第8踊 病魔の器
ここは白い塔。
病気になった人が病人にならないように、治療のために訪れる施設。
だが、そこから帰ってきた人はいない。
―――
「アイリ、大丈夫か?」
俺とアイリは白い塔からの脱出をめざして走りっぱなしだ。
時には敵をやり過ごし、時には先程の理学療法士のように、避けられない戦闘もある。
だが、そろそろ限界が近い。
アイリは、明らかに疲弊していた。
“血刀”を使ってからというもの、顔色が優れていない。
元々白かった肌が、より白く、血の気を失っていくようだった。
まるで、“血が足りない”ように。
「私は大丈夫だよ。お兄ちゃんこそ大丈夫?」
アイリは平然を装っていたけど、痩せ我慢だろう。どんなに取り繕っても、兄妹だからわかるものはわかる。
「いや、俺はちょっと休みたいかな」
そう言って俺は、兄としての意地を見せた――つもりだった。
アイリは頷き、壁のひび割れた扉を開けて、薄暗い部屋へと身を滑り込ませた。
内装は病室のようだったが、ベッドには誰もいない。
消毒液のにおいがうっすらと残っている。
「ごめんね、お兄ちゃんに気を遣わせちゃったよね」
アイリも俺の妹だ。
俺の考えなんてお見通しなんだろう。
「べつに、俺が疲れてただけだから気にすんな」
「ふふっ、そういうことにしといてあげる」
アイリは刀を抱きしめるようにして座った。
あの“血刀”は使い終えた後、再び赤い結晶に封じられている。
「なぁアイリ、その刀なんだが……」
アイリは顔を上げて、俺の顔を見た。
綺麗な瞳が、まっすぐ俺を見つめてくる。
「やっぱり気になるよね……これは私の力の一部、病人としての能力の1つだよ。私の血液を媒体に、刃に変える武器なんだ」
血液を刃に変える武器――血刀。
見た目は鮮やかだが、力の源が血だとすれば、代償は小さくない。
「どこでそれを?」
「うーん、気がついたら手にしてた? お兄ちゃんを助けなきゃって思ってたら、なんか気づいたら握りしめてたの。触った瞬間に、頭の中に使い方とかいろいろ流れ込んできた感じ」
ちょっと何を言っているのか、我が妹ながら分からない。
俺は、もうひとつの疑問をぶつけてみる。
「お前……“病人”になったのか? どこか悪いのか?」
アイリは、少し神妙な顔で頷いた。
「私もよく分からないけど……お兄ちゃんと私は、生まれながら“病魔”を宿してるらしいよ」
“病魔”――。
アイリは続ける。
「“病魔”は病気の人に宿って、少しだけ力を与えて、本当の器を探している。私たちは、それぞれの病魔に適した“器”なんだって。だから、目覚めたら完全に異能力が使えるようになるらしいよ。それはもう、神のごとき御業」
「……お前はもう目覚めたのか?」
「ううん、私はまだ一部しか使えてない。お寝坊さんだね、私の病魔」
えへへと笑っていたアイリだが、疲れが溜まっているのか、瞼が重たそうに揺れる。
「そもそも“病気になると病人になる”っていうのは、ホスピタル側の洗脳だよ。病魔は病気の人に宿るけど、適した器の可能性がないと、力なんて与えないの」
「じゃあ、治療って……」
「うん、病気になった人を選別、研究し、そして最後には殺して、“力の可能性”を早期に摘む行為。白い塔って、そういう場所だよ。外にはそう伝えられてないけど」
白い塔の治療とは、病魔という可能性を排除する行為。
それは、ある意味で“神の力を恐れた人間たちの、封印”のようなものかもしれない。
「……それを俺たちは止めようとしてるのか?」
「ううん。私はただ、お兄ちゃんと一緒に生きたいだけ。病魔がいようがいまいが、私は私だよ。だから――生きたいの」
アイリは、微笑む。
その顔に嘘はなかった。
しばしの静寂が部屋を包み、俺たちは呼吸を整えた。
部屋の外では、白衣をまとった何者かが通る足音がかすかに聞こえる。
「……なあ、アイリ」
「うん?」
「お前の“病魔”って、どんなやつなんだ?」
「ふふ、それはね――」
そう言いかけたアイリの声がふと止まる。
目を細めていた彼女は、そのまま俺の肩に寄りかかるように、静かに身を傾けた。
「……アイリ?」
すぅ……すぅ……
「……寝たのか、まったく」
血を代償に力を振るい、限界まで身体を動かし、兄を守り、真実に触れ、それでもなお笑っていた妹。
ようやく手にしたわずかな休息を、静かに受け入れるように、アイリは俺の肩で仮眠をとりはじめた。
俺は彼女の肩に自分の手をそっと添える。
震えていた。こんなにも冷たいのかと、胸が締め付けられる。
今は守られる側だけど俺は、絶対にアイリを守る。
白い塔がどれほど異質で、恐ろしい場所だったとしても。
アイリが望む“生きる”という意志だけは、誰にも邪魔させない。
「おやすみ、アイリ」
俺は小さな声でそう囁くと、静かに周囲を見回し、次に備えた。
アイリの寝息が静かに響くこの小さな部屋で、束の間の平穏が流れていた。