていく。
リラが、ほっとしたように息を吐く。
「上に戻りましょう。ここで倒れられたら運ぶのが大変よ。」
「倒れる前提で話を進めるのやめてくれない?」
「じゃあ、"倒れなかったらラッキー"くらいにしておくわ」
それも大差ない気がしたが、言い返す余裕はなかった。
足元に残る白い残像が、まだ階段の角に引っかかっている。
「……ねえ」
リラが段差を確かめながら言う。
「本当に平気? 顔色、装置のランプと同じ」
「悪趣味な例えだな」
「装置の方がまだ正直よ。赤くなったら、ちゃんと危ないって言うもの」
階段を上がるにつれて、白い部屋の残像がじわじわと薄くなっていく。
オルガンの和音。引き延ばされた光。引き延ばされる時間。
どこかで見た光景なのか、それとも"これから見る光景"なのか、
おそらく、普遍的な意味など何もないのだろう。
*******
地上に出たころには、ノッドノールはもう黄昏はじめで、宵の月が薄く掛かっていた。
冷えた空気が肺に入り、さっきまでの地下が嘘みたいに、世界が軽い。
街並みが朝焼けとはまた違うオレンジ色に染まっていく。遠くで環船の輪が、擦れた金属みたいに淡く光る。
すべての光景が、嘘みたいに美しい。
"このまま地球に帰れないのなら、就職先をさがさないとな、、、"
屋敷に戻ると、食堂ではなく小さな応接間に通された。
どういうわけか、この場所はほかの部屋より少し米国寄りのセンスが混じっている。
ミッドセンチュリーモダンなソファと、膝より少し高い丸テーブル。客間のデザインよりこっちの方が精神が安定する。
そこにカップが三つ。クッキーなのか、"実験の失敗作なのか判別に迷う焼き菓子"が控えめに盛られていた。
シールはソファに腰を下ろすと、ポットに手を伸ばす代わりに、懐から薄い端末を取り出した。
実験室の機械の一部を引きはがして、そのまま持ってきたような、無骨な板だ。
「さっきの波形と、地下のノイズを突き合わせておきたい。
数値のほうは…今日中に、ある程度整理はつくだろう」
研究者として最大限気を使った言い回しだ。
"もうあのスーツに用はない"と直感で理解できる。
また一つ地球への帰り道が閉ざされていく。
「さっき見えたものは?」
リラがカップにお茶を注ぎながら、こちらをちらりと見る。
「話せそうなら……でいいけど……」
どうやら気を使わせてしまったようだ。
喉の奥で言葉を探し、いちばん角の立たない順番に並べ替える。
「そうだな…突然記憶を思い出すように真っ白な部屋が一つ。家具があるような、ないような」
言葉は続くが自分の意志ではないように感じる。
「なんだろう…時間が"物理的"に伸ばされていくような感覚…それでいて音が遅れて追いついてきて…そこで切った。
そこに何時間も居た気がして、それ以上見続けたら帰ってこられない気がして」
あれ、僕は今どこにいるんだっけ。
「こちら側で観測できたのは、地鳴りと計器の跳ね上がりだけだ。
持続時間はー…せいぜい数秒。君の体感と、装置の記録が噛み合っていない」
シールが遮るように話し出す。
端末の光だけが、瞳の奥で小さく揺れる。
「どっちが"正しい"んですかね」
状況の整理のためにも、少しわざとらしく聞いてみる。
この辺はシールの得意分野だろう。
「こちらの世界では、"正しさ"という言葉はあまり役に立たない。
役に立つのは、"どちらの記録を採用するか"という判断だけだ」
「観測の"多次元解釈"、実地版ですか」
量子論の入門書が頭に浮かぶ。博士が「この本は、わりとマシな方だ」とボヤいていたな。
リラがカップを置く音が、小さく響く。
「今回の場合、装置のログか、観測した人間の記憶か、ってことね」
「そうだ。君の頭も一つの計測器だし、地下の機械も一つの計測器だ。
虚層素が濃くなる場所では、ときどきそれぞれが"別の時間"を記録する」
虚層素。ナルリオン。
初めて聞かされたとき、シールは笑って「君たちの世界には存在しない単語だ」と言い切った。
青白い霧が、"観測できないのに存在している"という。観測不能流。
動力も情報も、その流れにぶら下がっている。空間の歪みそのものを媒介する、と。
重力が"形を与える"なら、虚層素は"形を確定させる"。
あの説明が、今になって理解し始める。
確定するものが揺れれば、形だけじゃなく「いつ」だって揺れる。
時間が伸びたり、音が遅れて追いついたりするのは、その副作用みたいなものなのだろう。
指の輪郭が一瞬遅れて追いついた感覚も、床から感じる重力の"ズレ"も、
トレイの違和感の答えが、すべてここに収束する。
「…"別の時間"って、具体的には?」
「たとえば、鐘があるだろう。塔の鐘でも、机の上の小さなベルでもいい。」
そう前置きしてから、彼は指先で空中に三つの点を描く。
「本来なら、"打つ → 鳴る → 消える"という順番で記録されるはずだ。
ところが、〈縁〉に近づくほど、ときどき"鳴る"だけ先に記録されることがある」
やはりこの世界はミクロスケールの事象がマクロスケールまで影響を及ぼしているように感じる。
「…打った記録はどのタイミングで観測されるんですか?」
「そういうログが、過去の記録に少しだけ残っている。
音だけが先に走っていき、あとから映像が追いついたような形でね」
地球でこの話を聞いたとしたら興奮で眠れなかったはずだが、
遭難者の今ではただの果てしないおとぎ話に感じる。
「その記録、見せてもらえますか。……文字は相変わらず読めないので、要点だけでも知りたい」
「私の机の引き出しの中で眠らせておくには惜しい、と思っていたよ」
シールは端末を閉じ、ようやくポットに手を伸ばした。
「大学の図書塔に行きなさい。ノッドノールの"まともな学者"にとってはおとぎ話の棚だが…今の君には、ただの昔話以上の意味があるだろう」
「そして私がなぜ異界の来訪者は"多次元的な別の世界の住人"という結論に至ったのか、少しはわかるはずだ」
リラの目がわずかに輝く。
「図書塔の"縁観測史"ね。あそこ大好きなの。
本当か嘘か分からない話ほど、読む価値があるもの」
「明日だよね?」
ツバキは思わず聞き返した。
今日一日で、すでに脳のどこかが限界を訴えている。
「今日は"観測された日"。明日は"観測する日"にしなさい」
シールはそう言って、どこか満足げに笑った。
この世界の博士は、名言を残すタイミングだけ無駄に上手い。
――――――――――――――――――――――――――――
ノッドノールの夜は、地球より幾分静かな気がする。
窓の外を環船が横切っていく。輪の部分だけが薄く光り、ぶら下がった船体の影が雲の縁をなぞっていく。
蒸気とガス灯と、どこかで回り続ける歯車。
耳を澄ませば、地下の実験室のノイズと街の生活音が、どこかで混ざり合い空に消えていく。
全部ひっくるめて、この世界の"日常"
そう、日常。便利な言葉だ。自分を押し込める箱としては。
まぶたを閉じると、白い部屋がすぐそこまで、来る。
鳴り響くオルガンの共鳴。
目を開けると、煤けた天井。
どういうわけか、切り替えが、雑だ。雑なまま、こちらの呼吸だけがついていこうとする。
結局、疲労が先に折れて、意識はどこかのタイミングで途切れた。
夢を見たかどうかは分からない。分からない、というログだけが残った。
――――――――――――――――――――――――――――
翌朝、ノッドノールの煤の匂いは、以前より少しだけ薄く感じられた。
そもそも慣れてしまった、という事実は、あまり嬉しくないわけだが。
リラも通っているという大学の構内に入ると、空気がわずかに変わる。
市街地より静かで、工場ほど無機質ではない。ハイソな雰囲気はそのままこの学校の偏差値を表している。
ネオゴシックとポストモダンの顔を併せ持つ建物の数々は、そのままでも芸術作品のようだ。
「ここが図書塔よ。正式名称は長ったらしいから覚えなくていいわ」
トレイの教育制度やリラの専攻までは知らないが、口ぶりから自信が伝わる。
まぁ、しかしこの塔は、ビックベンのまがい物という表現がぴったりなのだが、どこからかクレームが入りそうだ。
、、、そもそも2拠点を比べられる人物は、この世に1人しかいないわけで。
「"まともな"論文が下の階に、"そうじゃない"ものほど上に押し上げられていく構造よ」
「重力に逆らってるな」
「"変な話ほど遠くに置いておきたい"っていう心理には忠実でしょう?」
塔の内部は、外から見た印象よりずっと狭かった。
中央に吹き抜けがあり、その周りを螺旋状に廊下と書架が取り囲んでいる。
各階へは、小さな昇降機か、自分の足で登るしかない。
「"縁観測史"は、だいたい上から三つ目の棚の、さらに奥。誰も借りないから埃っぽいわよ」
「励みになる案内だな」
言われた通りの階に着くと、たしかに空気が少し重かった。バテているわけではない。
古紙と油の匂い。整理されているのか見捨てられているのか、判別がつかない冊子の列。
棚に並ぶ背表紙は、残念ながら全部同じ模様に見える。
違うのは厚みと、紙の色と、埃の積もり方くらいだ。
"読む"の前に、"選ぶ"という作業が立ちはだかる。
リラは片っ端から手を伸ばしては、数ページめくって戻す。
薄いの、分厚いの、綴じ方が違うの。紙の匂いが新しいの、古いの。
「……これ全部読む気でいる?」
「流石に読まないわよ…。漁ってるの。
こういう棚は、まともな索引がないの。あったとしても誰も更新しないし」
その言い方が妙に現実的で、少し安心する。
異世界の図書塔でも、杜撰さは人類共通らしい。
この一週間で作り上げた自作の辞書を片手に、何とか作業を始める。
-----------------
どれくらい経ったのか分からない。
塔の吹き抜けの上のほうで、どこかの階の扉が開く音がして、閉じる音がした。
人の気配が一度だけ通り過ぎ、また静けさが戻る。
時間の区切りを探す癖だけが空振りを続ける。
「……これ、近い」
リラがしばらくぶりに声を出す。
彼女が引き抜いたのは、装丁が揃っていない束だった。
背にタイトルらしき記号はある。図が多い。短い文が繰り返されている。
B4判ほどの大型本だが、おそらくこれは"抜き書き"だろう。
リラは数ページめくってから、顔をしかめた。
この棚だけ、なぜか薄暗い。
ガス灯の間隔が露骨に広い。上の階ほど予算が削られる仕組みなら、ここは正しい場所に違いない。
「ここだと読みにくいわね……。来て」
彼女は束を抱え直し、通路の外にある閲覧台のほうへ歩いた。
書架を抜けると、廊下の曲がり角に"読むための場所"があった。
壁に沿って細長い閲覧台がいくつか並び、天板には傷とインク跡が残っている。
立ったままでも読める高さ。椅子はない。長居は歓迎されていないようだ。
「これ。"白環帯観測記録・抄"」
「…なんて…?」
「"ハクカンタイカンソクキロク・ショウ"。ハクカンタイはおそらく地域の名前ね、
ショウは、抜粋って意味。全部じゃなくて肝だけ集めたやつよ」
「親切なのか、手抜きなのか迷うな」
「後者を疑うのは、あなたの悪い癖よ」
閲覧台は二人で覗くには、ちょうどいい狭さだった。
肩が軽く触れた。触れた瞬間に、彼女がほんの少しだけ身体を引く。
何事もなかったみたいに、咳払いを一つ。
「…ほら、開いて」
言い方だけは平然としている。
その平然が、急に妙に年相応で、視線の置き場に困ってしまう。
ページをめくる。
写真の代わりに、簡単な図と、短い注釈がいくつも並んでいる。
図の線は細い。なのに、描かれているものはやけに大きい気がした。空。塔。輪のような帯。谷。鐘。
そこまで古さは感じないが、ヴォイニッチ手稿を読んでいる気分だ。
「ここ、なんて書いてある?」
「……"ある日、観測所の記録が、谷をひとつ飛ばして進んだ"」
リラの指先が紙の上を滑る。
指の動きは迷わない。置いていかれるのが嫌で、僕は彼女の指先を追うみたいにページを押さえる。
「次は?」
「"鐘は鳴っていないのに、音だけが二度記録された"」
「記録、か」
口にした瞬間、地下の実験室で聞いたシールの声が蘇る。
〈縁〉に近づくほど、"鳴る"だけ先に記録されることがある。
音が先に走って、映像があとから追いつく。
「…ほら、ここも」
リラがページを送る。
そこには、帯のような線と、花弁みたいな放射状の図形が描かれていた。
花弁。金属。
その組み合わせだけで、喉の奥が一瞬乾く。
南極の暗闇で、あの花を取り出したとき。
重みが手に馴染んだ瞬間、世界の方が壊れた。
鋼鉄の華。観測を固定せずに痕跡だけを残す、"非崩壊記録体"
あれが、地球から消える合図だった。
「…似てるな」
思ったより小さい声が出た。
「どうしたの?」
「いや。この図。花みたいだなって」
「花?」
リラが首を傾ける。
その仕草が、ほんの少しだけ幼い。頭の回転は速いのに、感情の処理は追いつかない瞬間がある。
そこが、彼女を常識人に見せて、同時に年相応にしている。
「うーんと…この図形、ノッドノール語だと直訳が変でね。…… "鉄の花" みたいな語感になるわね」
「鉄の花、か」
ただの似た比喩表現だろう。
地球であっても、花の喩えくらいはいくらでも生まれる。
――少しの違和感を残して、そのまま飲み込む。
リラは気づかないふりをして、読み上げを続ける。
「…次。"夕焼けが終わったあとで、もう一度だけ空が明るくなった"」
「時間が、戻った?」
「戻ったんじゃないわ」
言い切ってから、リラは指で注釈を叩く。
「同じ夕方が、"二枚重なった"みたいな書き方になってる。ほら、注釈。
"白い帯が明るくなると、夕方の空が二枚になった。同じ夕焼けが重なって、雲の縁が二重に見える。すぐ元の夜に戻った。"って」
ノッドノールの空を横切るジルヴァの輪を思い出す。
薄い輪。擦れた金属みたいな光。
街の上空に浮かぶ飛空艇と、紙の上の"白い帯"が重なる。
「あとこの地名、なんて読むんだろう…シ、ロワ?」
「シロワ?」
「うん。"シロワ観測所"。白環帯に最も近い観測点のひとつ…って」
この特殊な地域では空に"白い輪"が浮かぶことがあるそうだ。
輪が見えた場所は、"何かの区切りがずれる" 音が先に来たり、夕方が二度訪れたり。
そういう話だけが、この棚には真面目な数字と一緒に残っている。
「…遠い?」
「本の内容が本当だとすると…かなり遠いわね」
あっさり言ってから、少しだけ眉を寄せる。
計算が頭の中で走っている顔だ。
「そもそもノッドノール内ではないわ。陸路なら…列車と船で…最低でも1か月はかかるわね。」
地球の人口の10分の1ほどのトレイでは、国という枠が育たなかった。
世界には、文化ごとに根を張った都市圏が点在している。トレイの人はそれをフェイズと呼ぶ。
フェイズ同士には交易も外交もある。地域によっては、複数の小さなフェイズを束ねるノードも存在する。
「ジルヴァは?」
「あれは一般人が移動目的で乗れるような代物じゃないのよ。
運賃だって高いし。気軽に買える値段じゃない。…あなたも、今は財布が増える予定ないでしょ」
ない…。無敵で無職の居候だ。
でも唯一の希望があるとしたら、この本の中。
行ったところで何も変わらないかもしれないけど、行くしかない。
「…行くの?」
リラが言う。言葉は短いのに、そこに何枚も層がある。
好奇心。義務感。怖さ。
そして、たぶん、僕を一人にしないための意地。
「シールに相談するよ。まずはそこからだ」
「もちろん。…以外にノリノリかもしれないわね」
「厄介払いじゃないといいんだけど」
話を聞いていくと、シロワは行きづらさが南極級で、地形はアイスランドみたいな場所らしい。
インフラのあるトレイでも、世界の端は別世界だ。
列車や船で近づけたとしても、最後は徒歩か、別の足を探すしかない。
"それでもトレイで死ぬわけにはいない"
塔の中の鐘が鳴った。
時間を告げているのか、区切りを作っているだけなのかはわからない。
「…とりあえず戻ろっか」
リラが先に言う。
頷いて、本を閉じた。紙の擦れる音が妙に乾いている。
決めたはずなのに、胸の奥が落ち着かない。
背表紙を押さえても、シロワの文字だけが瞼の裏に残った。
歩き出すと、足取りだけが先に「帰路」を選んだ。
――――――――――
屋敷に戻ると、シールは相変わらず端末の前にいた。
画面の光が、顔の皺を必要以上に深く見せている。金属の指がときどき乾いた音を立てる。
蒸気の脈動は規則正しいのに、本人の呼吸だけが少し浅い。
机の上は整っていた。散らかっていないというより、散らかる前に片づけてしまう癖がある。
世界が崩れても、まず机の上を片づけてから崩れそうだ。
「おかえり。……座ってくれ」
命令じゃない。気づかいでもない。
"座って話す種類の用件だ"と、淡々と分類した声だった。
背表紙が差し出される。
シールの視線は顔を飛ばして、まず本に落ちる。
表紙の擦れ。紙の匂い。上の棚特有の埃。そういう情報だけで、どこに触れたかを当てにくる目。
「"ハクカンタイカンソクキロク・ショウ" だそうですよ」
「あら、上手に言えましたね~」
うるせいやい。いい加減トレイの言語をきちんと勉強しないと、永遠と馬鹿にされ続けるな。
シールが受け取ると、親指で埃をひと撫でする。丁寧だが、愛着はない。
ページを数枚めくって、目線が速く走る。止まったのは内容じゃなく、ある単語の位置だった。
「……やはりシロワか」
その一言で、空気の温度が半段だけ変わる。冷たさじゃない。口に出す言葉を一段減らすときの慎重さだ。
シールは抄録を机に置き、引き出しの奥から古びた革表紙のノートを取り出した。角は丸く、背は少し潰れているのに、留め具の金具だけが新しい。
「これは私の仮説ノートだ。20年分の観測と思索が詰まっている」
ノートが机の中央に置かれた瞬間、図書館の紙束が急に軽く見える。あの時間は何だったんだ。
開かれたページには、手書きの図と数式、それから短い言葉が散っていた。日時はほとんど書かれていない。代わりに「門が二度閉まった夜」「蒸気が増えた朝」「街灯が点り始めた頃」といった表現が続く。
「……だったら、なんで研究所ですぐにこの話をしなかったんですか」
自分でも驚くほど、声が強く出た。
急かしているつもりはない。ただ、この話を“仮説”のまま棚に戻されるのが怖かった。
棚に戻された瞬間、ログの波形だけが頭の中に残って、今ここで呼吸している事実まで疑いそうになる。
シールはすぐに答えなかった。言葉を急ぐ人ではない。ノートに視線を落とし、次にこちらを見た。
「仮説にすぎないからだよ」
それだけだと冷たく聞こえるのを知っているように、続けて言葉を足す。足し方がうまい。言い訳ではなく、事情として置く。
「仮説は、外へ出すほど強くなることもあるが、壊れることもある。君は今、壊れて困る側にいる。だから私は、確かじゃない話を軽々しく渡したくなかった」
机の上で、ノートの紙がわずかに浮く。屋敷のどこかで蒸気が抜けた音がして、灯りが小さく揺れた。
シールはその揺れを気にする様子もなく、ペンを取る。
「地球とトレイは、元は1つだったのかもしれない。あるいは最初から別々で、ただ"観測"という行為によって繋がっているだけなのか」
「観測……」
「そうだ。君が地球で"観測不能放射"に晒され、Qスーツを着てボストーク湖に降りた瞬間、君は2つの世界の境界に立った。そして境界では、存在のルールが揺らぐ」
シールはペンを取り、ノートの余白に新しい図を描き始めた。
「君が"死んだ"という記録は、おそらく地球側の観測の結果だ。だが同時に、トレイ側では君が"生まれた"という観測が成立した。矛盾しているが、それが境界の性質だ」
リラが身を乗り出す。
「じゃあ、ツバキは2つの世界の"どちら"にいるの?」
「両方だ。そして、どちらでもない」
シールは静かに答えた。
「彼はまだ"収束"していない。地球でもなく、トレイでもなく、その間にいる。だからこそ、どちらの世界にも完全には馴染めない」
ツバキは自分の手を見た。確かに、この体は奇妙だ。トレイの空気を吸い、トレイの食べ物を食べているのに、どこか"ここにいない"感覚がある。
「……収束するには、どうすればいいんですか」
「それを知るために、君はシロワに行く必要がある」
シールはノートを閉じた。
「白環帯は、世界の境界が最も薄い場所だ。そこでなら、君の存在がどちらに属するのか、あるいは新しい答えがあるのか……見えるかもしれない」
どちらにも存在しなくなってしまったとき、"どちらからも観測されなくなったとき"
この身体はどうなってしまうのだろうか。
シールは一度だけ息を吐いた。安堵ではなく、説明を終えたときの呼吸だ。
リラはノートと抄録を交互に見て、それからシールをまっすぐ見た。
「じゃあ私も行く。ツバキだけ行かせるのは嫌」
シールの表情が変わる。怒りではない。父親の顔だ。
声は大きくならないが、拒否の芯は折れない。
「リラ、だめだ。危ない」
「でも…!」
「危ないからだ」
理由はそれだけで十分だ、という言い方ではない。言い方は柔らかいのに、結論は動かない。
シールは机の端に置かれた端末へ視線を落とし、すぐ戻す。ほんの一瞬で、誰も見逃す程度の動きだが、記憶に残る。
「君は、外の世界を"見たい"だけじゃない。外の世界に"見られる"。それが一番の問題だ。ツバキはまだ、目立つ理由が説明できる。君はそれができない」
「説明できる、って何」
リラの声が尖る。尖るのは怖いからだ。何かにおびえている。
シールはそれを叱らず、叱る代わりに言葉を短くする。
「……話が長くなる。今日はここまでにしよう」
そう言ってシールはノートを引き出しへ戻し、留め具を留めた。金具の音は小さい。小さいのに、妙に耳に残る。
机の端の端末が、灯りの揺れに合わせて一度だけ淡く反射した。反射しただけだ。光ったわけではない。
「一晩寝て、明日もう一度話そう。私は君たちの味方だよ」
最後の一言は、研究者の言葉じゃない。父親の言葉だ。
リラはまだ不満そうだったが、反論を飲み込んだ。飲み込むのは納得じゃない。信じる方に賭けただけだろう。




