第三章 第一節 氷上の帰還者
氷点下六十度。
救助隊が、氷底へと垂直に落ちていく一本の縦穴を進む。
ボストーク湖専用に掘削された高速エレベーター。
人類が四千メートルの氷をくり抜き、そこに極地調査用の昇降機を押し込んだ結果が、この無骨な筒だった。
壁は青黒く光り、圧縮された氷の層が幾重にも重なっている。
岩でも金属でもない、凍りついた"時間"の柱に、錆ひとつない補強リングが規則正しく打ち込まれている。
足元にはケーブルと配管が這い、遠くで油圧ポンプの低いうなりが響いている。
奇跡という言葉は、極地ではあまり使われない。
生還も、遭難も、数字の統計に回収されていく。
だがこの夜ばかりは、誰もがその言葉を一度は思い浮かべていた。
その底にあるはずの湖から、ひとつの微弱な信号が上がってきたのだ。
「、、、最終反応はここから上に二十メートル。
姿は見えないな。」
先頭を行く隊長が、ヘルメット内でぶっきらぼうに言う。
声はレーザー通信のフィルタを通り、乾いたノイズと共に耳へ届く。
「まさかエレベーターの途中に引っかかってる、とかじゃないですよね。」
後方の隊員が冗談めかして言うが、誰も笑わなかった。
この深さで何かが「途中に引っかかっている」という状況が、どれほど絶望的か、全員が知っている。
計器の数値がゆっくりと変わる。
温度は安定、圧力も規定値内。
問題はひとつ――信号の発生位置だけだった。
「、、、おい、待て。今のログもう一回出せ。」
別の隊員が、腕のコンソールを拡大表示する。
深度を示す数字が、ゆっくりと、しかし確実に変わっていた。
『最終検出深度 マイナス四〇〇〇。
現在位置 マイナス三五〇〇……三〇〇〇……』
「、、、上がってる? エレベーターより速いって、どういう、、、」
「計器の故障じゃないのか。」
「故障するなら、最初の一発目から壊れてるはずだろ。
氷底湖で反応を拾った時点までは整合してる。」
短い沈黙が落ちる。
氷底湖からの距離が、数十秒のあいだに何千メートルも縮まっていく。
物理法則に従う限り、そんな移動の仕方は存在しない。
『現在位置 マイナス一五〇〇……マイナス五百……ゼロ。
信号、氷床上面レベルに移動。』
氷底湖から発信されたはずのビーコンが、
ログ上では**地表に「転移した」**としか言いようがなかった。
「、、、そんなバカな。シャフトを通ってきた反応は無いんですか。」
「無い。中間深度での反応はゼロ。
湖と地表のあいだは、まるごと抜けてる。」
誰もそれ以上言葉を継げなかった。
訓練で繰り返し叩き込まれたパターンにも、こんなケースは存在しない。
「上に移動している。氷床上面だ。
昇降機に戻るぞ。」
隊長はそれだけを告げると、強引に話を切った。
磁気ブーツが金属製のグレーチングを踏みしめ、わずかな振動が昇降路全体に伝わる。
彼らがここまで降りてきた時間が、ただちに無駄になったわけではない。
ただ、度重なる想定外に疲れ切っている様子が見られた。
そして――この場で"なぜか"を考えることは、任務上許されていなかった。
氷底湖から発信されたはずのビーコンが、なぜか"地表"に移動していた。
理屈は後でいい。今考えるべきことはひとつ――生きている可能性があるなら、拾いに行く。
昇降機のカプセルは、逆立ちした弾丸のような形をしている。
内壁には古い擦り傷と、新しい検査スタンプが入り乱れ、
床下では制動用フライホイールが重苦しい回転音を立てていた。
「昇り速度、規定値。振動、良好。」
オペレーターの声が静かに響く。
カプセルは、氷の縦穴を音もなく駆け上がっていく。
厚い氷の壁が、窓の外を下へ流れていく。
何度も往復したはずの景色なのに、今夜だけは違って見えた。
地上に近づくほど、通信ノイズが増える。
宇宙線、太陽風、極渦……
ありとあらゆる要因が重なって生まれる雑音に混じって、ひとつだけ"形"を持った波形が浮かび上がっていた。
生命維持装置の基準パターンとも違う。
通常の救難ビーコンとも一致しない。
「、、、これは、なんだ。」
誰かが呟いたが、答えはどこからも返ってこない。
ノイズの山に、薄く刻まれた階段状のパルス。
それは、何かが「こちら側に」届こうとしているようにも見えた。
カプセルが減速し、昇降路の天井に埋め込まれたリング状のライトが一斉に光る。
鋼鉄製の隔壁がスライドし、分厚いハッチがゆっくりと開いていく。
地上の空気が、冷たい刃となって流れ込んだ。
風が白い煙のように吹き抜ける。
温度表示は、氷点下六十度を少し下回っていた。
雪上基地のサーチライトが一斉に点く。
吹雪は弱い。視界は、まだ保たれている。
「ビーコンは、、、あっちだ。」
測位ユニットを持った隊員が、雪原の一点を指さした。
そこは、最近は誰も足を踏み入れていないエリアだった。
基地からも昇降施設のドームからも、微妙に外れた位置。
一行は隊列を組み、ゆっくりと進んでいく。
靴底の下で雪が軋み、ライトの輪が前へ前へとずれていく。
背後では昇降施設のタワーが、冷たい蒸気を吐き出しながら無言でそびえていた。
そして、彼らは見つけた。
雪面が、不自然に膨らんでいる。
風の痕跡も、吹き溜まりの筋もない。
ただ一箇所、白い大地がなめらかに盛り上がっている。
「掘るぞ。」
合図と共に、隊員たちがスコップを突き立てる。
雪は意外なほど軽く、層を成さずに崩れ落ちていく。
まるで、さっき降り積もったばかりの新雪のようだった。
数十センチも掘らないうちに、金属音がした。
ライトが集中する。
雪を払い除けると、黒く煤けた装甲が姿を現した。
量子遮蔽防護服――Qスーツ。
ボストーク湖のために設計された世界最高峰の防護服は、しかし今や異様な姿に変わり果てていた。
表面は歪み、複数の層がねじれるように固着している。
氷片と煤が幾重にも貼り付き、本来の質量以上の重みを感じる。
本来なら滑らかな曲面であるはずの装甲が、ところどころ「噛み合って」しまったかのように折れ曲がっていた。
「、、、おい。
こんな状態で、中身が残ってるわけが――」
隊員の言葉は途中で切れた。
ヘルメット側面のモニタに、かすかな光が走ったのだ。
生命維持装置のインジケータ。
通常なら、電源断と共に暗転するはずの部分が、淡いリズムで点滅している。
規則的ではなかった。
だが、どこか"意志"を感じさせる点滅だった。
「まだ生きてる、、、? いや、そんな、、、」
言葉が追いつかない。
常識と訓練が何度も否定するのに、目の前の事実だけが頑固に残り続ける。
ヘルメットロックを慎重に外す。
凍りついたシールが、乾いた音を立てて割れた。
白い霧が、ゆっくりと立ち上る。
内部の空気が、極地の夜に混じる。
まぶたが震えた。
わずかに、ほんのわずかに。
それでも、それは紛れもない"反応"だった。
誰かが息を呑む。
博士の目が半分だけ開き、ぼやけた視界がライトの光を拾う。
焦点は定まらない。
それでも、何かを探すように左右へ動いた。
唇が、ひび割れた皮膚の下でかすかに動く。
「……つ、ば……き……」
風の音に紛れて、名前とも呻きともつかない音が零れた。
隊員たちは一瞬、互いの顔を見合わせる。
「今、、、何て、、、?」
誰も、はっきりとは聞き取れなかった。
ただ、その音が「誰かの名」であることだけは、全員が直感していた。
次の瞬間、生命維持装置の点滅が一段と激しくなる。
博士の呼吸がそれに合わせて揺れる。
通信機に短いノイズが走った。
意味を持たないはずの雑音の中で、階段状の波形が一度だけ浮かび上がる。
それは、後に解析班が長い時間をかけて検討することになる"最初の記録"だった。
「搬送する。今すぐだ。」
隊長の声が現実を引き戻す。
ストレッチャーが運び込まれ、Qスーツのまま慎重に固定される。
重量オーバーを示す警告灯が一瞬点滅したが、誰も口には出さなかった。
誰も余計なことは言わなかった。
質問も、感想も、後回しでいい。
今はただ、この男を基地まで運ぶことだけが任務だった。
雪面が静かに閉じていく。
掘り返された跡はすぐに風に撫でられ、どこからが元の地表だったのか判別できなくなる。
ライトが遠ざかる。
白い大地だけが取り残される。
そこには、やはり足跡はなかった。
博士のものも、誰か別のものも。
まるで――
"この場所だけが、ついさっきまで世界から切り離されていたかのように。"
救助車両のエンジン音が、極地の夜に飲み込まれていく。
基地の方角で、小さな光が一つだけ瞬いた。
その光は、まだ誰にも知られていない事実を照らしていた。
ボストーク湖で消息を絶ったはずの科学者が、
氷の大地に戻ってきた。
時間を超えたのか。
世界を跨いだのか。
それとも――観測の外側から、ただ「戻ってきた」としか言えないのか。
この夜、南極の統計にひとつ新しい項目が増えた。
「説明不能な生還」




