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鋼鉄の華  作者: にーる
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第二章 第一節 目覚めの部屋



母は偉大であった。

無償の愛を兄妹に注ぎ、多くの自己犠牲を払い、そして死んでいった。

あまり上手な生き方ではなかったのだろうか。

ただ、“偶然に出来あがった社会のルール”に合わなかっただけかもしれない。

彼女の人生を思うと、張り裂けそうなほど胸が痛む。


———ここは夢なのだろうか。


空に浮かぶ僕を、もう一人の僕が見下ろしている。

幼い頃、屋上で風を追いかけた記憶が蘇る。

いつか羽が生えて空を飛べると信じていた。

雲を追い、青空に焦がれ、自由を願っていた。


そろそろ、目覚めなければならない。


妹に朝食を作り、研究室へ向かわなくては。

今日も観測と記録が山積みだ。

意識の狭間で朝を想い、彼はゆっくりと瞼を開いた。




—————————————————————————————————————





光で満たされる。


天井の模様が波のようにゆらぎ、氷の下に閉じ込められたようだった。

息を吸うと、金属の匂いと湿った植物の香りが混ざる。


体温は正常。痛みもない。指先に視線を移す。五体満足だ。

ただ、腕に走る微かな痺れが“現実”を知らせていた。


——ここはどこだ。


高い天井に、アーチ型の梁。

灰色の壁には古い病室のようなひび。

まるで十九世紀のセント・トーマス病院を再現したかのようだ。


どこかで、低い機械音が律動している。

遠くで、何かが呼吸している。

空調ではない。もう少し、有機的だ。



"時計は見当たらない"



「——もう目覚めたのね。少し待ってて、お水を持ってくるわ。」


女の声がした。その瞬間、世界の空気がわずかに変わった気がした。

まだ頭の解像度が低い。言葉は水の中を通るように鈍く響く。


ボストーク湖……モノリス……

博士や他のスタッフは無事なのだろうか。

いくらあの防護服が身体を守ってくれていても、400気圧の世界でできることは限られる。

地震は起こりにくいエリアではあるが、もし何かの要因で高速エレベーターが壊れた場合、生還はほぼ不可能だ。


ガチャリ


扉が開き、少女が入ってきた。紺のドレスに白いエプロン。淡い金髪、灰に近い紫の瞳。

まるで古い絵画から抜け出してきた人物のようだった。

その立ち姿には古典的な気品がある。


「とりあえず、お水を飲んで。身体は起こせるかしら。」


渡された金属製のカップを両手で受け取る。

水は無味だったが、舌の奥に“感触”だけが残る。


ベッドから足を下ろす。

履いていた極地用のインナーシューズが、まだ足に残っていた。

断熱層の一部が黒く変色している。熱で焼けたのか、それとも—— 何かに触れたのか。

それでも形は保たれていた。歩くことはできる。


まずは状況の確認をしなくてはならない。

どう考えても氷底湖からこの場所に移動できる方法が無い。

「ありがとう。えーと、ここはどこだか聞いてもいいかな。」


少女はこの部屋に似つかわしいチューリップチェアに腰を下ろし、少し考えてから答えた。

「ここはノッドノールのエアスレック。あなたは川辺で倒れていたのよ

 夜間は医療搬送艇が来ないじゃない? だから家まで私が運んだのよ。少し怖かったけれど。」


ノッドノール 聞いたことがない地名だ。

……それにオニックス川は今の時期、凍っているはずだ。


少しこわばった表情で少女は話しかける。

「ねぇ、あなた、自分が誰だかわかる?」


「ああ、僕はツバキ。南極の……ボストーク湖の調査中に事故に巻き込まれたのかもしれない。ここはマクマドー総合病院?」


言いながら、自分でもその言葉の薄さに気づく。

南極最大の拠点、マクマドー基地。

そこに併設された総合医療棟は、過酷な極地調査の中継地であり、

誰もが一度は立ち寄る"現実世界の最後の部屋"だ


暖かすぎる空気、湿った匂い、耳を打つ低い振動—— ここはどう考えても南極ではない。



少女は少し首を傾げた。

「さっきも言ったけれど、ここはノッドノールよ。

 ……それと、"南極"ってどこのことかしら?」


——何を言っている。


「じゃあノッドノールって、地球のどの辺にある国なんだ?」


少女の表情が曇る。

「聞いたことのない言葉ばかりね。私たちの星は"トレイ"じゃない。貴方本当に大丈夫?」


ツバキは沈黙した。

この少女がとびきりのクレイジーサイコパス野郎なのか、自分が幻覚を見ているのか。

とにかくどうやらここは地球ではないそうだ。そうですかそうですか、、、早めにここを出た方が良さそうだ。


「……なるほど。大丈夫だよ。身体も平気だし、あまり迷惑もかけられないから帰ることにするよ。」


「あら、そう。扉を出て右手に階段があるから、中庭を抜ければ外に出られるわ。」


意外にも少女は淡々と別れを告げた。

移動用キャビネットには自分の荷物が置かれている。

型落ちの量子端末、損傷したのか電源は入らない。

ドッグタグ、少量の携帯食料。


量子遮蔽防護服は見当たらない。

この状態は危険すぎる、、、幸い英語圏だし、大使館を早めに探せればいいのだが。


「これ以外に何か、僕の持ち物は?」


「いいえ、拾えたのはそれだけよ……ただ、あなたが見つかった場所の近くで金属片が見つかったの。父が興味を持って、研究室に運んでいったわ。」


「研究室?」


リラは少し誇らしげに頷いた。

「ええ。父は"異界物質"を専門に研究しているの。あなた自身も、観測対象として扱われるかもしれないわね。」


"異界物質"


非現実的な響きだが、今は胸がざわつく。

それはたぶん、ボストーク湖の"あれ"と同じ系統の何か。

観測しようとすると、情報が消える。まるで、視線そのものを拒むように。


あらためて視線を部屋の中に移す。

壁は石造りのようだが、冷たさはない。

呼吸するようにかすかに膨張と収縮を繰り返している。


——最新のポリマー素材か?

南極の極限環境に耐えるための実験住宅という可能性もある。

しかし、それにしてはどの装置もラベルが読めない。

見慣れたラテン文字がどこにも無いのだ。


「ありがとう。……君のお父さんにも礼を言いたい。今度、直接伺うよ。」


「いいのよ。それに——また、すぐに会う気がするわ。」


ずっと何か知っているかのような口調だ。

「……名前を聞いてなかったな。」


少女はほんの一瞬ためらい、それからはっきりと名乗った。

「リラよ。リラ・エシナセルフ・レディル」


その名を聞いた瞬間、思考がわずかに止まった。

ファミリーネームを耳にするのは——"IQOI(国際量子観測研究機構)"入構式以来か。

いまどき姓を名乗るのは、よほどの家柄か、あるいは何かを誇示したい連中だけだ。

衣服の縫製からしても、ただの市民ではない。


ツバキは頷き、窓の外を見た。

白い霧が漂い、灯の粒がその中で脈を打っていた。

ガス灯だ。煤けた鉄骨の街路が、霞の向こうに連なっている。

鐘の音が遠くで響いた。時計塔か、それとも蒸気機関の合図か。


「ここは……どこの研究区画なんだ?」

誰にともなく呟く。


地球のどこか、極地にある未公表の観測拠点。

知識のどこにも当てはまるような場所は見つけられない。


ただ一つだけ気になるのは、窓枠の下に刻まれた金属文字。

直線と円弧が複雑に組み合わさり、

まるで物理式と象形文字の中間のように見えた。


——見慣れないフォントだな。

新しい国際規格か、それとも企業独自の記号体系か。


ツバキは息をつく。

「……どこだ、ここは。」


リラは何も答えなかった。

瞳の奥に、霧ではない"何か"を見ているようだった。




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