喉の渇きと言葉の渇き
木の熊手で藁を寄せている男たちの背中が見えた。年齢も体格も異なる二人だ。
オリエは距離を保ったまま声をかけた。
「もしもし。この近所に水が飲めるところは、ありませんか?私は必死になって水を探しているのです。」
男たちが振り返る。
先に反応を示したのは中年の男で、わずかに目を細めてこちらを見つめた。
「するとお前さまは医者を探してるのだね?」
(医者?私は「水」と言ったつもりだが……)
どうやら発音の問題でうまく伝わっていないらしい。
オリエは何度か「水」と繰り返してみた。
すると青年の方が意図を会得した表情でこちらを見た。
「なるほど。きみの言わんとする意味がだいたい見当がつきました。
きみはこう言いたいのでしょう。水はどこだ!」
中年の男が納得したようにうなずいた。
「ああ、そういうことか。井戸ならこの道をまっすぐ行った先、村の外れにあるぞ。」
「ありがとうございます。喉が渇いてしまって……」
青年がオリエの服装をちらりと見た。
「明日の収穫祭目当てで来たのか?」
(収穫祭?知らなかった。)
どうするべきか迷ったが、下手に否定して疑われるよりは良いと判断し答えた。
「そうです。」
年配の男が穏やかに言葉をつないだ。
「ま、喉が渇いてるってんなら、まずは井戸に行くといい。宿を探してるなら村に一軒あるよ。そこのオカミに言えば、一晩は泊めてくれるはずだ。」
「ありがとうございます。助かります。」
収穫祭についてはもっと知る必要があるが必要以上に話し込むのは避け礼だけを述べてその場を離れた。
オリエはこの異世界の人々に対し無意識のうちに身振り手振りを控えた。
例えばお辞儀など日本で礼儀とされる行動も、この土地の文化では全く違った意味を持つかもしれない。
誤解や敵意を買わぬよう相手の反応を見ながら最小限の動作に留めたつもりだった。
そして予想よりもずっと穏やかで警戒心の薄い人々だったことにオリエは安堵した。
道を辿り村の方角へ向かいながらオリエは考えた。
収穫祭が行われているということは農作物の収穫が終わったということだ。
それはすなわち「四季」が存在している可能性が高いことを意味している。
季節とは単なる気候変化ではない。
日照や気温など環境条件が周期的に変化するのは恒星の周囲を軌道運動、つまり「公転」していて、なおかつ自転軸が傾いていることで初めて生まれる惑星規模の天体運動に由来する宇宙物理学的な構造の一部だ。
この星が自転していることはすでに確認済みだ。
そこに「公転による季節の存在」まで加われば、この「星」いや「惑星」は少なくとも天体力学的には地球にかなり近い環境にあると考えてよさそうだ。
太陽の位置、地軸の傾き、四季のサイクル、そして人間に近い生命が営みを築いているという事実。
こうした一致が重なるごとに、この世界が「異世界」ではあっても「異常世界」ではないことに確信を深めていった。
未舗装の道をゆっくり歩きながら周囲を観察する。
住宅は石と木材を組み合わせて建てられており素朴ながらも風雨をしのぐには十分な造りだ。
窓にはしっかりとガラスがはめ込まれている。
庭では子どもたちが元気に駆け回っている。
通りに面した広場の一角では女性たちが石組みの公共炉を囲み何かを煮込んでいる。
漂ってくるのは調理中の煙、牛乳のような甘い香りそして土と草の湿った匂い。
どれもこの土地の生活の一端を物語っていた。
はじめは公共の炉を使っていることから、この村には家の中に台所がないと思った。
しかし歩き進めるにつれて各家庭の軒先からも料理の匂いが漂ってくることに気づき屋内にも調理設備が備わっているらしいと考えを改めた。
広場には木組みのやぐらが組まれていた。おそらく収穫祭の準備だろう。
周囲では大人たちが忙しそうに走り回っており祭りの高揚感が村全体に満ちてきているようだった。
小麦の収穫はすでに終わっているようだ。
村の遠くに巨大な脱穀機が稼働しているのが見えた。
脱穀機からは低くうなりをあげる音と蒸気の吹き出す音が聞こえる。
どうやら蒸気機関で動いているらしい。
技術的には初期段階だろう、重厚で無骨で、移動を前提としていない造りだ。
文明レベルで言えば近代と前近代のはざまだ。
蒸気の力がすでに農業に導入され始めている印象だった。
村人の話した井戸を探し未舗装の道をゆっくり辿った。
やがて見つけたのは屋根付きの立派な共同井戸で数人の村人たちが順番に水を汲んでいた。
桶に縄を括りつけ、手際よく巻き上げてはこぼさぬよう慎重に持ち帰っていく姿はまるで儀式を見ているかのようだった。
その様子を少し離れた場所から見つめながらオリエは心の中で疑問を抱いていた。
この水、本当に口にしても大丈夫なのだろうか。
直接飲むには少しばかり抵抗がある。
しかし今後この村で暮らすなら水源の位置は把握しておくに越したことはない。
何かの拍子に必要になる場面はきっと訪れるだろう。
顔でも洗ってすっきりしたいという気持ちが一瞬よぎったが、すぐに打ち消した。
見ず知らずの土地でしかも共同の水を無断で使うのは軽率すぎる。
もし村に水の使用に関する細かな規則があれば、それを破った瞬間オリエは「非常識な異邦人」として白い目で見られるだろう。
無用な摩擦は避けるべきだ。今は我慢が肝要だと自分に言い聞かせた。
そんなふうに考えながら道を進むと、一軒、ひときわ大きな木造の建物が視界に入った。
堂々たる造りで入口の軒先には色あせた板に壺と箒らしき絵が描かれている。どうやら宿のようだ。
明日が収穫祭なら祭りの情報を集めるだけでも立ち寄る価値はあるかもしれない。
問題は宿代だ。オリエは日本円しか持っていない。
もちろんこちらで通用するとは思わないが、まったくの無一文でないことを示すには十分だ。
日本円を「外貨」として提示し価値が通じなければ労働で支払う方法を交渉するしかない。
覚悟を決めて戸を押し開け、中へ入った。
カウンターの奥から、オカミと思しき人物が現れた。
三十代ほどだろうか。顔立ちは柔和でありながら、田舎での働き暮らしが自然と刻んだたくましさも感じさせる。
腰にはエプロンを巻き、動きやすそうな、しかし清潔感のある質素な衣装をまとっていた。
まさしく「土地に根ざした生活者」という印象だ。
オリエは声をかけた。
「こんにちは。旅の者ですが、泊まるにはどれくらいかかりますか?」
「こんにちは。一泊15カツですね。夕食を付けるなら18カツになりますよ。食事は昼前と夕方の二回やってます。宿としても食事処としてもやってますから。」
「明日の昼前も食事したい場合はいくらになりますか?」
「それなら21カツですね。」
その瞬間、オリエは内心で軽く安堵した。
この地域では十進法が使われているようだ。
もし十進法でなければ「21カツ」とは表現されない。
仮に十二進法を使っていたなら、繰り上がりはしないはずだ。
慣れ親しんだ数の表し方がそのまま使えることは、異世界生活の負担を一つ減らしてくれる。
実は神から授かった能力の一つ、「言語理解」の力でこの言語の数詞体系から十進法の可能性を推測していたが、推測と実際は違うことがある。
こうして明言され胸の奥の小骨のような不安が消えた。
静かにリュックのポケットから銀色に光る硬貨を取り出した。
百円白銅貨。
かつてゲームセンターでUNIをプレイしていた記憶など、すでに遠い昔のことのように感じる。
「これは私の故郷で使われている通貨です。このお金は、こちらでは使えませんか?」
オカミは首をかしげながら手に取り、しげしげと眺め申し訳なさそうに首を振った。
「見たことのないお金ですねえ。申し訳ありませんが、ここでは使えません。」
「……では、お手伝いではどうでしょう。今日と明日、できることをさせていただきます。それで泊めていただけるなら、助かります。」
オカミの眉が一瞬ぴくりと動いた。
どう返答しようか迷っているのが表情の陰影と間から伝わってくる。
オリエはすぐに言葉を足した。
「ご無理を言って申し訳ありません。もしダメでしたら、遠慮なく断ってください。」
(少し強引だったか……やはり図々しかったかもしれない。)
オカミは丁寧に言った。
「すみませんね。せっかくですが、宿の管理上やはりご宿泊はお代をいただくことになっておりますので……」
そうか、とオリエは小さく頷いた。仕方ない。見ず知らずの旅人に泊まらせる理由はどこにもないのだ。
「承知しました。ご迷惑をおかけして、すみませんでした。」
立ち上がり店の扉に向かおうとしたその時。
食堂の一角、おそらく祭りのためにこの村に来たであろう男性の背が妙に小さく見えた。
床に置かれた荷物は大きく重そうで旅の長さを感じさせる。
だがその人物は椅子に深くもたれかかり顔色が悪い。
何度も額に手を当て、軽く胸を押さえている。
(……様子がおかしい。)
そっと近づき、声をかけた。
「体調が悪そうに見えますが、大丈夫ですか?」
その男は顔を上げ、弱々しい笑みを浮かべた。
「いや……ちょっと腹がね、朝から調子が悪くて……」
さらに詳しく話を聞くと軽い吐き気と下腹部の鈍痛があるらしい。
旅先で慣れない水や食べ物に当たったときの典型的な症状だ。
(旅行性の胃腸炎……軽度の水あたりか。)
迷いながらも、腰のポーチに手を伸ばし、内部の錠剤ケースを取り出した。
「これは、少し特殊な整腸剤です。強い副作用はありません。もしよければ試してみてください。」
男は目を瞬かせ、少し逡巡したあと、差し出した錠剤を水で流し込んだ。
ブスコパン。
異世界でその名は通じないが効いてくれることを願うしかない。
「様子、あとで見に来ますね。」
そう言い残し、そっと宿の外へ出た。
オリエは村人たちの会話や行動から、この地域の習慣や文化を少しずつ学び取っていた。
たとえば宿のオカミが見せた軽い会釈。
そのしぐさを見て、この地域でも感謝の気持ちや礼儀を示す際には「頭を下げる」という動作が用いられるのだと理解した。
こちらが先に小さく頷いていたため異なるジェスチャーを用いたことに一瞬「しまった」と思ったが、会話を通じて観察した限りでは首の動きや身振りの意味合いは日本の文化にかなり近いようだった。
また宿のオカミが「昼前」と「夕方」に食事を提供していると言っていたことから、この地域では一日二回の食事が基本である可能性が高いと考えた。
もっとも、それはこの宿の方針であるだけかもしれない。
村全体の文化かどうかはまだ観察が必要だ。