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月と火

目が覚めると辺りはまだ暗く焚き火の赤い残光がちらちらと揺れていた。

腕時計を確認すると眠っていたのはわずか20分ほどだった。

こんな状況でぐっすりと眠れるほど図太くはなかったようだ。


興奮しているのか、それとも異世界という現実がじわじわと脳を緊張させ続けているのか。

とにかく眠気は不思議と湧いてこなかった。




オリエはそっと寝袋から身体を抜け出した。

手近な枯れ枝を数本拾い慎重に焚き火の中へ足してつぶやいてみる。


「そんな転移でストッキングとか靴下作ったら、指飛ぶで?」


「ピコン。ピコン。」と音を立てて小さな炎が炎上し大きな炎に変わった。


(どうせ眠れないなら時間を有効に使おう。)


オリエはリュックを開け持ち物の確認を始めた。

時間をかけてチェックした結果、中身は転移前とまったく同じであること、そして損傷が無い事を確認出来た。

あの境界を越える瞬間、物理的な衝撃や時空のゆらぎで破損やロストが起きている可能性も考えていたがそれは杞憂に終わったようだ。

オリエはほっと胸を撫で下ろした。




夜空を見上げる。

月光は淡く青白い。


(ああ……月がある。)


それに気づいた瞬間、オリエは心の底から安堵していた。

この星にも月がある。その事実は思っていた以上に大きな意味を持っているのだ。


もし月が存在しなければ夜はもっと深い闇に包まれていたはずだ。

人の目ではほとんど何も見えない、まさに漆黒の世界。

この穏やかな月明かりがあるだけで夜の不安は大きく軽減される。


だが、それだけではない。


地球における潮の満ち引きの7割以上は、月の重力によるものとされている。

月がなければ潮汐は極端に弱まり沿岸の漁業文化も発達しなかった可能性があるそうだ。

それは結果として海産物に基づく食文化も存在しない世界になっていたかもしれない。


ゆくゆくは「おいしいもの食べて遊んでくらしたい」と考えている。

そのためには海があってほしいし、そこに海の幸が棲んでいてほしい。

そう思うとこの月の存在は極めて重要なポイントである。

もっとも、この星に海が存在しているかどうかはまだ確認していないのだが。


さらに言えば自転軸の安定にも月は関わっている。

地球では月の重力がジャイロ効果のように働いて自転軸の傾きを安定させている。

もし月がなければ地軸は数千年単位で大きくブレる。

そうなると季節や気候帯が長期的に激変し文明の維持すら難しくなることがある。


つまり月の存在はこの星に文化と生活の持続性が期待できるという兆しだった。


私はしばらく空に浮かぶその冷たい光を眺め続けていた。

見知らぬ世界で出会った、あまりに懐かしい風景だった。

月明かりの下、焚き火の揺らぎとともに過ごす時間は、静かで、そして確かな現実感があった。




やがてオリエは小さく息を吐き腰を上げた。


昼間に採取した木の実をリュックから取り出した。

それぞれ形状が異なるが、どれも殻に包まれているタイプだ。

殻の硬さを確かめながら一つひとつ石を使って慎重に割っていく。

中には小さくしぼんだような種子もあったが、しっかりとした実を宿したものも多かった。


念のため種類ごとに一つだけは割らずに残しておく。

毒性の検証や将来的な栽培の可能性を考慮すれば未処理の状態の標本も必要になる。


中身を選り分けたのち、持参してきた小型のフライパンを取り出す。

焚き火の端で先ほどの実を並べて乾煎りする。

焙煎と乾燥を同時に行うことで雑菌の除去と保存性の向上を狙う。


焙煎の途中で火が弱まると、そっと木の枝をくべて火力を保った。

焚き火の世話にはこまめな手入れが必要だ。油断するとすぐに火は落ちてしまう。

ぱちぱちと燃える火はまるで異世界生活の相棒のように思えてくる。


焼き上がった実は少しだけ香ばしい匂いを発していた。

それを冷ました後に湿気が残らぬように注意してからビニールパックへと封入した。




ふと気づくと、空がゆっくりと明るくなり始めていた。


木々の隙間から、斜めの光が差し込む。

朝の匂い。湿った土と枯れ葉。そして夜露の冷たさが鼻先をかすめる。

葉の端に残る水滴が朝陽に照らされて微かに輝いていた。




私は立ち上がり焚き火の後始末にとりかかった。

燃え残った枝は完全に燃やし尽くし灰になった炭は枝で丁寧に崩しながら地面のくぼみにまんべんなく広げていく。

まだ熱を持っているかどうかを慎重に手でかざして確認し、すっかり冷めたことを確かめてから最後に周囲の土をかけて均した。

焚き火の痕跡をできるだけ自然に消し、もとの地面に戻した。




右手は人差し指をまっすぐ前に伸ばし他の指は軽く握り込み、

左手は握り拳をつくり肘を軽く曲げて胴体の左側にそっと添えた。

両脚は肩幅に広げて右足は微妙に浮かせて膝を少し曲げ、

口元をパカッと開け両目をしっかりと見開いた。


まだ朝靄の残る静寂の森の中で私は一人、力強く指差し確認を行った。


『ヨシ!』


そのときだった。


頭が何かに包まれるような感覚があった。

ふと視界の上端に黄色が入り込む。

私は反射的に手を伸ばして、自分の頭を探る。


かぶっている。

ミドリの十字マークが前面に描かれた安全第一を地で行く黄色い作業用ヘルメット。


(これはいけない!)


こういうアイテムは放っておくとすぐに消えてしまう。

私は素早くヘルメットを手に取り適切な処置を行い、この世界に定着させた。

ヘルメットは持ってこなかったのでこういう思わぬ入手が一番うれしい。

(※この方法は明治時代から伝わる物品取寄術を応用したものである)




オリエは朝露のついた寝袋とグランドシートを手際よく干し太陽が昇りきる前に乾かした。

微かな湿り気が抜けるのを確認すると、それらを丁寧に畳んでリュックに収める。

折り目を揃え角を潰さぬように押し込む手つきは、まるで習慣のように無駄がなかった。


今日の目標は決まっている。

昨日は日没までに果たせなかった水の確保。

それも「飲んでも腹を壊さず、繰り返し利用できる、なるべく安全な水源」だ。

足元の土を踏みしめながらオリエは森の匂いと空の明るさとを交互に確認した。

一日がかりの探索が始まる。


地形の基本に従えば水は低きに流れる。

山の斜面を下れば、いずれは谷筋に辿り着き川がある。

だがすでにオリエはその下りを終えてしまっている。

現在はなだらかで起伏のない平らな森の中を歩いている状態だ。

目に見える水の気配はない。

せせらぎも湿地のぬかるみも苔の湿りも感じられない。


ではどう探すか。

森の中で水源を見つける手がかりは少ないながらもある。

まず植生の違いだ。

水を好む植物、湿地に生える草の群生。虫の飛び方。鳥の鳴き声。あるいは動物の通り道。

獣道の先に水場があることは野生の掟のようなものだ。


オリエはそういった兆しを探しながら歩くことにした。

だが焦ることはない。リュックにはまだ2リットル以上の水が残っている。

最悪、今日見つからなくてもいい。

明日中に発見できれば、それで御の字だ。




昼を過ぎた頃、三方を茂みに囲まれた場所に差し掛かった。

引き返すことも一瞬考えたが先が見通せる薄い茂みが一か所だけあった。そこを抜けてみることにした。




茂みの向こうは、やや開けた丘の斜面だった。

地面にはわずかに踏まれた痕が残っている。


(最近、通った者がいる。)


(足跡の主は靴を履いていたようで土の沈み方がやや深い。

子供ではない。大人の足跡だ。

もしかすると住処のある場所へ続いているのかもしれない。)


オリエは足跡を見失わぬよう注意深く慎重にその跡をトレースしていった。


(なんて歩きづらい道なんだろう。これでは私の気持ちはますますあせるばかりではないか。)


それでも数百メートルも歩いたところで視界がふっと開けた。

そして地面の一部に敷かれた灰色の石に気づく。

整った縁。均一な敷石。砂利。そして、確かに残る車輪のわだち。

不自然なまでの直線は自然にはできない。

明らかに誰かが、ここを道として利用しているのだ。


(少なくとも地球で言えば古代ローマ並みの文明かもしれない。)


その確信は予想以上の安堵となってオリエの心を満たした。




どんなに文化が違っていようと、そこに人類がいるということは少なくとも言葉があるということだ。

火を使い、物を作り、社会を成す者たちがいる。

つまり私はまったくの孤独ではない。

物語の中でしか存在しない「誰もいない世界」ではないのだ。


(人がいる。この世界には人がいる……)


その事実だけで胸の奥が静かに温まるような感覚があった。


いずれ誰かと出会う。

それが今日なのか明日なのかあるいは今この道の先であるのか。

オリエはただそれを受け入れる準備を静かに進めるだけだった。


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