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夜は遠く、闇は近い

周囲に危険な動物や人の気配がないかを確認しながらオリエは森の中を慎重に歩いた。

足音を殺し視線をこまめに動かす。


そうしているうちに倒木の陰に少し開けた空間を見つけた。

小石も少なく湿地の気配もない。

風も直接は吹き込まず木々がちょうど良い角度で遮蔽を作ってくれている。

地形もわずかに高く雨水が溜まることもなさそうだ。


日没が近づいているため今日はここで野宿することに決めた。

ここなら今日一晩をやり過ごせそうだ。




オリエは慎重に周囲を見回してからリュックを地面に下ろした。

その瞬間、肩から圧が抜け全身がふっと軽くなる。

同時に緊張していた呼吸がようやく深くなった。


「ふぅ・・・」


大きく息を吐き一息つく。

今日一日それなりに慎重に動いてきたつもりだったが改めて振り返るといくつかの点で詰めが甘かったと反省をする。


まず森の中に「動物の足跡も人の痕跡もなかった」という事実だ。

だが、それはあくまで私の視認範囲に限った話だ。

私は痕跡を見つけ出す技術も、足跡の種類を判別する知識も、その道のプロである猟師の足もとにも及ばない。

土の上に残る小さな変化や、わずかな踏み跡、葉の不自然なめくれ。

それらを見逃していただけの可能性は十分にある。


また地形の把握についても同様だ。

この森の構造、風の通り道、獣道。

観察すべき要素は山ほどあるのに私はまだその読み方を習得していない。

たまたま問題が起きていないだけであり安全だったのではなく運が良かっただけなのかもしれない。


この環境はすべてが未知数だ。

そして未知の世界において最大の敵は自分の判断への過信だ。

もっと注意深くなるべきだ。

生き残るためには五感を鋭くし油断の隙間を自分の中から少しずつ削ぎ落としていかなければならない。




道中、採取していた木の実を改めて観察する。

色は濃く殻に包まれているタイプの実が多い。

脂質やタンパク質を含んでいる可能性があり保存性にも期待が持てる。

果肉系の果実と比べて毒性のあるものが少ない傾向があるため比較的安全な部類に入るだろう。

とはいえ実際に口に入れるのはまだ先の話だ。

まずは殻を割って乾燥させてみるか火を通す方法を考えたい。


ちなみに、いわゆる果物の実は見当たらなかった。

森で目に入ったのは、あくまで堅果類や種子系の木の実ばかりだ。


加えて水源も小川のせせらぎや湧き水の跡、湿地帯の気配など、いくつかの地形的兆候を求めて歩いたが今のところ成果はない。

水分の摂取は明日以降の最優先課題となるだろう。




リュックからウォーターボトルを取り出し口元に運ぶ。

ゴクリと喉を鳴らして飲み込むと、ややぬるくなった水が体内に落ちていく。

それでも森の湿気と緊張で乾いた身体にはありがたい。


ついでに高カロリー携帯食と栄養バランスを補うための錠剤を一つ取り出す。

淡い金属光沢を帯びたコーティングが施された小さな粒で薬剤師に「最低限のビタミン・ミネラルはこれで補える」と勧められたものだ。

たんぱく質や脂質などの主要栄養素は携帯食でサプリはその補完用。過酷な環境でも身体を維持するための組み合わせだ。


まず携帯食を一口。

淡白な大豆ベースの味が口に広がる。

甘味はなく油分も最小限だが体の芯に栄養がしみ込んでいくような安心感がある。


そして錠剤を口に放り込み水で飲み下す。

小さな粒が喉を通っていく感覚にどこか落ち着きを覚える。


この異世界で今のところ私が信頼できるのはリュックの中身だけだ。




陽が落ちてきたので寝床の準備に入ることにした。

まずはリュックからフィルム状のグラウンドシートを取り出し丁寧に地面に広げる。

この薄い一枚が地面からの湿気と夜間の冷えを遮断してくれる。

見た目は頼りないが素材は軽量かつ防水性の高い特殊樹脂になっている。

その上にビビィサックを展開する。

これはいわば寝袋型のシェルターでテントほどの居住性はないが風と雨をある程度は防いでくれる優れものだ。


こうした装備がなければ野宿はずっと過酷なものになる。

枯葉をかき集めて地面に敷き詰めたり枝や草を組み合わせて断熱材を作る必要があっただろう。

それでは当然、防寒性も湿気対策も限界があるし虫や小動物の侵入を完全に防ぐこともできない。

日本だと気温は日中と夜間で10℃以上も差が出ることがあり、もし霧が出たり雨に打たれれば衣類だけでは到底耐えきれない。

最悪の場合、低体温症のリスクすらある。




オリエはリュックからファイヤースターターを取り出した。

マグネシウムと鉄の合金でできたこの道具は文明の火を野生の中にもたらす頼れる装備だ。


火床はすでに作ってある。

森の中で見つけた乾いた枯れ葉を中心に細い小枝を三角錐状に組んである。

芯には指先で丁寧にもんで繊維状にした木の皮を使った。

あとは火花を飛ばすだけだ。



ロッドを地面に固定しストライカーの刃を斜めに押し当てる。

数度こすりながら火花の方向と落下位置を調整する。

一際大きな火花が散り枯れ葉の中心部が赤く染まった。

煙が細く立ちのぼる。

その部分に口を寄せ、つぶやいてみる。


「何回も言うけど、『ポリゴン抜け』は都市伝説、陰謀論の領域です。」


火種が膨らみ乾いた音とともに最初の小さな炎が葉の端を舐めるように立ち上がった。

炎が枝を包み温かな橙色の光が闇を押し返していく。

やがて炎は大きくなり、まばらな光があたりの闇を押し返した。

これはいわゆるSNS炎上式という火のつけ方だ。



この瞬間オリエの中にほんの少しだけ安堵の感情が湧き上がった。

冷え込み始めた森の中で、この火は暖だけでなくオリエの精神をも照らしてくれる命綱だった。


(これで少しは安心だ。)


火の温もりは衣服の外からだけでなく内側にも沁みてくる。

火を焚くことには防寒以上の意味がある。

動物は光、におい、音に敏感で、多くの野生動物は火の存在を本能的に避けるという。

私はこれまで野生動物には出会っていない。

これは運が良かっただけか、それともまだ気づかれていないだけなのか。




やがて太陽は完全に沈んだ。

あたりはすっかり闇に包まれ焚き火の明かりだけが現実をつなぎとめている。


腕に装着していた腕時計を見て日没の時刻を記録した。

明日も日没の時間を記録し照らし合わせる予定だ。


日本では日没の時刻は1日あたりおよそ1~2分ずつずれていく。

冬至から夏至にかけては日が長くなり、夏至から冬至にかけては短くなっていく。

この世界がそれと同じ構造を持っているかはまだ分からない。

だが毎日、日没の時刻を記録していけば、おおよその1日の長さを割り出すことはできる。


もし地球と比べて1日が極端に長かったり短かったりすれば。

例えば1時間以上の差があれば時差ボケのような症状が現れる可能性がある。

眠気のタイミングが合わなかったり、身体がだるくなったり、集中力が保てなくなる。


だが、それでも数日もすれば身体はある程度順応するはずだ。

人間の体内時計はそれほど柔軟にできている。


ただしもし2時間以上の差があるようならば話は別だ。

日内リズムが崩れ睡眠の質は著しく低下し生活そのものが破綻しかねない。

それはこの星の自転周期が地球とはだいぶ異なっているという証拠になるだろう。


いずれにしても明日からは観察と記録を積み重ねる必要がある。

この世界に順応するためには、まずこの世界を知ることだ。




陽は地平線の向こうへと沈み森の中は急速に暗さを増していた。

焚き火の炎がぱち、と小さくはじけた。


静寂に包まれた異世界の夜。

どこまでも暗く、どこまでも無音。

文明から隔絶された森の中で焚き火だけが文明の名残を灯している。

それがどれほど貴重なものかオリエはようやく実感した。


焚き火の灯りを見つめながらオリエは座り直した。

火という光が孤独の縁をぎりぎりで踏みとどまらせてくれる。

今はまだ、ここにいる自分を保っていられる。


自分の体調を確認してみる。

胃腸に異常もなく、頭痛もない。

だがこれが本当に体調が順調というべきかはわからない。

あまりにも順調すぎることの方がむしろ不気味だ。

今夜は静かに慎重に過ごすことが肝心だ。




身体を寝袋の中に沈め横になる。

ここには電気がない。

あるのは風の音と夜の命の気配そして静寂だけ。

この世界で迎える最初の夜が、静かに、深く、闇の中に沈んでいく。


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