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鋼鉄の華  作者: にーる
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第二章 第三節 観測されぬ物質




あの名曲が生まれてから62年も経つというのに、"地球"ではいまだ車は空を飛ばない。

航空力学は一般人が扱うにはむつかしすぎるし、どんなに素晴らしいモーターが発明されても揚力だけでは安全性を担保できない。

人類は宇宙に気楽に出かけるようになったが、肝心の"母なる大地"からは逃れられていない。


それがどういうことだろう。

目の前では、巨大な飛空艇が音もなく浮かんでいた。


熱気球や硬式飛行船の類ではない。

どう考えても浮くはずのない巨大な船が浮いている。


機体の表面は滑らかな鋼で覆われ、風を切るたびに波紋のような光が走る。

翼らしい構造は見当たらないが、代わりに船腹のあちこちで圧縮空気が震え、目に見えない"層"を押し返している。


それは"飛んでいる"というより、

世界の方がその船を避けて流れているように見えた。


「……どんなとんでも技術だ」


飛空艇の影を見上げている市民たちは誰も驚かず、ただ手を振っている。

この異常な光景が、どうやらこの街では"日常"らしい。


やがて霧が濃くなり、鋼の船は雲の向こうに溶けていった。

耳の奥に、かすかな共鳴音だけが残る。





――リラの案内で、ツバキは再び灰色の建物に戻った。

石造りの壁の中に、金属管と蒸気の音が規則的に響いている。

奥の部屋に腰を下ろすと、リラが透明な液体を差し出した。


口に含むと、細かい泡が舌の上で弾けた。

微かな甘みと焦げ草のような香り。冷たいのに喉の奥で熱を思い出す。

この世界では、これがごく普通の清涼飲料らしい。


「さっきのお水はこの世界に"定着"させるためのものだったけれど、これは『リオラ』。みんないつでも飲んでるわ。」


ツバキの表情を見たリラは微笑んだ。

「気に入らなかった? でも安心して。みんな"世界一おいしい水"って言うけど……私も最初は苦手だったわ。」


ツバキはグラスを傾け、光を透かした。

透明なのに、液体の中で何かがゆらいでいた。


「ふしぎ水……」


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――



「異世界に飛ばされた……そんな話、本気で言うのか?」


目が覚めてから何時間がたっただろう。

この場所も街も、いくら探しても時計は見当たらない。それでも、すでに2〜3時間は経っている気がした。

先週から南極入りをして、昨日からボストーク湖の調査。

そのあと2週間ほど南極で観測結果を精査して、月末には際量子観測研究機構に戻る――。

特殊な調査だからと腹をくくっていたが、まさかこんなセリフを口にするとは思ってもみなかった。


リラは静かに頷いた。

「ええ。正確には"モノリス"による位相跳躍。次元移動と呼ぶ人もいるわ。」


ツバキは眉をひそめた。

その言葉の荒唐無稽さに、かえって現実味が宿っていた。

ドッキリにしては準備が綿密すぎるが、夢の中ではなさそうだ。

これが俗にいう"異世界に飛ばされた系男子"というやつか……ついに僕もそのカテゴリ入りらしい。


しかしどう考えても話ができすぎている。

仮に異世界だとして、同じような人型の生物が、同じような歴史をたどる確率は一体どれほどだ。

"プールに投げたバラバラの時計すら組みあがるだろう"


「この世界では、地球から来た人間が他にもいるのか?」


リラは少し考え、答えた。

「ええ、"確認"されているわ。ただ、彼らは"ヒトの姿"ではなかったそうよ」


彼女は自分が生まれる前の話だと前置きした。

「父は""20年前""から"異界からの来訪者"を研究していたの。

これまでにも二度、同じように川辺に流れ着いたけれど、生きていたのはあなたが初めて。あの防護服のおかげかもしれないわ。」


「防護服……やっぱり、あったのか。今は?」


「父の研究室よ。半分溶けていたけれど、ここまで状態が保たれた"異界の物"は初めて。助けたお礼だと思って許して。」


ツバキは頷いた。防護服が残っている、それだけでも救いだった。

「研究材料にしてもらうのは構わないけど、僕もこの後研究室に行ってもいいかな?」


あの中に記録装置が残っていれば、レーザー通信の試行もできる。

今は少しでも情報を集めて、できることは全部やらなくては。


「ありがとう。父もあなたに会いたがっていたわ。あなたも…あっちの世界では研究者なんでしょう?」


服装からか、もしくは過去の来訪者からか、

自己紹介の調査という単語からか、研究者という身元はこの世界でも共通なようだ。


「わかってくれるなら話が早い。さっきの話なんだけど……そもそも異世界の定義があいまいすぎないか?

 次元移動なんてことはなく、同じ宇宙の別の惑星という可能性は?」


「私も詳しくは知らないけれど……ここまで容姿も文化も似ているのは不自然よ。

あくまで父の推測だけど……"分岐の方が自然"というのが父の仮説よ。あまりにも似すぎていて、まるで鏡のようなの。」


「…………」


先ほどの疑問の通り、どんなに似た惑星が同じ宇宙に存在したとして、

同じような人型の生物が誕生し文明を持つ確率は、いかほどのモノだろうか。


もし仮に違う世界の何かが発見されて、それが自分の世界の様子と酷似していたのならば、

確かに鏡の世界だと思う人もいるかもしれない。


ただ、今自分が存在する場所が地球ではないという事実はなんとなく受け入れてきたというのに、

今自分が存在する場所は"分岐された世界"だという突拍子もない話までも受け入れなければいけないのは、、、

正直今の自分には荷が重すぎる。


そのとき、廊下を叩く重い足音が近づいた。

続いて扉が勢いよく開く。蒸気の粒が室内に流れ込んだ。


「リラ!! 地球人が目を覚ましたって!?」


中年の男が駆け込む。五十代ほどの整った髭と穏やかな瞳。

「落ち着いて、お父様。まだ目を覚ましたばかりなの。」


「ああ、すまない。」

男は姿勢を正し、手を差し出した。

「私はシール・レディル。重力理論と量子の研究をしている。」


その手は金属だった。

関節が蒸気の脈動で動き、薄い熱が伝わってくる。

蒸気式筋電義手とでもいうのだろうか。


「助けていただき、ありがとうございます。ツバキといいます。

……なるほど、重力研究からの多次元解釈、ですか。」


なぜこの中年の男が"分岐"という極端な仮説を唱えているのか、瞬時に理解ができた。

重力の力が多元に影響を与える理論も、確率を超えて2つの状態を維持できる量子も、

たしかに"橋"にはなりうる。だがそれをマクロの世界で観測できた者はいない。


シールという中年の男は、少年のようなまなざしでこちらを見る。

「もうリラから説明があったんだね。

君が端的に理解したように、私は――いや、我々の一部は――君たちと我々が、"分岐して別れた世界"ではないかと考えている。」


「ここまで来たならおとぎ話の世界も信じてみようと思いますが、マクロスケールの話とは信じがたいです。」


「ただ、今君は確かにこの世界に存在する。それは確かな事実だよ。」


ツバキは窓の外を見た。

蒸気を吐き出す飛空艇が、ゆるやかに旋回している。

「ほとんどの機構が蒸気で動いているように見えましたが、燃料は?」


シールが軽く笑った。

「君たちの世界には"虚層素ナルリオン"という言葉は存在しないようだな。」


彼は机の上の球体を指さした。

透き通るガラスの中で、青白い霧がゆっくりと渦を巻いている。

「これが虚層素の反応モデルだ。観測できないが確かに存在する粒子。

我々はそれを"観測不能流"と呼ぶ。すべての動力と情報伝達はこの流れで成り立っている。空間の歪みそのものを媒介していると考えられる。」


ツバキの脳裏で、南極の氷底湖が揺れた。

――ボストーク湖。観測を試みれば情報が消える、あの放射。


「……つまり、虚層素は重力場の構成要素?」


「近いが、同じではない。」

シールは顎に手を当て、考えるように言った。

「重力が"形を与える"なら、虚層素は"形を確定させる"力だ。

我々の仮説では、重力は別の層に漏れている可能性がある。もしそうなら、君たちの世界と我々の世界は、どこかで重なることがあるかもしれない。」


笑顔は穏やかだったが、その奥に疲れが見えた。

彼もこの世界の構造をまだ掴みきれていないようだ。

それでも確信しているのだ――"観測されぬ物質"が、世界を支えていると。


「君の防護服には、この虚層素を変換する痕跡があった。

つまり地球でも、無意識に同じ層を扱っている。――君の存在そのものが、二つの世界の"橋"なのかもしれない。」


ツバキは答えなかった。

窓の外、遠くで雷鳴のような振動が響く。

飛空艇の影がゆっくりと雲を裂き、青白い光が地上を照らす。


彼は自分の手を見た。

指の輪郭が、わずかに遅れて視界に追随する。

光と影の位相が一瞬ずれて――すぐに戻る。


"形を確定させる力"

それは彼の世界で言う「観測」の別名なのだと。

まだこの時は気づく余裕はなかったのだ。


ツバキは静かに息を吐いた。

観測できぬまま存在し続ける"虚層素"のように、

彼自身もまた、この世界に定着しつつあった。

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