ユリイカ!
日本の未来に希望が持てなかった。
経済は何十年も停滞したまま格差は広がり若者たちは夢を描くことすらあきらめかけていた。
政治は権力者の自己保身と利権争いにまみれ国民の生活には目もくれない。
SNSでは毎日のように誰かが炎上し他人の粗探しが娯楽になっているような風潮すらある。
あらゆる価値観が摩耗しどこを見ても打算と諦めしか残っていなかった。
努力すれば報われる?
誠実に生きれば尊重される?
そんな台詞は今や皮肉交じりの笑い話でしかない。
言葉は上辺ばかりで人々の本音は沈黙の底に沈んでいる。
建前と自己保身が渦を巻き責任の所在は常に他人へと押しつけられる。
制度も規則もすでに形骸化していた。
表面上の正常運転を装いながら全てが崩壊寸前の綱渡りのような状態だった。
そんな社会に嫌気が差していた。
(このまま何も変わらず老いて死ぬまで働き続け誰にも記憶されずに終わるのか?)
ふと、そんな思いがよぎった。
かつてアンディ・ウォーホルはこう語っている。
“In the future, everyone will be world-famous for 15 minutes.”
(将来誰もが15分間は世界的に有名になれるだろう)
だが自分にはその15分すら訪れそうにない。
無名のまま人生を終える。
ただ何かを消化するように生きる時間が過ぎていくだけ。
そして教育社はこう語っている。
“Hello. I'm Tom. What's your name?“
(こんにちは。私はトムです。あなたの名前は何ですか?)
誰にでも名前があり誰とでも出会いがある。
そんな希望を込めた教科書的な理想。
だが現実はどうだ?
誰かに名前を呼ばれることもなく誰かの記憶に刻まれることもないまま日々をただ消化していくだけの毎日。
(私という存在は、ただ現れて、働いて、忘れられて。それで終わるのか?)
その問いは胸の奥に澱のように沈み次第に日常を蝕んでいった。
だが私は引きこもることも自殺することもしなかった。
私は現実逃避するように「なろう小説」を読み漁った。
架空の異世界に行って自由に生きる。
現代ではできないことを理不尽のない世界で成し遂げる。
そんな物語を読んでは心をなだめ眠りに落ちていた。
そしてある夜、逃げ場を求めるように沈んだ意識の底で突然、脳の中に閃光が走った。
すべてがつながったのだ。
「ユリイカ!」思わず叫んでしまった。
目の奥が熱くなる。
血が沸騰するような感覚。
(特定の条件を満たすことで異世界に行ける。)
それは偶然の思いつきではなかった。
これまで考え続けてきた思考の積み重ねがついに一つの構造を成した瞬間だった。
その仮説とはこうだ。
「この世界は完璧に作られていない。」
どんなに精緻な設計にも必ずバグ(設計ミス)がある。
人が作ろうと神が作ろうと完璧など存在しない。
そのバグの向こうに自分だけの外があるのではないか。
まるでゲームのポリゴンモデルのように。
表面は滑らかでも内実は無数の多角形の集合体。
その接合部すなわち歪みや隙間にふとした拍子で抜けることがある。
バグが発生しゲーム内から外へと落ちるように。
いわゆる「ポリゴン抜け」だ。
この世界が何らかの人工的な構造、たとえば高次元的なシミュレーションであると仮定するならばどこかに設計ミスがあるはずだ。
その設計ミスから抜けた先に自分が探し求めていた安息の地――自分らしく生きられる本当の場所があるのではないか。
ならばどうやって「ポリゴン抜け」するのか。
それは毎晩読んでいた「なろう小説」の中に手掛かりがあった。
いわゆる「異世界召喚」。
それはこの世界から物理的に身体ごとどこか別の世界へ抜け出す。
そして「トラック転生」。
魂だけ異世界に転生する現象だが肉体ごとそのまま異世界に転移する場合も多い。
これはポリゴン抜けに必要な「速度」という要素を誤解したものだ。
高速で移動中のもの、例えばトラックにぶつかることで生じる速度を通じてポリゴンの隙間を突破できるという事実が歪んだ形で伝わったのだろう。
だが、ここで一つの疑問が残る。
現実にそのような現象が目撃された記録が無い。
なのに何故「なろう小説」に「異世界召喚」や「トラック転生」が登場しているのか?
これはこう考えられる。
ほんのごく一部、数十年に一人くらいの割合で人が突然消えた瞬間を目撃した者がいたのではないか。
だがそれは映像として記録されなかった。
スマートフォンも監視カメラも存在しない時代、誰もその出来事を記録する術を持たなかったのだ。
仮にその目撃者が語ったとしても証拠がない以上、誰にも信じてもらえなかっただろう。
「幻覚でも見たんじゃないの?」と一笑に付され、やがて本人すら口を閉ざすようになる。
そのまま証言は風化し真実は忘れられていった。
しかし証言は完全に消えたわけではなかった。
それは都市伝説という形で残り、やがてネットの海の片隅でひっそりと息を吹き返す。
「なろう小説」やフィクションの皮をかぶり再び語られ始めたのだ。
現実にあったかもしれない一瞬の目撃が証明されぬまま物語として静かに流通しているのではないか。
つまり
「『ポリゴン抜け』は存在し、それは誰の目にも触れない場所で起こるもの」
私はそう結論づけた。
では、その「ポリゴン抜け」が起こる場所はどこにあるのか?
海外で探すのは非現実的だ。
言語、移動手段、予算、手続き、どれも大きな障壁になる。
ならば日本国内に限定するしかない。
しかし日本にそんな場所など存在するのか。
私がたどり着いたのは「禁足地」という概念だった。
宗教的な伝承や神話、あるいは災害の記録、軍事的な事情などによって立ち入りが禁じられてきた場所。
そうした場所は地図には曖昧な名前だけが記され詳細な地形データや衛星写真すら意図的に欠落している場合がある。
現代文明の目を逃れた地。
誰にも見つからず、知られず、存在すら疑われるような空白。
そういう場所なら異世界にたどり着けるかもしれない。
私は休日のすべてを調査に費やすことにした。
図書館に通い、古地図をあたり、民俗学の文献に目を通し情報を集めた。
やがて候補地が浮かび上がった。
そこはその地に根付いた宗教が所有している土地で地図すら曖昧な無名の山岳地帯があった。
調べを進めるうちにそこが敗戦後、GHQですら調査を見送った区域であることが分かった。
宗教的理由で立ち入りが厳しく制限され行政機関も手を出していない穴のような場所。
私はこの場所に賭けた。
場所は伏す
私は職を辞め、その宗教団体に信者として接近した。