第6話 脱出劇のはじまり
アイリから告げられた真実――あの時から“2年”が経過しているという言葉に、俺は頭の中が真っ白になった。
たった今起きたばかりの感覚でいた。
でも、世界はもう2年も先に進んでいるという。
目の前の光景も、壁の色も、漂う空気すら変わっていないのに、時間だけが遠く離れている。
その事実が、じわじわと心を侵食してくる。
俺は取り残されたのか?
いや、違う。もっと別の――何か大きな真実が背後に隠れているような、そんな不気味さ。
「……2年って、本当に?」
ぽつりとつぶやいた俺の耳に、甲高い爆発音が飛び込んできた。
天井が小さく揺れ、壁がきしむ。
数秒後には、耳をつんざくような警報音が施設中に鳴り響いた。
「爆発は気にしないでいいから!」
アイリの声が叫びのように響く。
「私がしかけた爆弾だから。混乱に乗じて脱出するよ、お兄ちゃん! 今は私を信じて、ついてきて!」
何がどうなってるのか、全然わからない。
けど、彼女の瞳だけは揺らいでいなかった。
その手が、俺の手をぎゅっと握ってくる。
俺も、握り返した。
強く、強く。
唯一の現実を確かめるように。
「信じてる。任せた、アイリ」
その言葉に、アイリが一瞬だけ微笑んだ気がした。
騒がしい廊下を駆け抜ける。
非常灯の明かりが赤く、廊下を照らしている。
天井の蛍光灯はちらちらと点滅し、壁のパネルが何度もきしんでいた。
後ろからは看護師たちの怒声や、どこかで何かが壊れる音。
施設全体が不穏にざわついていた。
「どこに行くんだ!? 出口なんて……」
「あるよ、ちゃんと。全部調べたから。安心して!」
アイリの足取りに迷いはない。
どうやら、この脱出計画は即興じゃないらしい。
これまでに何度もこの施設内を調べ、試してきたのだろう。
俺が眠っていた時間、彼女はずっと、動いていたんだ。
どこまでもまっすぐなその背中を、俺はただ懸命に追いかけた。
突き当たりに差しかかったところで、複数の足音が廊下の向こうから迫ってくるのが聞こえた。
「お兄ちゃん、こっち!」
アイリが素早く扉を開ける。
そこには「機材室」と書かれていた。
狭い部屋に滑り込むと、中には金属棚や薬品のボトルが乱雑に並んでいた。
鼻をつく薬品の匂いが充満している。
俺たちは棚の影に身を潜め、扉の隙間から外を覗いた。
すぐに、白いスクラブを着た看護師たちが数人、走ってくるのが見えた。
その中の一人、年配の女看護師が声を張り上げる。
「各フロアで病人たちが暴れ回ってる! 手が空いてる人は応援に行って! 最重要被検体も部屋から消えてる! 見つけ次第確保を! 最悪、手足がなくても構わないわ!」
……手足がなくても?
その言葉に、背中がひやりと冷たくなる。
まるで人間じゃないみたいな言い方だった。
対象を「命あるもの」として扱っていない。
何かの部品か、装置の一部のような。
やがて看護師たちは指示に従って、それぞれ散っていった。
俺たちは、完全に足音が遠ざかったのを確認してから、静かに機材室を出た。
「最重要被検体ってヤツ、相当ヤバいやつっぽいな。うまく遭遇しないようにしないと……」
そうつぶやいた俺に、アイリがぴたりと足を止める。
その顔には驚きでも恐怖でもなく――呆れたような、困ったような、そんな表情が浮かんでいた。
「……お兄ちゃん」
「ん?」
「その“最重要被検体”っていうの、お兄ちゃんのことだよ」
「は?」
「だから、手足とられるのお兄ちゃんだから」
「いやいや、ちょっと待って? 俺、普通の人間だって?」
「うーん……そうだね、普通だと思ってる人間だね。でも今はそれ説明してる時間ないから、とにかく早く進も!」
困ったように笑いながら、アイリはまた走り出した。
俺は、ぐるぐるに渦巻く疑問を飲み込みながらその背を追う。
それにしても、アイリの背中――あの細長い袋には一体何が入っているんだ?
何かの道具? それとも武器か?
「なあ、背負ってるそれって――」
俺が口を開いた瞬間、アイリが急に立ち止まった。勢い余って俺はぶつかり、尻もちをついてしまう。
「おい、急に止まるなって……」
立ち上がって周囲を見渡すと、そこは見覚えのある部屋だった。
殺風景で、無機質な広い空間。
窓も家具もなく、まるで世界から切り離されたような場所。
――ここは、リハビリ室だ。
アイリは動かない。
前方をじっと見つめている。
その視線の先に、見覚えのある男がひとり立っていた。
あれは俺のリハビリを担当した理学療法士の男だ。
ヘラヘラと笑いながら、男は歩み寄ってくる。
「困るなぁ。ここからは、誰も逃げられないよ?」
その声音は、まるでゲームの続きに誘うかのような軽さだった。
けれど、そこにあるのは確かな悪意と――支配欲。
「無視か。何者か知らないが、そいつは返してもらおうか」
俺の方へと視線が移る。
その瞬間、笑顔が消え、空気が一変した。
重たい静寂が空間を支配する。
肌が粟立ち、呼吸が浅くなる。
その時アイリが、ゆっくりと俺のほうを振り返った。
少しだけ微笑んで、まっすぐ目を見て言う。
「お兄ちゃんは、私が守るから」