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鋼鉄の華  作者: にーる
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第三章 第五節 借り物の顔

廊下に出ると、屋敷の中の音が急に近くなる。

歯車が擦れる一定のリズム、配管のどこかで圧が抜ける短い吐息、遠くで扉が閉まる気配、床の下を蒸気が走る細い振動。

静かにしているつもりでも、ここでは何かが常に動いていて、止まってくれない。


用意された部屋に戻る途中、リラは端末の入った布袋を胸のあたりで押さえていた。

怒っているのか、堪えているのか、その区別がつかない。つかないままの方が、たぶん正しい。


「…ねえ」


しばらく歩いてから、リラが言った。声を落としているのに、屋敷の空気がよく通るせいで、言葉が必要以上に届きそうになる。


「私、"見られる"って言われた。何が、どう、見えるのかな…」


「…分からないな…」


答えると、リラは笑わなかった。

分からないという言葉が、地球では逃げに聞こえることがあるのに、ここでは危険を避けるための正直に聞こえる。


「でも行きたい。私だけ置いていかれるの、嫌だわ」


足を止めたい衝動が出たが、そのまま歩き続ける。止めたところで、屋敷は止まらない。

返す言葉を探している間に、壁の向こうから液体の音がした。水ではない、温い金属が流れる音だ。


「それに"シロワ"の事だって…今までそんな話一回も聞いたことなかったのに…」


「…明日、またシールと話をしよう…」


言えるのはそれだけだった。


部屋に入ると、灯りは落ち着いた青白さで、窓からは薄明の空がこちらを覗いている。

街の煙が薄く伸び、遠くのジルヴァがゆっくり旋回している。


机の上に返却されたQスーツのログデータを置く。波形の整い方が逆に不気味だった。

"どちらからも観測されなくなったとき"という考えが、しつこく戻ってくる。

呼吸は続いているのに、続いていることに理由がない気がしてしまう。


シールは"何かを知っているし"、"何かを隠している"


だけど今は彼からの情報がすべてで、その情報源を雑に扱うことはできない。

「悪人だったらよっぽど楽なんだけどな、、、」


言葉の節々に感じる彼の重みは、そのまま彼の人間性を表していた。

研究者であり、父親でもある。そんな彼の言動に違和感はない。

故に一瞬の間に垣間見える"何か"が余計に目立ってしまう。


「今の情報で推測しても意味はないか、、、」


窓の外でジルヴァは相変わらずゆっくり旋回していて、光の向きが変わるたびに船腹の金属が一度だけ鈍く反射した。

夜の始まりは合図ではなく、音の減り方でなんとなくわかるようになった。

廊下の足音が途切れ、扉の開閉が遠ざかり、最後に残るのは歯車の一定の擦過音と、床の下を走る蒸気の細い振動だけになる。


灯りを落として横になると、薄っすらと見える自分の体温がやけに確かなものとして浮き上がり、確かなものほど疑いたくなるという悪癖まで一緒に起きてくる。

目を閉じて、耳だけを残す。屋敷は止まらない。止まらない音に紛れて、今日が終わっていく。



------------------------



ノッドノールの朝は匂いで始まる。煤の匂いが薄くなり、湿った石畳の匂いが前に出る。

門が開く音が重なり、荷車の車輪が鳴き、遠くで蒸気が抜ける。


例の食堂は屋敷の奥だ。相変わらず嘘みたいに華美な造りで人間を受け入れてくれる。


シールは先に席に着いていて、こちらを見ると短く笑った。

「おはよう。二人とも、ははは、顔が固いな」


リラは椅子に座るなり、昨日の続きをそのまま始めた。


「…私も行く」


言うだけ言って、反発の構えで次の言葉を待つ。昨日の夜とは変わって、いつもの表情が少し戻ってきた。

ところがシールはすぐに否定しなかった。ナイフとフォークを一度置き、リラの目を見てから、あっさり言う。


「行っていい」


リラの目が一瞬止まる。

怒る準備をしていたのだろう。あぶれた感情が行き場を失う。


「…は?」


「昨日は止めた。今も危ないと思ってる。でもね、止め続けるのが正しいとは限らない」


リラの肩が落ちる。安堵ではなく、肩透かしだ。


「昨日あれだけ反対したじゃない。なんで急に」


「急じゃない。昨日はまず君を止めて、考える時間が欲しかった。

 リラは勢いで飛び出す。私はその勢いが嫌いなんじゃなくて、守る手順が要ると思ってるだけだ」


父親の声だ。叱らない。嘘の感情ではないだろう。

それに、結論を支える芯があるように思う。


シールは鞄から紙を一枚取り出して、テーブルに滑らせた。


「今日は準備の日だ。まずは買い出しに行っておいで。

 靴と雨具、手袋、包帯、筆記具、封筒、保存の利く食料。どれも派手なものは選ばない方が良い」


リラはリストに目を落とす。


「ノッドノールの先の話は、聞かせてもらえないの」


「まだ知らなくていい」


優しい口調だったが、揺れない。


「こんな大事な時まで子ども扱いしないで!」


目の前に"ブレックファスト・イン・ブレッド"が置かれたまま、まだ誰も手を付けない。

トレイでこの名前を聞いた時にはびっくりしたが、バージ・ハウスのとは若干違っていた。

それでも感じる懐かしさは、ロンドンの物と変わらない。


「知るという事は、それ自体に責任を孕む。今日のタスクをこなすんだ」


「——」 バタン


リラは食堂を出て行ってしまった。

、、、腹ごしらえは必要だよな。



-----------------------



ツバキが食堂を出るころ、屋敷の外は音が一段増えていた。荷車の車輪、門の開閉、配管の低い唸り。

廊下は薄暗く、外の日差しとのコントラストが綺麗だった。地球は12月だったはずなんだけど、、、


「…ツバキ、少しだけいいかい」


先に食堂を出ていたシールに呼び止められる。

廊下の角、窓の光が当たらない場所に立っている。

金属の腕が外の明るさを拾って、肘のあたりだけ光った。


「親子喧嘩の仲裁をしてる暇は無いですよ」


「あれは私の言い方が良くなかったね。反省しているよ」


次に何か言い訳が続くかと思ったが、続かない。代わりに、廊下の奥を手で示した。


「書斎で少し話そう。今のうちに、君に話しておきたい事がある」


「…分かりました」



―――――――――――――――――――――――



書斎の扉が閉まると、屋敷の音が少し遠くなる。机の上に昨夜のノートは出ていない。

代わりに、紙と筆記具と、いくつかの封筒が整然と置かれている。整い方が"慣れた段取り"であることを示していた。


シールは椅子を引かずに、机の端から封筒を一つ引き寄せた。

封を開き、中から薄い板を二枚取り出す。金属の縁と、光を返さない黒い面。


「これを」


一枚がこちらへ滑ってくる。


手に取ると、思ったより軽い。金属のくせに、体温に馴染むのが早かった。


「識別印だ。外に出るための"顔"になる」


「…食堂でリラに渡さなかったのは」


「順番の問題だ。もう一枚はリラに渡す。だが先に君に話をしておきたかった」


シールは机の角に封筒を置いた。


「さっき"まだ知らなくていい"と言ったのは、リラのためだけじゃない。

 順番通りに動かないと、君たちが"止めにくい人間"になれない。ここから先は、その言葉の意味から話そう」


「…聞きます」


「ノッドノールでは、すべての人間が何かしらの形で"観測"されている。

 生まれた者には居住証、外から来た旅人には入口番号。どちらもない人間は、存在が宙に浮く」


「僕は、どちらもない」


「そうだ。だから入口側から辻褄を合わせる必要がある。

 旅人の偽装は線を創るのが面倒でね。過去が無いところに過去を作る作業だ、巻き込む範囲が大きくなりすぎる」


机上の紙を一枚だけずらす。そこに何かの名が書かれているのが、ちらりと見えた。


「研究者は単独では軌跡が残りにくい。研究所の推薦、同行、搬入申請——責任の枠に入っている分、出生まで掘られにくい。

 庁舎に昔から貸しがある人間がいてね。昨日のうちに、ある程度の流れは整えた。

 君を"共同研究者"、リラを"研究補助者"として申請する。私から用務を任されたという形で、ノッドノールの外へ出る」


さらりと言う。

さらりと言えるという事は、それが彼にとって珍しい手段ではないのだろう。どういう種類の"貸し"なのか、今は聞いても答えが返ってこない気がした。


少し間を置いて、続ける。出したい話と、出していい話の間で言葉を選ぶ沈黙が入る。


「…なぜあなた自身は、今まで動かなかったんですか」


昨晩の話の中でも、シールが実際にシロワに行ったという話は出なかった。

長年研究しており、エリアもある程度特定ができている。

確かに辺境の地なのかもしれないが、文明レベルは地球と同等だ。

そこに世界の答えがあるとするならば、仮に片道切符であっても研究者なら止まらないだろう。


そもそもシールが知っている"シロワ"をリラが知らなかったことも驚きの一つだ。

意図的に隠していたのだろうか、"彼女が近づかないように"


「聞けますか?」


問い詰めるのは今のタイミングではない。あくまで確認として。


「止められた、というより——許可が降りない。理由は毎回 "安全上" それで終わりだ。終わらせられる。

 …で、腹を立てて勝手に動けばいいと思うだろう。

 だが私が動くと、止まるのは私じゃない。研究室の出入り、観測班の申請、資材の搬入……全部が閉じる。

 彼らは『危ない研究者を保護した』って顔でね」


声は荒れない。荒れないから余計に真実味がある。


「なるほど、、、」


この世界でシールの研究が異端扱いされる理由をまだ見つけられていない。

そもそもこんな謎めいた現象の多い世界で、彼のような研究者が重宝されないのはなぜだ?


答えが出ないまま、思考だけが先へ行く。

"安全上"という言葉の薄さ。許可という仕組みの重さ。

そして、シールの口から時々漏れる「順番」と「形」という単語。

ツバキの思考がそこまで行ったのを見て、シールは声の調子を変えずに言った。


「理由はわからなくとも、理由はわかる。"知る事"。つまり観測だ。

 ノッドノールでは、この"観測された"という事実に、物事が大きく左右される」


シールは紙に触れかけた指を止めた。

その行動から感情は読み取れない。


「例を一つ。駅の荷だ。届くはずの箱が、"たまに二つ届く"。

 誰も検めなければ、二つのまま保管される。運び屋も"二つあった"と言う。

 だが帳面に番号を書き、封を切り、中身を確認した瞬間に片方が消える。最初から一つだったことになる」


「…消える?」


「正確には、"消えたことに帳尻が合う"」


シールは言い直した。怖がらせないための言い直しではない。

自分の中で、言葉を正確に合わせるための修正だ。


「その事実に違和感を持つものは?」


「いない」


即答。少し声のトーンが上がったように思う。

普段の穏やかな父親の面影が、一瞬薄れる。


「君は呼吸という行為に疑問を持つことは?」


「…」


同じ人間だと思っていた街の人々が急に遠く感じる。

思考を止めれば地球と変わらない日常が手に入るはずなのに、思考が止められない。

——ボストーク湖でも、観測しようとするほどに情報が消えた。記録装置が焼け、データが意味を失った。

"観測しようとする視線そのものを拒む"かのように。

あの湖とこの街が、どこかで同じ理屈で動いている気がしてならない。


「少し話がそれてしまったね」


少しの沈黙の後、シールがまた言葉を選んで話し始める。

さっきまでの表情とは変わり、シールはいつもの顔に戻った。

戻り方が自然すぎて、逆に不自然だった。


「つまりこの研究の先に、"ノッドノールは責任を持ちたくない"んだと推測している」


ここで急に、話が政治になる。

世界の歪みを、役所の言い訳に畳んでしまうのか。


「つまりは"知らなくていい"…と」

ブラジルで蝶が羽ばたくと、テキサスで竜巻が起こるとでも言うのか。

誰かの観測で自分が消えるなんて、普通は考えない。


「観測した結果、誰かが不幸になるのかもしれないね」


「でも、そんな言い訳に簡単に従ってしまうのは意外ですね」


「ノッドノールでもナルリオンや異界の研究は十分できる。

 それにリラや仲間も守ることができる。悪くない選択だと思っているよ」


"悪くない"

その言い方だけが、研究者じゃなく父親のものに聞こえた。

そして、そんな父親の言葉ほど、ときどき誰かに用意された選択肢のように思えてしまう。


「"リラには観測できる権利がある"。だが、私にも彼女に伝えるべき順番を決める権利があるんだ」


「"シロワ"を知るタイミングは、今だったんですか?」


シールは頷く。

「ちょうどいい。まずはどうやってノッドノールを出るか、仕上げを話そう」


言い切ったあと、机の上の残った一枚の識別印を指先で軽く押さえた。


「名目はヴァルメルだ。ノッドノールの大陸の外れにある出域港。研究物資の受け取り、書類の回収——要するにお使いだ」


港町か。スケールが大きくなる。


「…シロワの名はやはり出せない」


「そもそも出せない。シロワは"知ることすら許可されていない"場所だ。まして君が居住証も入口番号も持たない人間だとわかれば、それこそ話が終わる。

 まずヴァルメルまでの辻褄を揃える。君たちが止めにくい形になるまで、だ」


「止めにくい…」


「止めたら、止めた側が説明を抱える。役所は説明が嫌いだ。だから止める理由がない形に整える」


穏やかに言い切って、シールは湯気の立つカップをツバキの手元に置いた。

いつの間に用意したのか分からない。


「明日は庁舎でまとめて通す。終わったら駅だ。切符と荷の手配をして、そのまま出る」


「そのまま、ですか」


「間を空けない。庁舎を出たらすぐ出発だ。こっちが流れを作れないと、向こうの流れに飲まれる」


冗談みたいに言うのに、冗談の顔をしない。


「二枚とも肌身離さず持っておいてくれ。リラへはこの後、君から渡してくれないか」


「…なぜ僕から?」


「君から渡す方が、リラは素直に受け取る」


それだけ言って、シールは少しだけ笑った。

父親の笑い方だ、とは少し言いにくい笑い方だった。


「じゃあ、行っておいで。買い出し。夕方までには戻って。出発前夜は余計な外出をしない方がいい、疲れも顔に出るからね」


優しい言い方で、でもどこかで意思を感じる。

今は考えても仕方がない。


書斎を出ると、廊下の突き当たりにリラが立っていた。

壁に背を預け、腕を組んで、こちらをまっすぐ見ている。


「…待ってたのか」


「書斎に呼ばれたのは分かってたわ。何を話してたの」


「色々と」


リラは答えを期待していないような顔で、少し間を置いた。


「……これ」


ポケットから識別印を取り出して、差し出す。

金属の縁が廊下の薄明かりを拾い、黒い面だけが光を返さない。


「父から?」


「僕から渡すよう言われた」


「…そう」


怒っているのか、受け入れたのか、判断がつかない。

リラはそれを両手で受け取り、少し眺めてから、エプロンのポケットに収めた。

受け取り方だけが、少し慎重だった。


「靴屋から回りましょう。履き物は時間がかかるから先に済ませた方がいいわ」


言い方は手早かった。

怒っているのか、それとも効率の良い人間なのか。たぶん両方だろう。



-----------------------



屋敷を出ると、ノッドノールの空は低く、煤の層がいつもより厚く見えた。

荷車が石畳を鳴らしながら通り過ぎ、配管から漏れる蒸気が足元を白く浸していく。

リラは少し前を歩いていた。背筋が良く、歩き方が綺麗だが、今日は肩の線が少し高い。


靴屋は通りの少し奥まった場所にあった。

外から見えるのは木枠の窓と、革と油の混ざった匂い。

中に入ると棚が天井まで詰まっていて、靴の形をした影がいくつも重なっている。


「サイズは?」


「28だ」


リラが首をかしげた。


「……何の単位?」


「センチメートル。足の長さ」


「センチ……」


聞いたことのない単位らしい。リラは少し考えてから、店主の方を向いた。


「足を見てもらった方が早いわ。こっちに来て」


店主に実際に足を当てられ、何かを計られる。単位がわからなくても人の足は変わらない。

しばらくして店主が奥へ引っ込んだ。

その間、リラは棚の前で腕を組んでいた。

ほどなく二足を並べて置く。


「片方は防水、もう片方は舗装が悪い道向けね。両方は嵩張るから、どちらかを選んで」


「どっちが正解?」


「知らないわ。でも私なら防水を選ぶわね。トレイの雨は予告なしだから」


「じゃあそれで」


リラが少し黙った。


「…決断が早いのね」


「リラが選んでくれたんだから」


黙り方が短くなった。

悪い意味ではないらしい。


試し履きをすると、底が思ったより厚く、重心の位置が低い。

歩いた感じが地球の靴と少し違う。この街の石畳に合わせてあるのかもしれない。

、、、良い靴だ。お金が無い事を今更思い出した。


雨具を探して、次の通りへ移った。

通りが広くなるにつれて人が増えてくる。荷を担いだ男たち、子供を連れた女、金属製の腕を持つ人間が二人、並んで歩いていた。


「シールの腕、あれはこの街では珍しくないのか?」


「珍しくはないわね。労働で損なった人が多いから。治療より機械の方が早く動けるようになる場合があるの」


「地球だと電気で動く義肢がある」


「どちらが便利なの?」


「電気の方が細かい動きはできる。見た目は蒸気の方が好きかもしれないけど」


「研究者なのに、見た目で選ぶのね」


「研究者だからわかる。使いやすいものは大抵、見た目も良くできてる」


リラがいつの間にか小さな黒い手帳を開いていた。


「何を書いてるんだ?」


「記録よ。地球の人間が何を好きか、こっちの何と比較するか」


「研究対象にされてる」


「最初からそのつもりで連れ出したわけじゃないけれど…」


少し言葉が止まる。


「でも記録しておかないと、忘れてしまうから」


忘れる、というのは誰の話だろう。

ツバキは特に何も言わなかった。



包帯と筆記具は一つの店で揃った。

保存食は別の場所で、リラが慣れた様子で選んでいく。棚の前で立ち止まり、持ち上げて、また戻す。


地球では見たことのない形の食べ物が並んでいる。


「これは何?」


「乾かした豆を圧縮したものよ。味は褒められたものじゃないけれど、水で戻すと腹が膨れるわ」


「それでいい」


「本当に? 食べたことない人がよく言うセリフね」


「旅先で文句を言える立場じゃないんで」


リラがまた手帳を開いた。


「書かなくていいそれは」


「もう書いた」


、、、記録癖とはそういうものか。


荷物が増えてきたところで、リラが一度立ち止まった。

荷袋を直すふりをして、背後をさりげなく確かめるような動作だった。

気づかないふりをしながら、こちらも同じ方向に目を向ける。


人の流れに変化はない。蒸気の音が一定に続いている。


「…気になることがあった?」


「いいえ」


間があった。短かったが、確かにあった。


「父からの癖みたいなものよ。気にしないで」


、、、その癖が今日初めて出たのか、それとも今まで気づかなかっただけなのか。

どちらにしても今は聞く場面ではない。



帰り道、日が傾いてきた。

石畳に影が伸び、ガス灯がひとつずつ灯り始める。夕方の煤の匂いは朝より少し湿っていて、温かい。


「明日になったら」


リラが前を向いたまま言った。


「父が隠してること、ぜんぶじゃなくていいの。でも少し教えてほしいと思ってる。貴方に」


「僕が知れることなら」


「知ってると思うわ」


確信があるような言い方だった。


「…状況が整ったら、話せることは話す」


「それで十分ね」


答えが短かった。

さっきまでの肩の線が、少しだけ下がった気がした。


荷袋を持ち直して、屋敷への道を歩く。

頭上をジルヴァが過ぎっていった。船腹の金属が夕陽を受けて、一度だけ光った。

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