第8話 敗北した男
「よくやったよ、デイジー!」
今朝の出来事をおかみさんに話すと、彼女は両手を打って喜んだ。
「うまくやったと思われるのは癪だけど、実際はそいつの食べ残しだからね。結果オーライじゃないか」
「マックスは野菜が嫌いだし、ライ麦パンも好きじゃないから、いつも嫌な顔をするんですけど。今日は残さず食べてました」
「洗濯物は?」
「放置です」
「掃除は?」
「しません。お皿も彼の分は洗いません」
きっぱり言ったデイジーに、おかみさんはうんうんと頷いた。
「それでいいよ。自分の食器は自分の部屋に置いときな。綺麗な皿を使い切ったら、あんたの方を使うに決まってるからね」
「でしょうね……」
「汚れものの匂いはアレだけど、こういうのは我慢比べだからね。あんたがやると思ってるから、知らん顔で押しつけるのさ。女を怒らせると怖いって、骨の髄まで染み込ませてやりな」
「分かりました。そうします」
こくりと頷いて、デイジーは野菜を洗い始めた。
朝から一仕事終えたせいか、今日は体が軽い。いつもよりも仕事がはかどり、パンの焼け具合も完璧だ。
大鍋の火加減を見ていたおかみさんが、ふと気づいたように振り向いた。
「そうだ。なんだったら夕飯はここで食べていくかい? 朝と昼もこっちで食べれば、家で料理しないで済むよ」
「え……でも、さすがにそれは」
「遠慮はなしだよ。あんたはよく働いてくれてるし、まかないの一環ってことで構わない。気になるなら、少し早出と残業でもしてくれりゃあいいさ。ただし、あんまり遅くなると相手と鉢合わせるからね。ほどほどのところで帰るといい」
おかみさんは朗らかに笑っていた。
彼女のところで働き始めて二年になるが、ここまで親切にされる覚えはない。デイジーが戸惑っていると、「実はね」とおかみさんが口を開いた。
「最初のころに比べて、あんたが浮かない顔するようになったのが気になってね。ずっとやきもきしてたんだよ」
「おかみさん……」
「あんたはいい子だし、仕事も真面目にこなしてる。こりゃあ、相手の方に原因があるって思ったのさ」
おかみさんはしみじみと口にした。
「あんたみたいないい子を利用して、自分だけうまい汁を吸おうって男はクズだ。人に面倒事を押しつけて、自分は知らん顔してるような男、一緒にいる価値もない」
そんな男に付き合うのは時間の無駄だと彼女は言った。
世の中にはしていい苦労と、しなくてもいい苦労がある。
この場合はどう考えても後者だ。そんなものに付き合えは、体がいくつあっても足りない。
自分のどこかがすり減っていって、最後には何もなくなってしまう。
そんなのは馬鹿らしいだろうと、おかみさんはきっぱり告げた。
力強い言葉には、それに裏打ちされた真実がある。経験、といってもいいかもしれない。
もしかしたら、彼女も同じ目に遭った事があるのだろうか。
おかみさんには夫がいず、離れた場所で暮らす二人の息子がいる。彼らは頻繁に訪ねてきて、おかみさんに花や果物を届けている。そんな時の彼女は、とても嬉しそうだ。
「そんなのに人生を使うほど、人の一生は長くないよ」
「――……そうですね」
その通りですと、デイジーは静かに頷いた。
マックスの言いなりになって、この先も搾取され続ける日々を送るのと、きっぱり断って、彼が改心する事。どちらか選ぶなら、後者の方がずっといい。
自分の気持ちはどうあれ、デイジーはマックスと結婚するのだ。その前に、やれる事はやっておきたい。
互いに思いやりを持って、いたわり合って生きていく。
そのためには、どうしても乗り越えなければいけない壁だ。
(……だけど)
もし、結婚相手を選べるとしたら。
今の自分は、マックスを選ばないかもしれない。そんな気がした。
***
それからも、デイジーは食事を作らなかった。
食事はすべて仕事場で食べ、材料を置いておく事もしない。ミルクも家では飲まず、水だけ用意する事にした。
マックスは最初の日、怒り狂ってデイジーに詰め寄った。
だが、以前から返済を要求していた事もあり、分が悪いと気づいたようだった。腹いせに、部屋の扉を蹴られた時はびくりとしたが、それでもデイジーはひるまなかった。
マックスは腹ペコのまま眠りにつき、そのまま翌日の仕事に行った。
それから数日、今度は露骨に不機嫌さをアピールしていたが、デイジーが取り合わないのを見ると態度を変えた。姑息にも、同情を引くようになったのだ。
今日もわざとらしく頭を押さえ、ちらちらとデイジーの様子をうかがっている。
「あー……辛い。だるい、きつい、頭が痛い」
洗濯をするデイジーの横で、マックスが聞こえよがしに呟いている。
「すげー辛いけど、明日も仕事なんだよなぁ。あっそうだ、もう着ていく服がないんだった。誰か洗ってくれないかな。誰でもいいんだけど。あー辛い、このままじゃ倒れるかも。どうしよう、ほんと、めちゃくちゃ辛いんだけど」
「マックス」
デイジーが名前を呼ぶと、彼はぱっと笑顔になった。
「なんだよ、デイジー?」
「そんなに辛いなら、ベッドで横になった方がいいわ。一日くらい洗わなくても、どうってことないわよ」
淡々と言うデイジーに、彼は顔を引きつらせた。
「い、いや、でも、俺ほんとに辛くてさ……」
「だから、ベッドに横になったら? 立っているのも辛いんでしょう」
あわあわとうろたえるマックスは気にせず、洗濯を終えて部屋に向かう。万が一の事を考えて、干すのは自分の部屋にした。
「いやその、だからさ、俺の洗濯物……」
「頼めばやってくれるお店があるでしょう。今日はあなたの当番だけど、私の分はやらなくていいわ」
にっこり笑い、呼び止めようとしていたマックスの鼻先で扉を閉める。その直後、デイジーは思い出したように扉を開けた。
「そういえば、忘れてたわ」
「デイジー、やっぱり俺のために……」
「お疲れさま。体を大事にしてね」
感激したように何か言いかけたマックスを遮り、ふたたび扉を閉める。閉まり切る直前、唖然としたマックスの表情が目に入った。
(すごいわ、おかみさんの言った通りになった……)
今回の作戦を始めるにあたり、おかみさんからはいくつかの注意を受けていた。
一つ目は、「怒鳴っても怒っても動じずに、決して言いなりにはならない」事。
二つ目は、「露骨に不機嫌な顔をしていても、絶対に無視する」事。
三つ目は、「同情させようとしてくるけど、どうせ嘘なのでほだされない」事だ。
順番が前後する事もあるが、ずるい人間は大体この手を使ってくるのでだまされないようにとの話だった。
(というか、マックスの他にもこんな人がいるのかしら……)
そう考えるとげんなりするが、おかげで対策が立てられてありがたい。
マックスへの同情は、彼のためにならないと割り切った。
――最初は怒って言うことを聞かせようとするはずだ。乱暴に物を置いたり、床を蹴ったりね。でも、気にすることはないよ。そういう男は小心者なのさ。
殴られないようにだけ注意して、知らんぷりしておく事だとおかみさんは語った。
――次に、不機嫌さで釣ろうとするだろうね。あんたがそれに負けて、機嫌を取ってくるのを期待してるんだ。でも、心配ない。そんなものは見ないふりをすればいい。
見ないようにするのは、慣れてしまえば簡単だった。今まではすぐにやってあげていたので、マックスもどうしていいか分からないようだ。
――それが終わると、同情を引く作戦かね。頭が痛いだの腹が痛いだの言ってきても、本気にしちゃいけないよ。よく見れば顔色もいいし、ご飯もしっかり食べてるもんさ。
今回の場合、食事には困っているようだが、すべておかみさんの言葉通りになっている。彼女がすごいのか、マックスが分かりやすすぎるのか。
マックスに押しつけられていた家事を放棄した分、デイジーの負担はぐっと減った。おかげで体調はすこぶる良い。共同の場所は散らかっているが、ぐっと我慢して乗り越えた。
今回は途中であきらめない。
何が何でも、手を出さないと決めたのだ。
マックスは当てつけのように部屋を散らかし、皿を積み上げ、これでもかとばかりに「俺は怒ってるんだぞ」アピールをしていた。デイジーの罪悪感をあおるため、体調不良だとも言っていた。
けれど、デイジーは知っている。
彼は職場でしっかりご飯を食べて、帰りにお酒まで飲んでいる事を。
さすがに財布がきついようだが、デイジーに謝る事はしない。
根比べと言ったのはおかみさんだったか。確かに、これは根気が要りそうだ。
マックスの遠回しな要請に気づかないふりをして、どれだけ怒られてもひるまずに、不機嫌な顔を出されても動じない。愚痴は聞き流し、泣きつかれても目をそらし、生活する事、さらに数日。
「俺が悪かった、デイジー……!」
先に音を上げたのはマックスだった。
「謝るから、許してくれよ。立て替えてもらってた金も返すし、家賃も払う。家のこともちゃんとする。だから、頼むよ。もう限界だ!」
「……本心から言ってる?」
「もちろんだよ! すぐに全額は無理だけど、とりあえずこれ。今月分の給金だ」
手渡されたのは銀貨だった。
今までの分にはとても足りないが、久々にマックスから金を受け取ったという事実に、デイジーの心がようやく晴れた。
「ほんとに反省してるから……許してくれよ……」
マックスはかなりダメージを食らったらしく、いつもの尊大さのかけらもない。そこはかとなく漂う異臭は、慣れない洗濯のせいだろう。シャツにはしわが寄り、ボタンも取れかかっている。
だが、まだ油断できない。
「本当に反省してる?」
「してるよ! してるって! ほんとに悪かった、デイジー。もう二度としないから、許してくれ!」
がばっと頭を下げられれば、さすがに悪い気はしない。さらに頭を下げられて、今までの鬱屈が少しは晴れた。
「これからは、ちゃんと当番を守ってくれる?」
「守るよ。約束する」
「お金もちゃんと払うのよ。今までの分も、少しずつ」
「分かった。全額払う」
「できなかったら――」
「やるよ! ちゃんとやるから!」
両手を合わせて拝まれ、デイジーはようやく矛を収めた。
「……分かった。なら、いいわ」
今までの事を許す気にはなれないが、今後は仕切り直してもいい。
「じゃあ! たまった家事をやって――」
「あげるわけないでしょう。少しは手伝うけど、それだけよ」
自分の分は自分でやれと突き放すと、マックスはむっとした顔になった。
(……あら?)
だが、デイジーがきちんと見るより早く、「分かった」とマックスが頷く。
「そりゃそうだよな……。自分でやるよ」
「……そうしてちょうだい」
(見間違いかしら……)
少し気になったものの、追及するほどの事ではない。
「これで俺たち、元通りだよな」
「そうね……」
完全に元には戻らないが、関係性の修復はしてもいい。
嬉しそうなマックスに、久々にデイジーも肩の荷が下りた。
こうして、ようやく問題は一段落した。
***
それから、マックスは家の仕事をやるようになった。
しばらくサボっていた分、手際は悪くなっていたが、ひいひい言いながらこなしている。
デイジーもそれを見て、たまには手伝ってやるようになった。
(よかった……)
この分なら、同居は続けてよさそうだ。
ただし、夜の誘いはかなりしつこくなっている。
今のところはかわしているが、生活に不満がない分、今までほど強く断れない。
その日もマックスに呼び止められ、デイジーは困り果てていた。
「なあ、いいだろ。本気なんだよ。二人の関係を進めたいんだ」
「だから、その前に両親の許しを得てちょうだい」
「そんな余裕なんてない。頼むよ、デイジー。俺の気持ちを分かってくれよ」
マックスは執拗に迫ってくる。気を抜いたら部屋に連れ込まれそうだ。
(困った……)
どう言われようと、彼の望みは聞けない。
静かな攻防は数日続き、デイジーが部屋にこもる事で解決した。
だが、マックスはあきらめていなかった。
あの手この手を使ってデイジーを誘い、あわよくば部屋へともくろんでいる。連れ込んでしまえば、どうにかなると思っているらしい。正直、そのやり方には嫌悪感しかない。
夜の誘いはその後も続き、かといって婚約するとは言わず。
両親へ話を通す事もなく、指輪を贈ってくれるわけでもない。
二人の関係は宙ぶらりんのまま続いていた。
――当座の問題が解決しただけ、よかったのよね……?
そんな事を思い、デイジーは息を吐き出した。