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泥棒

作者: 犬彦

2017年作。ちょっと不思議なおはなしです。

 街灯の光が、口から漏れる息をぼんやりと浮かび上がらせていた。カシミヤのマフラーをグルグル巻きにしていても、首筋から肩への緊張はまったく緩まない。


 雪でも降り出しそうだ。


 その予感だけで憂鬱な気分になる。


 南国育ちの聡介は、雪が苦手だった。大学進学を機に上京したが、四年間の大学時代、雪が降れば大抵風邪を引いて寝込んだものだった。三十路の今では、そういうことはもうないが、年に一度か二度の雪で済む東京だから、何とか適応できたのだろう。もしも冬の間ずっと雪が降っている地方への転勤を命じられたら。想像しただけで背筋がさらにゾクゾクとしてくる。


 聡介の歩くピッチが異様に速いのは、寒さのせいだけではなかった。


 どうしても会いたい。


 昨日の夜、綾子が電話で訴えかけてきた。元々声の細い女性だが、この時はさらに微かな震えが混じっていた。


 そういえば、前回のデート以来、一週間以上会っていなかった。年が変わってから、仕事が妙に忙しくなって、なかなか時間が作れなかった。聡介の方も綾子の温もりが恋しくなってきていた。


 明日、定時で退社して会いに行く、と電話で力強く約束した。


 しかし気合を入れたくらいで、仕事の効率が格段に上がるわけがない。半ば強引に仕事を切り上げたが、それでも二時間の残業は避けられなかった。


 仕事だから、仕方ないよね。


 退社後、すぐに詫びの電話を入れたが、綾子はいつも通りの声で、少しも怒っていなかった。


 聡介は安心した。


 わがままを言わず、やみくもな自己主張はせず、聡介の事情や立場を理解して、うまく合わせてくれる。ここまで気遣いのできる女性は、日本中を探し回っても、そう簡単には会えないだろう。だからこそ、失わないように大事にしなければならない。


 夜風の冷たさを利用して、聡介は気を引き締めた。


 綾子のやさしさを当たり前のものと思ってはいけない。約束を破ったことを、電話だけではなく直接詫びて、その上で、何らかの形で埋め合わせをしなくてはならない。


 綾子の住むアパートに着いた時、すでに九時を過ぎていた。会社から綾子のアパートまでの遠さも、気軽に会いに行けない要因だった。会社から近い場所での待ち合わせも考えはしたが、結果的には採用できなかった。定時退社を前提にして待ち合わせの時間を決めても、守れる自信がなかったというのが本音だった。


 綾子の部屋は、三階建て木造アパートの二階。外階段を上がり、玄関前でベルを鳴らすと、すぐにドアが開いた。


「おかえり」


 待ちに待って、ようやく会えたというような、綾子の満面の笑みに、聡介は感動すら覚えた。精一杯のやさしさで綾子を抱き締めた。


「今日はごめん。もっと早く来るつもりだったけど」


「大丈夫。仕事なんだから、仕方ないよ。それは電話でも言ったじゃない」


 綾子が甘えた声で言って、手の平を聡介の腰に当てた。コート越しなので、温もりまでは伝わらなかったが、その感触がじわりと聡介の中に染み込んだ。


「今は残業が多くて、なかなか時間を作れないけど、この忙しさは長くても年度末までだろう。もう少しだから、我慢してほしい」


「わかってる。それより聡介が無理をしていないかが心配。体に気をつけて」


「ありがとう。仕事が落ち着いたら……」


 気持ちが高ぶりすぎて、衝動的に特別なことを言い掛けたが、寸前で止めた。その場の勢いで言うようなことではない、と自分自身を宥めた。特別な言葉は、もっと特別な時まで大切に取っておくべきだ。


「……また二人で、いろんなところに行こうな」


「そうね。待ってる」


 綾子はゆっくりと聡介から体を離して、聡介の目を真っ直ぐに見つめ、微笑んだ。慈しみ、という言葉がしっくりとくる、綾子がしばしば見せる特有の微笑みだった。


 屋内に入ってドアを閉めただけで、聡介の全身が暖かさに包まれた。首筋から肩への緊張があっさり溶解した。綾子がさりげなくコートとマフラーを受け取って、ハンガーに掛けてくれた。台所で換気扇を回すと、真下の窓ガラスが小刻みに振動して、ビリビリと音を立てた。ガス湯沸器を点けると、シャワーノズルから出てくる冷水が、二十秒くらい経ってようやく温水に変わる。それを待って手と顔を洗い、うがいをした。綾子がタイミングを見計らって聡介にタオルを渡し、それからケトルをコンロに乗せ、火をかけた。


 六畳一間の和室に一緒に入ると、決まりごとのように、聡介は座椅子に腰を下ろし、綾子はパイプベッドに座った。


 質素なインテリアだった。胸の高さのチェスト、胸の高さの冷蔵庫、腰の高さのカラーボックス、ハロゲンストーブ、パイプベッド。目につく家具はそれくらいだった。カラーボックスは二段式で、上段にクマのぬいぐるみ、下段に薬箱が入っており、天板の上には白い電話機が置かれていた。インテリアのどれをとっても特徴が薄く、持ち主の個性や趣向が伝わってこない。綾子の極端な物欲の無さを、聡介も異様に感じていた。


 このアパートは高度経済成長期に建てられたらしい。塗り替えられる壁よりも、取り替えられない柱に、その古さが如実に表れていた。つやのなさ、細かな傷、原因不明の黒ずみ。そのせいで、畳に塵ひとつ落ちていないのに、室内から清潔な印象を受けない。


 綾子のような、若く美しい女性に相応しい住処では決してない。


 早くこのアパートを離れてほしい、と聡介はずっと思っていた。自分のマンションで一緒に暮らすというのが聡介の理想で、実際にしつこいくらいに勧めていた。2LDKに一人暮らしなので、都合良く一部屋余っている。それに聡介のマンションの方が綾子の勤め先により近いので、通勤も随分と楽になるはずだ。


 しかし綾子は首を縦に振らない。


 このアパート、故郷のような感じがするから。


 そう言われると、返す言葉がなかった。


 もっとも、綾子がどれほどの拘りを抱いていようが、このアパートに住んでいられるのは年度末までだった。四月になれば、取り壊されることがすでに決まっている。経年劣化による痛みが激しく、震度五強の地震で倒壊する恐れがあるらしい。すでにほとんどの住人が新たな住処へ引っ越しており、空き部屋ばかりのアパートには、廃屋のような不気味さが漂いつつあった。


 ケトルの湯が沸騰したので、綾子は立ち上がって、コンロを止めた。


「レモネード作るね」


「コーヒーがいいな」


「だめよ。寝られなくなるよ。明日も仕事なんだから、夜更かしはよくないよ」


 いかにも綾子らしい真っ当な言葉に、聡介は後頭部を掻いた。レモネードといっても、市販のインスタントなので簡単にできる。すぐに綾子がレモネード入りのマグカップ二個持って戻ってきて、一方を聡介に渡した。


 慌てることは何もない。


 マグカップから漂う人工レモンの香りにうっとりしながら、聡介は思った。


 いまだに物件探しをしていないのだから、時期が来れば綾子は僕のマンションに引っ越すつもりなのだろう。綾子が頼んでくるまで、僕はゆっくり待っていればいいだけのことだ。この部屋の荷物量なら、引越し当日に荷造りしても問題ないだろう。


 綾子がレモネードを熱そうにすすっている。室内はまったりとした心地良い雰囲気で満たされていた。


 ふと、違和感がよぎった。


 昨日の電話の声は何だったのだろうか。不安そうな印象を受けたが、僕の勘違いだろうか。


「なあ、綾子」


「何?」


「昨日、何かあったの? 電話の声、いつもと違ってたようだけど」


 軽い感じで訊いてみた。


 綾子の表情が急に曇った。


「……どうしたの?」


 聡介は少し戸惑った。綾子はマグカップをそっと股に下ろし、ふっと息を吐いた。


「泥棒が、入ったの」


 その声は、昨日の電話の声そのものだった。


「泥棒?」


「う、うん、泥棒」


 歯切れが悪い綾子。


「それ、本当?」


「う、うん、本当」


 聡介が以前から懸念していたことが起こってしまった。このアパートでセキュリティーと呼べるものは、たやすく偽造できそうな鍵一本しかない。それなりに物騒な東京で、鍵一本だけで若い女性の安全を守れるわけがない。


 しかし綾子の様子が妙だ。もっと取り乱し、怯えていてもいいのではないか。何しろ、泥棒が入ったのだ。知らない間に、知らない他人が、勝手に部屋に侵入したのだ。それなのに、訊ねるまでは落ち着き払っていた。


「で、何が盗まれたの?」


「……本」


「えっ、何って?」


 綾子の声が小さすぎて、聞き取れなかった。


「本」


「……本?」


「うん、……本、三冊」


 聡介はカラーボックスに目を遣った。以前はクマのぬいぐるみの脇に文庫本三冊が立ててあった。


「他には?」


「他には、って?」


「他に盗まれたものは?」


「それだけだよ」


「えっ、本、三冊だけ?」


「うん、……それだけ」


「お金とか、銀行通帳とかは?」


「大丈夫」


「……下着類は?」


「大丈夫」


 聡介は腕を組んだ。


「本三冊って、本当に盗まれたのか」


「えっ、どういうこと?」


「どこかに置き忘れているとか」


「そんなわけない。私、本を出しっ放しになんかしない」


 綾子の性格からすれば、確かに言う通りだ。それに万が一、出しっ放しにしていたとしても、ここまですっきりした部屋で、どこかに紛れ込んで、わからなくなるとは考えにくい。


「本三冊持って出掛けて、外出先で忘れてきてしまったとか」


「本を持って出掛けたことなんか一度もない」


 綾子の声に苛立ちが滲んだ。


「本は盗まれたの。それ以外にありえない」


「じゃあ、そのありえないと思う理由は何かな」


 聡介は宥めるように言った。


「理由? 理由は、……ないけど」


 トーンダウンする綾子。


「泥棒が入った形跡くらいあったでしょ?」


「……いや、ない。ないけど、泥棒なの。泥棒に間違いない」


 おかしい。普段の綾子はここまで無理に主張を押し通したりしない。


 文庫本だけを盗む泥棒が百パーセントいないとは言い切れないのも確かだ。この世の中には、女性の愛用品に興奮する異常性癖者もいる。女性の部屋に好き勝手に出入りできることを顕示するために盗みを利用する危ないストーカーもいる。


 しかし聡介の頭は違和感で一杯になっていた。綾子の言葉、口調、態度、そのどれも芝居がかってお

り、真実味が感じられないのだ。


「信じてくれないんだ」


 綾子は呟き、うつむいた。


「い、いや、そういうわけじゃないんだよ」


 いつでも綾子を信じたいし、どんな時でも綾子の味方でいたいと心から思っている。ほんのひとかけらでいいから、信じるに足る根拠を示してほしかった。


「お願い。信じて。泥棒が、入ったの」


 綾子のレモネードの中に滴が落ちた。涙。聡介は慌てた。立ち上がり、綾子の脇に座り、肩を抱き寄せた。


 その時、綾子の思いが体の中に入ってきたような気がした。なるほど、そういうことか。違和感がほどけて、気持ちが晴れてきた。


 綾子は、僕にもっとかまってもらいたいのだ。もっとやさしくされたいのだ。しかし僕の仕事が忙しいのを理解しているから、わがままを直接言えない。だから僕が会いに来ざるを得なくなるような口実が欲しかった。それで泥棒という下手な嘘を思いついた。


 何ていじらしいんだ。


 聡介は綾子からマグカップをそっと取り上げ、畳の上に置いてから、綾子をベッドに押し倒し、強く抱き締めた。真っ当な性格が歪んでしまうほど、綾子に寂しさを募らせてしまったことは、深く反省しなければと思った。


「ごめん、僕が間違っていた。泥棒に入られて、綾子が怖い思いをしているのに、僕は疑ってしまった。本当にごめん」


「聡介、信じて、本当に、本当に、泥棒が入ったの」


 綾子の必死な思いが、そのまま体の火照りとなっていた。その熱を余すことなく取り込みたくて、聡介は綾子をさらに深く包み込んだ。


「ああ、信じるよ。泥棒が入ったんだね」


 人の存在をこれほど実感したのは初めてだった。綾子がここにいる。その当たり前のことが、これほどまでの安心感をもたらすとは。


 泥棒に盗まれるわけではないが、僕は危く、最も大切なものを失いかけていたのかもしれない。




 どうやら聡介の予想よりも早く、忙しさのピークが過ぎたようで、若干だが仕事量が減ってきた。休日出勤がしばらく続いていたので、挽回する意味でも近い内に有休を取り、綾子と甘く濃厚な一日を過ごす、という計画を密かに立てていた。仕事の最中に、五日前の愛の一時を思い出し、思わずにやけてしまった。これも泥棒のおかげだな。


 残業を一時間で切り上げて退社し、一人の部下を連れて職場近くの居酒屋に入った。今日、部下はミスを犯した。些細なミスで業務への影響もほとんどなかったのだが、本人は必要以上に落ち込んでしまい、この仕事が向いていない、とまで言い出した。若手は神経質になりやすい。聡介は自分の経験を織り交ぜながら、慰め、励まし、時々酒を勧めた。数年前までは僕もよく上司に話を聞いてもらったものだ、と妙にしみじみしてしまった。


 聡介自身、仕事は順調そのものだった。当然ながら多少のストレスはあるものの、会社に対して大きな不満はなかった。自分の役割、成すべき業務を掌握している感覚があり、大抵のトラブルにも素早く適切な対応が取れる自信もあった。去年、係長に昇進したのも、会社からの信頼と期待の証だろう。数人の部下を指導する立場になり、増した責任はやりがいにもつながっていた。一言で表すと、充実していた。連日の残業や休日出勤も、綾子と会えないことを除けば、さほど苦ではなかった。


 一時間ほどで居酒屋を出て、幾分元気を取り戻した部下と別れた。一人きりになると、ほろ酔いのせいか、無性に綾子に会いたくなってきた。電車に乗る前に綾子に電話を掛けて、今から会いに行ってもいいかと訊いた。


「もちろん大丈夫だよ。良かった。私も聡介に話したいことがあるんだ」


 綾子の声に明るさがなかった。六日前の電話の声と似ていたが、同じではなかった。


 電車に揺られている内に、少し不安になってきた。話したいことがある、こういう言い回しの時、大抵は悪い内容だ。


 まさか、別れ話とか。


 冗談半分に思い、周りの乗客に見られないように苦笑いを浮かべた。


 まずないだろう。


 綾子との間に険悪な雰囲気を感じていない。考え方の相違くらいは多少あるが、まったく同じ性格や境遇の人間などいないのだから、むしろあって当たり前だ。しかしそれが別れにつながってしまう場合もある。取るに足りないことだと自分が思っていても、相手の方がどうしても看過できなかった。そういうことは意外とよくある。


 別れの可能性というものは常にゼロではないし、予想も困難。それが恋愛の怖いところだ。


 特に最近の二人の関係は、残念ながら、百パーセント正常ではない。泥棒に入られたと綾子が嘘をついたことは、一応留意しておかなければならない。しばらくは以前より慎重に、丁寧に付き合うべきだろう。


 電車から降りた時には、酔いはすっかりさめていた。


 綾子のアパートに着いたのは九時前だった。


「良かった。来てくれて」


 玄関のドアが開くと、綾子が不安そうな表情で、聡介の両手を包むように握ってきた。温かい。本心では抱き合いたかったが、これはこれで頼りにされている感じがして、悪くなかった。やはり別れ話ではないようだ。


 屋内に入って、コートを脱いでマフラーを取り、顔と手を洗い、うがいをして、和室の座椅子に座った。


 綾子の薄着は相変わらずだった。五日前の上着は綿のボタンシャツ一枚。今日は薄手のニットセーター一枚。ハロゲンヒーターがなかなか強力で、室内は十分に暖かいが、それでも聡介はスーツのジャケットまで脱ぐ気になれなかった。もし綾子と同じ格好をすれば、寒くて一時間も耐えられないだろう。


「泥棒が入ったの」


 聡介が訊く前に綾子は言った。とても明瞭な声で、五日前よりもずっと真実味があった。


 おそらく嘘をつくことに慣れたのだろう。


「またか。何てことだ」


 聡介は意図的に嘆きの中に苛立ちを込めてみせた。取り敢えず、綾子に話を合わせてみることにした。


「それで、今度は何が盗まれたんだ」


「ぬいぐるみ」


 すぐにカラーボックスに視線を移すと、確かに上段が空になっていた。


 軽く溜息をついた。


「一度だけでなく、二度も盗みに入るとは、大胆な泥棒だな。警察に相談すべきじゃないか」


 ちょっと綾子に揺さぶりをかけてみる。


「本三冊とぬいぐるみが盗まれたと訴えて、相手にしてくれるかな」


「うーん」


 聡介は腕を組んだ。


 真っ当な答えで、不自然さはない。ダメ元でも相談して損はないよ、と聡介は言い掛けたが、止めた。綾子を追い詰めても嫌な気分にさせるだけで、何の得もない。


「それでね。今回は犯人のメッセージが残ってるの」


「メッセージ?」


 綾子は電話機の脇に置いてあった白い紙切れを聡介に渡した。


《本日、クマのぬいぐるみを頂きました。三日後、カラーボックスを頂きます。泥棒》


 ボールペンで書かれていた。形が整いすぎていて、人間味が感じられない字だった。おそらく、綾子が適当な印刷物を下敷きにして、文字をなぞったのだろう。


 紙切れをじっと見つめながら聡介は考えた。


 ここまで手の込んだことをする綾子の真意は何なのだろうか。僕はこの嘘にいつまで付き合うべきなのだろうか。この嘘に対して、どのように振舞うのが一番良いのだろうか。綾子は僕に何を望んでいるのだろうか。


 軽く溜息をついた。


「犯行予告とは生意気だな。よっぽど自信があるのか。三日後か……。よし、決めた」


 聡介は立ち上がり、綾子の両肩をやさしくも力強く掴んだ。


「その日、有休を取るよ。そして一日中、この部屋を監視する。泥棒の好き勝手にさせるものか」


「えっ、本当に?」


 綾子は意外そうな表情を浮かべた。


「もちろん。五日前は定時で退社するって約束したのに守れなかった。だから今回は絶対に守る」


「大丈夫なの? 仕事、忙しいんじゃないの?」


「何とかなるだろう。いや、何とかする。これで仕事が溜まるようだったら、後日残業を増やせばいいだけだ。もし会社が有休認めないなら、法律違反だって訴えてやるよ」


「でも私のせいで、聡介に迷惑を掛けさせるのは、何か、申し訳ないよ」


「申し訳ないなんて言わないでくれよ。僕は綾子のために、少しでも役に立てれば、それで嬉しいんだから」


「でも……」


 綾子が渋るのは理解できる。嘘のために有休まで使わせるのが後ろめたいのだろう。


「じゃあ、綾子も休めよ。綾子の仕事は、案外休みの融通が利くんだろう? 一日中、一緒に泥棒を待ち受けて、そして二人で撃退しよう」


 泥棒の話が本当だと思っていれば、愛する人を危険にさらすことになるので、この提案は絶対にありえない。綾子と甘く濃厚な一日を過ごすという計画の前倒し。これこそが聡介の真の狙いだった。


 綾子は少し考えから、一度、大きく頷いた。


「わかった。そうする」


 その表情から曇りがなくなっていた。


「私も泥棒と立ち向かう。聡介がいるんだから、怖いことなんかないよね」


 聡介は綾子を抱き締めた。


「僕が綾子を守るから、心配しないで」


「ありがとう」


 綾子は聡介の背中に腕を回して引き寄せた。


「良かった。聡介と出会えて、本当に良かった。心から、そう思ってる」


 綾子の言葉が聡介の胸を震わせた。


 嘘によってでも、二人の関係を強固にすることができる。こういうこともあるんだな。聡介は不思議な幸福感に、いたずらに溺れていた。




 犯行予告の日。よりによって東京は今季一番の冷え込みに襲われた。空一面を覆う雲は、太陽を完全に隠してしまうほど厚かったが、全体的に均一で質感に乏しかったので、空そのものが白濁色に塗り変わったかのようだった。


 朝、聡介は出勤日とまったく同じ時間に起床し、まったく同じ時間に自宅を出発した。久しぶりの休日は体調を崩しやすいので、生活リズムをできるだけ変えたくなかった。綾子のアパートには、予定通り八時過ぎに到着した。


「雪が降る予報が出てるからって、雪だるまの真似しなくてもいいよ」


 綾子は聡介の格好を見て笑った。ただでさえふかふかのダウンジャケットが、その下に五枚も重ね着しているせいで、さらに膨らんで丸みを増していた。


「いくらでも重ね着ができるのが、私服のいいところだな。スーツではこんなことできないからな」


 ダウンジャケットをつついたり、軽く押してみたりと、珍しく無邪気な綾子だった。丸一日、恋人と一緒にいられる喜びで、気分が高ぶっているのだろう。


「カラーボックスはまだ無事か」


「うん、大丈夫」


 綾子の返事が軽い。警戒感がまるで感じられない。もはや演技しようとすらしていない。綾子がその気ならばと、聡介も今日一日、泥棒のことを口にしないと決めた。


 泥棒に入られないように監視する、という名目があるものの、実際に六畳一間の和室で丸一日何をするか、聡介は考えてきていなかった。エロチックなムードにもなるには、時間が早すぎる。トランプでもしない? と綾子が提案してきた。子供の頃に遊び尽くした感があったので、正直気乗りしなかったが、他の選択肢が思い浮かばなかった。


 聡介にとって二人向けトランプゲームの定番といえばジンラミーだった。麻雀と似ているところのあるテクニカルなゲームで、子供の頃熱中したものだった。綾子もルールを知っていたので、早速始めた。


 三ゲームして聡介があっさり三連勝した。綾子があまり強くないことを悟り、手加減することにした。もちろん極端に弱くなると、手加減に気づかれて、白けた雰囲気になってしまうので、若干自分の勝ちが上回るように調整した。追いついたと思えば、また突き放されるという展開に、綾子は夢中になって、何度も挑んできた。クールな綾子の意外な一面に、二人の距離がより近づいた気がして、聡介は嬉しくなった。トランプもまんざらではない。


「ねぇ」


 綾子が不思議そうに聡介の顔を覗き込んだ。


「にやけちゃって、どうしたの?」


「子供の頃のこと、思い出しちゃってね」


 咄嗟に嘘をついた。


「兄貴とジンラミー、よくやったんだ。兄貴の奴、やたら強くてね。まったく勝てなかった。僕も負けず嫌いだったから、何回も挑んで、その度に返り討ちにされた。少しは手加減してくれって思ったよ」


「そうだったんだ」


 綾子は目を細めて微笑んだ。話を楽しんでいるというよりは、聡介を慈しんでいるかのような微笑みだった。


「羨ましいな。私は一人っ子だったし。……それに、両親もいない」


 どうやら失言をしてしまったようだ。


 綾子は幼い頃に交通事故で両親を同時に失っていた。そのことは聡介も聞いていたが、詳細までは知らなかった。


「ご、ごめん。思い出させるつもりはなかったんだ」


「あっ」


 慌てている聡介をよそに、綾子は唐突に立ち上がり、厚いカーテンと擦りガラスの窓を開けた。冷たい空気が首元を抜けて、聡介の体が驚いたようにぶるりと震えた。


「雪だ。雪が降ってきた」


 綾子はそう呟くと、窓枠に手をついて、冷たい空気を鼻から胸一杯に吸い込んだ。


 綾子と雪はよく馴染んでいる。


「綾子、寒いよ。雪なんかいいよ」


 聡介は怯えるような口調で言って立ち上がり、綾子を背後から抱き締めた。それにしても、外が見えない状態だったのに、どうして雪がわかったのだろうか。


 いつもより色彩に乏しい東京に、雪は音もなく降り注いでいる。


 不意を突くように綾子が聡介の中で振り返り、そして聡介の唇を軽くくわえた。


「聡介は本当に雪が苦手ね」


 綾子は小悪魔のように微笑んだ。聡介は頬を赤らめた。


「綾子は寒くないのか。そのトレーナー、ただの綿素材じゃないのか」


「私、寒いのは得意なの。雪国育ちだから。高校生の時なんか、雪の中でも、制服のスカートを短くして、生足だったんだから」


「本当に? 信じられない。僕がそんな格好したら、絶対に凍え死んでるな」


「聡介の短いスカート姿、想像したくないよ」


「……自分でも想像したくない」


 二人は静かに笑い合った。


「でも綾子の短いスカートの制服姿、見てみたかったな。まあ、今見せてくれてもいいんだけど」


「……バカ」


 綾子は恥ずかしそうにはにかんだ。今度は聡介の方から、綾子にキスをした。


「でもね、聡介、私、雪って嫌いなんだ。雪が降ると、今でも首がちょっと痛むから」


 綾子はまた体を回転させて、外を向いた。


「雪が降ると、思い出すんだ。私の両親が目の前で死んだこと」


 飛び立とうとする鳥のように、遠くを、雪の向こう側を見つめている。


「家族で雪道をドライブしていたんだ。父さんが運転して、母さんが助手席で、私は後部座席。車内の暖房が心地良くてウトウトしてたら、急に強い衝撃に襲われて目が覚めた。ホントに凄い衝撃で、まるで巨大な洗濯機に放り込まれて撹拌されるかのようだった。別の車に追突されて、そのせいで鞭打ち症に半年くらい悩まされることになったんだけど、それだけで済んだ私は、まだ運が良かった。私達の車の前半分、ぐしゃぐしゃになったんだから」


 話の内容の割には、綾子の口調は穏やかで、まるで当時を懐かしんでいるかのようだった。


「追突してきた車のドライバー、雪道に不慣れだったくせに、酒気帯びで、法定速度の倍のスピードで運転して、結果、車をコントロールできなくなった。ひどい話よね。それで私達の車の脇に、ちょうど父さんの位置を狙うかのように突っ込んできた。そして追突したまま私達の車を電信柱に直撃するまで押した。相手の車と電信柱のサンドイッチになって、父さんも母さんも即死だった」


 聡介は綾子をさらに強く抱き寄せ、自分の胸を綾子の背中に密着させた。それ以外に何ができるというのだろうか。


「目が覚めたら、父さんと母さんが消えた。そんな感覚だった。少し前まで車だった鉄の塊と、電信柱のコンクリートの塊と、血まみれになった肉の塊と。その肉の塊が、どうしても両親に見えなくて、元からそういう気持ち悪い物体だったように思えて、だからパニックにもならなかったし、泣き叫びもしなかった。目の前の凄惨な光景が、一体何なのか。私にとって、何か意味のあるのか。わからなかった」


「もうやめよう。そんな話。思い出しても、綾子が苦しむだけだ」


 聡介は綾子の耳元で訴えるように囁いた。本当は自分が苦しくて仕方なかっただけだった。


 しかし綾子は話をやめなかった。


「交通事故で両親を失って、寂しいとは思ったけど、悲しいとは思わなかった。それよりも、その時から自分の周りの世界も、そして自分も、大きく変わったのを感じたんだけど、具体的に何が変わったのか、正直、今でもわからないんだ。車の前半分がぐしゃぐしゃになったのに、どうして後ろ半分はほぼ無傷だったんだろう。どうして私は無事だったのだろう。本当に私は、あの事故以前と同じ私なのかな」


 聡介は乱暴なくらいに勢いよく窓とカーテンを閉めた。そして綾子を強引に振り向かせ、むしゃぶりつくようにキスをし、立ったまま狂ったように綾子を撫で回した。愛などという生易しいものではなかった。本当は、綾子は存在していないのではないか。交通事故によって、両親と共に死んでいたのではないか。なぜかその時、そのありえないことが、他のありえることよりも真実味をもって迫ってきた。底なしの恐怖に引きずり込まれるような感覚。逃げなければと必死になってもがいた。綾子を感じなければ、綾子の存在を捕まえていなければ、綾子が僕から消えてしまう。


 綾子も同じように、聡介を全身で求めてきた。


 どこか曖昧で、それでいて激烈な感情を剥き出しにして、二人は体を絡め合った。互いの感触が、互いの体温が、互いの吐息が、互いの鼓動が、混ざり合ってゆく。僕はこのまま消えてもいい、と聡介は思った。それで綾子が存在し続けるのなら。僕が綾子に取り込まれることで、綾子の存在が確実なものになるのなら。


 その時だった。


 凄まじい爆音と共に、室内が激しく振動した。二人は我に返り、動きを止めた。


「何? 今の」


 綾子が眉を寄せて呟いたが、爆音が原因の耳鳴りのせいで聞き取りにくかった。


 地震? 揺れが一瞬でしかなかったし、そもそも爆音など立てるだろうか。


 飛行機の墜落? 爆音の前に異常なエンジン音が聞こえなかったのはおかしい。


 ガソリンスタンドの爆発? アパートの周辺にガソリンスタンドなどあっただろうか。


 他にありえるのは、……まさか巨大隕石の落下?


 頭の中であれこれ考えても仕方がない。聡介は窓を開けて、外を見回してみた。


 何も変わっていない。


 相変わらず、雪は音もなく降り続いている。損傷した建物はどこにもなく、火の手も上がっていない。この窓から見えない方角で異変があったのかもしれないが、解せないのは、アパート前の通りを歩いていた三人の誰も、怯えもせず、慌てもせず、騒ぎもせず、平然としていることだった。


 あの爆音がただの空耳だというのか。いや、ありえない。空耳で耳鳴りがするわけがない。それに綾子も間違いなく聞いている。


「聡介、ちょっと」


 綾子が袖を引っ張ってきて、カラーボックスの方を指差した。聡介はすぐに指し示す方に顔を向けた。


 浮いている!


 カラーボックスが宙に浮き上がり、しかもゆっくりと上昇し続けている。まるで透明なエレベーターの乗せられているかのように、一定の速度を正確に保っている。横揺れがまったくないので、天板の電話機も下段の薬箱も、位置が少しもずれていない。


 誰かがピアノ線か何かで吊っているのか、とありえないことが頭をよぎり、天井を見上げたが、仕掛けは何もない。


 その内、電話機が天井に届いた。


 そのまま消えた!


 続けてカラーボックスも上部から天井に吸い込まれてゆく。しかも物質同士が接触する時の抵抗感がまるでない。まるで天井が存在していないかのようだ。


 聡介と綾子が唖然としている間に、カラーボックスは、電話機だけでなく薬箱も道連れに、完全に消え去った。天井は無傷。カラーボックスのあった場所には、電話回線と僅かな埃だけが残されていた。


 天井からすり抜けてきたかのように、一枚の紙切れがひらひらと舞い降りてきた。畳に落ちると、聡介はすぐに拾い上げた。


《本日、カラーボックスを頂きました。二日後、ハロゲンヒーターを頂きます。泥棒》


 聡介は混乱した。暑いわけがないのに、全身から汗が噴き出してきた。


 何だ? これは。……手品か。綾子が手品師でも呼んだのか。僕を驚かそうとして、大掛かりなドッキリを仕掛けたのか。そんな無意味なことを何のために? それに先ほどの爆音と振動は何だったのか。手品師が僕と綾子の二人だけに、耳鳴りがするほどの爆音を聞かせたというのか。この部屋だけを壊れそうなくらい激しく揺さぶったというのか。


 違う。何かが違う。何もかもが違う。


「綾子」


 呼びかけるが、反応がなかった。茫然自失の状態だった。


「しっかりしろ。綾子」


 聡介は綾子の両肩を掴み、強く揺さぶった。綾子の目に生気が戻った。


「綾子、すぐ荷物をまとめろ。僕のマンションに逃げるんだ」


「えっ、……でも」


 戸惑っている。まだ状況をうまく呑み込めていない。


「今起こったこと、綾子も見ただろう?」


 綾子は小さく頷いた。


「今起こったこと、綾子は説明できるか」


 綾子は首を横に振った。


「僕も説明できない。今、この部屋で誰も説明できないことが起こった。ここはやばい。ここに居続けるのはいけない。とにかく、一旦、ここを離れよう。今はもう、このアパートに拘っている場合じゃない」


 綾子は数回頷いた。聡介の勢いで、わけもわからず同意させられた、というのが適切なのかもしれない。




 結果的に、ずっと待ち望んできた綾子との同棲生活を、遂に手に入れることができた。毎日、仕事から帰ってくると愛する綾子が迎えてくれる。そんな夢のような生活が現実のものになった。


 しかし聡介の気持ちは晴れなかった。


 泥棒のことは、警察に相談しなかった。実際に物品が紛失しているのは確かなので、説明にある程度の工夫が必要だろうが、相手にされないこともないだろう。高い捜査能力を持つ警察なら、これほど奇怪な事件でも解決してくれるかもしれない。それでも、警察を含めて何人もこの件には関わってはいけない、という気がしてならなかった。綾子には隠していたが、正直なところ、ひどく怯えていた。いたずらにおばけを信じて怖がる子供のようだと、自分を恥じていたが、気持ちを抑え切れなかった。


 さらに聡介は、綾子の泥棒話を信じようとしなかったことを悔いていた。


 カラーボックスはなくなったのは確かだが、そのなくなり方が不可解すぎて、返って普通の泥棒の仕業とは思えない。それでも少なくとも、綾子は自分の体験した事実を話していたわけで、嘘をつく意志はなかった。


 僕は綾子に寄り添っていなかったのではないか。味方になっていなかったのではないか。


 綾子の変わらないやさしさは聡介にとって救いだったが、同時にそのやさしさに触れるほど、自責の念で苦しくなった。


 同棲を始めて一週間が経った。


 聡介は仕事で大きなミスを犯してしまった。考えられないような幼稚な判断をしてしまい、さらにそれが原因で起こったトラブルに見当違いの対処をしてしまった。結果、会社に大きな損害を与えてしまった。課長には怒られるどころか、新入社員でもあるまいし、と呆れられる始末だった。


 相当に落ち込んだ。係長としてのプライドもひどく傷ついた。


 泥棒の件による動揺に、残業続きの疲れが重なり、集中力が大幅に欠如していたことは自分でもわかっていた。しかしそれ以上に深刻なのは、自分の役割、成すべき業務、トラブルの対処方法など、今まで掌握していたはずのことが、なぜかよくわからなくなってしまったことだった。


 このような状態で、係長としての職務を果たすことは到底できない。このままでは、再び大きなミスを犯してしまうに違いない。そうなれば、課長だけでなく部下にまで失望され、馬鹿にされ、遂には会社にまで見放されるかもしれない。


 もし会社をクビになったとしても、綾子は僕の許にいてくれるだろうか。


 退社して、電車で最寄駅に着くと、聡介は自分のマンションまで無我夢中で走った。玄関のドアを慌てて開けて、綾子を呼んだ。すぐに奥から綾子が姿を現した。


「おかえりなさい。どうしたの?」


 いつもと様子の違う聡介に、綾子は不思議そうな顔をした。綾子が存在している。その当たり前のことに聡介は心の底から安堵して、靴を脱ぎ捨て、そのまま飛び込むように抱き締めた。綾子の柔らかな感触に、声に出して泣きたくなったが、何とかこらえた。


 綾子がいなくなるわけがないじゃないか。聡介は自分の滑稽さを密かに笑った。何を余計な心配をしていたんだ。


 僕は今、ちょっとした心の病にかかっているだけだ。なるべく早く精神科の医者の診察を受けよう。そして一番効き目のある薬を処方してもらおう。それできっと元通りになる。敏腕係長としてまた活躍できるようになる。綾子さえ傍にいてくれれば、僕は絶対に立ち直れる。


「なあ、綾子」


「どうしたの? 聡介。息が切れてるけど、……汗も掻いてる。何かあったの?」


「ずっと一緒だからな」


「何よ、突然」


 綾子は恥ずかしそうに言った。


「いいんだ。とにかく、僕達、ずっと一緒だからな」


 綾子は、その聡介の言葉に応えなかった。代わりに聡介の背中に腕を回し、自分の方へ強く引き寄せた。


「ねぇ。聡介」


 耳元で囁いてきた。


 その瞬間、聡介は気づいた。


 綾子が落ち着きすぎている。今だけではない。同棲が始まってから、ずっとこの調子だ。元々物静かだが、これほどまで人間味のない女性ではなかった。感情がないわけではないが、まるで悟りを開いたかのように、妙に超然としている。


 僕でさえ、あの不可解な現象によって、これほどまで混乱しているというのに、どうして綾子は落ち着いていられるのか。そもそも綾子の方が当事者だというのに。


「ねぇ、聡介。聞いてる?」


「あ、ああ、聞いてるよ」


 背筋が寒くて仕方がない。


「私、明日、アパートに帰るね」


「えっ、……どうして?」


「どうなったか、確認したいから」


 いつか言い出すだろうと、予想していたことだった。もちろん戻るべきではないと思っていたが、綾子の意思を覆すには、今の聡介は精神的に弱りすぎていた。


「僕も一緒に行くよ」


 そう言うのが精一杯だった。


「仕事は大丈夫なの?」


「ああ、大丈夫。休んでも、もう問題ないんだ。それよりも、綾子を一人で行かせるわけにはいかない」


「そう……、ありがとう」


 二人はしばらく、そのまま抱き合っていた。心が麻痺しているのか、聡介は不思議なくらい何も感じなかった。




 一週間前の雪は、日中は小降りだったが、日没と共に勢いを増し、翌日の未明に止むまでに二十センチ降り積もった。雪に弱い東京にとっては天災に近いくらいだった。ほぼすべての交通機関でダイヤが大幅に乱れ、聡介も通勤に相当難儀したものだった。


 しかしそれからは比較的暖かい日が続いている。アスファルトの雪は完全に溶けたが、公園など土が剥き出しの場所ではまだ若干残っている。その内、また寒くなって、再び雪が降ることがあるかもしれない。そしてまた暖かくなって、と気候の変化を繰り返しながら、季節は春へと移ってゆくのだろう。


 二人が綾子の部屋に着いたのは、午前十一時過ぎだった。聡介はただ綾子の行動に合わせただけだった。もちろんいつもの生活リズムではなかったが、自分の体調のことはどうでも良くなっていた。


 綾子の部屋は空っぽになっていた。残っているのは、元々備え付けられていたガス湯沸器とコンロくらいだった。外の暖かさからすると、室内の寒さは異様だった。


 和室の中央に、六枚の紙切れが落ちていた。丁寧なことに、古い順に重ねられていた。


《本日、ハロゲンストーブを頂きました。明日、チェストを頂きます。泥棒》


《本日、チェストを頂きました。明日、冷蔵庫を頂きます。泥棒》


《本日、冷蔵庫を頂きました。明日、パイプベッドを頂きます。泥棒》


《本日、パイプベッドを頂きました。明日、台所の食器類を頂きます。泥棒》


《本日、台所の食器類を頂きました。もう面倒なので、明日、残りの頂けるものすべてを頂きます。泥棒》


《本日、残りの頂けるものすべてを頂きました。最後に明日、綾子を頂きます。泥棒》


「ふざけるな」


 聡介は人生一番と言ってもいいほどの猛烈な怒りに任せて、紙切れをぐしゃぐしゃに丸めて、畳に叩きつけた。


「この僕を、いつまでも見くびるな。綾子を頂きますだと? ふざけるな」


 決意を込めて、綾子を真っ直ぐに見つめる。


「僕のマンションに帰ろう。ここで泥棒と対峙するのは不利だ」


「ちょっと、聡介、落ち着いて」


 綾子が宥める。


「これが落ち着いてなんかいられるか。僕はとことん戦うよ。もう怯えない。相手が極悪手品師だろうが、全知全能の神だろうが、関係ない。僕は綾子を守り抜く。泥棒の奴、このアパートではなく、僕のマンションでも好き勝手できるなんて思うなよ。たとえ僕が八つ裂きにされたとしても、僕だって泥棒を八つ裂きにしてやる」


 その時、綾子は聡介を引き寄せ、キスをした。今までで最も長く、最も情のこもったキスだったが、存在感だけが欠けていた。


 キスが終った後、聡介は卒倒しそうなほどの絶望感に襲われた。


「なぜなんだよ」


 言葉を搾り出した時、両目から涙がこぼれた。


「……わからない」


 綾子は寂しそうにうつむいた。


「わからないけど、仕方ないんだ」


「こうなることを知っていたのか」


「知っていたというか、感じていた」


「いつから?」


「本が盗まれた時から。とても怖かった。でも、これが運命というか、……極端に言ってしまえば、自分自身だった」


「何を言っているんだよ」


 聡介の声が震える。


「意味がわからないよ、綾子。もっと、僕が、納得できるように、言ってくれよ」


「私だって納得できないんだから、納得できるようにって言われても困るよ。でもね、聡介」


 綾子の右手が聡介の頬に触れる。温かさは伝わるが、やはり存在感がない。それは虚しさだった。


「人生って、どうしてだろう、の連続なんだよね。どうして私の両親は突然死んだんだろう。どうして私だけが生き残ったんだろう。どうして聡介と出会うことができたんだろう。どうして私はこんなにも幸せになれたんだろう。でもね、そんなこと、いくら考えても、仕方ないんだよ。答えは後付けでいくらでも作ることができる。でもそれが正しいのか、永遠にわからない」


「わからない。わからないよ。何を言っているんだよ」


 聡介は必死に首を振った。


「もういいよ、綾子。もういいから。とにかく、行かないでくれよ。僕から、離れないでくれよ」


「……ごめんなさい。ダメなんだ」


 綾子は一歩、後ろに下がった。するとその体がふわりと浮き上がった。


「待って。……待ってくれよ、綾子」


 綾子にすがりつこうとしたが、できなかった。なぜか体の自由が利かない。これも泥棒の仕業なのか。


「聡介、最後に聞いてほしいんだ」


 綾子の体がゆっくりと上昇してゆく。


「貴方は本当にやさしい人だった。貴方は泥棒を信じていなかった。それでも、私を傷つけないように、ずっと話を合わせてくれた。いつでも私の味方になって、私に寄り添ってくれた。それが本当に嬉しかった。私は貴方に出会えて、そして心から愛されて、幸せだった」


 綾子は今までで最も慈しみ深い微笑を浮かべた。


「ありがとう、聡介。そして、ずっと愛してる、ずっと、ずっと」




 綾子が消えた瞬間を、聡介は見ていなかった。いつの間にか、気絶していたようだった。意識が戻った時、横向きに倒れていた。一枚の紙切れが目の前に落ちていた。


《本日、綾子を頂きました。泥棒》




 随分と長い時間が経ったような気がする。


 季節も春に変わったようだ。


 名前もわからない道端の雑草が花をつけるようになった。まだ中途半端な気温で、重ね着の枚数を間違えると体が妙に冷える。おまけに花粉やら埃やらで、空気が濁っている。そのせいで喉が腫れてしまい、唾を呑み込む度に痛みが走る。


 かつて綾子が住んでいたアパートを、巨大な重機がためらいなく砕き、崩していく。綾子がこの世に存在していた証が、呆気なく消えてゆく。埃が立つのを抑えるために、気の抜けた顔の作業員がホースを使って、瓦礫に水を撒いている。バリケードの外側から眺めていると、無精髭がむず痒くなってきて、マスクの上から擦るようにして掻く。


 それにしても、無駄に良く晴れている。


 買い物以外で外出するのは、綾子がいなくなって以来、初めてだ。会社には電話で退職すると告げたが、退職が正式に受理されたのかは知らないし、正直どうでもいい。悪い会社ではなかったが、少なくとも自分から出向くことは二度とないだろう。


 主体的に行動しようという気持ちにまったくならない。食欲を感じれば食べ、性欲を感じれば自分で処理し、眠たくなれば寝る。働かなくてもしばらくは生きてゆけるだけの貯金はあるが、貯金が尽きた時、自分がどうなっているだろうかという不安を漠然と抱いている。どこか適当な職を見つけているだろうか。いや、廃人のようになっているかもしれない。


 かつて綾子が生きていた場所を目の前にして、綾子のことを考えている。この場所を訪れたから考えているではない。綾子と別れてから、ずっと綾子のことばかりを考えている。


 やはり幼少時に、綾子は両親と共に死んでいたのでは。成仏できないまま魂が東京に流れ着き、そして僕との出会いによってようやく成仏できたのでは。


 首を横に振る。


 確かに綾子は存在していた。綾子の存在をずっと感じ続けてきた。感触、体温、吐息、そして鼓動。間違いなく綾子のすべてが現実だった。


 最後のキスで、どうしてまだ目には見えていた綾子の存在感がなくなったのか。そして綾子が完全に消えた後、肉体はどこに行ってしまったのか。綾子は死んだのか。


 まただ、と少し脂っぽい頭を掻く。答えのない問いの答えをまた考えてしまった。この思考の堂々巡りを何回続ければ気が済むのだろうか。


 考えれば考えるほど、綾子のことがわからなってゆく。


 綾子の表情や声質から、的確に心理を読み取れていたつもりだったが、実はすべて的外れだったのでは。綾子との関係を掌握しているつもりだったが、ただの驕りでしかなかったのでは。実際に泥棒のことも、僕と一緒にいたいがための嘘だと、まったく見当違いの解釈をしていた。僕は綾子の何がわかっていたのだろうか。ひょっとして、何ひとつ、わかっていなかったのではないか。


 綾子が僕に掛けてくれた言葉の数々も、疑わしく思えてくる。


 綾子は本当に僕を愛していたのだろうか。


 最後に綾子は、ずっと愛してる、と言ってくれたが、消えてしまった今、どうやって僕を愛するというのか。僕は今、綾子の愛を何も感じることができない。これをどう解釈すればいいのか。


 まさか、綾子は消えたと見せかけて、実は消えていないのでは。僕の知らないところで、存在し続けているのでは。


 まただ、と両手で頭を抱える。問いばかりで頭の中が一杯になり、わけがわからなくなる。


 大きなくしゃみをした。マスクの隙間から埃が侵入したのかもしれない。


 いつまでこんな状態を続けるのだろうか。


 何らかの納得できる答えが見いだせなければ、前に進めない気がする。しかし手掛かりは何もない。


 不意に、あの雪の日のような冷たい風が吹き抜けた。


 どうやら泥棒に盗まれたものは、綾子だけではないようだ。

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