第4話 下心のある男
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その日もデイジーが夕食を作り、マックスは食べるだけ食べて部屋へ向かった。
今日は突然の腹痛だそうだ。あまりに痛すぎて、立っているのも辛いらしい。
嘘だろうと喉まで出かかったが、ほんのわずかな可能性を否定しきれない。もしそうなら、無理はさせられない。
床には洗濯物が放置され、泥のついた靴下も横にある。
早く落とさなければ染みになる。とりあえず、洗い場へ持って行かないと。
ここからやる事はたくさんある。
朝食の下ごしらえ、部屋の掃除、たまっていた衣服のアイロンがけ。マックスに頼まれたボタン付けもある。
すべての家事を終え、軽く汗を流すと、とっくに就寝の時間だった。
(疲れた……)
結婚したら、毎日こんな生活が続くのだろうか。
それほど結婚に夢があったわけではないが、この押しつぶされそうな感覚はなんだろう。
どんよりして、息苦しくて、出口のない迷路のような。
マックスと結婚したら、一生こんな日々が続く。逃げる事もできず、助けてくれる人もいないまま、重苦しい灰色の世界に塗り込められる。
そんな人生、全然楽しくない。
(……でも、こんなものなのかなぁ)
デイジーは今まで男の人と付き合った事がない。
十八歳になる今も、恋人と呼べる男性はいない。
だからマックスとの将来をほのめかされた時もすんなり頷いたし、そんなものだと思っていた。
――だが、今。
そのマックスのせいで、これでいいのかと思い始めている。
「デイジー」
その時、マックスの部屋の扉が開いた。
「疲れただろ? ご苦労さん」
「……起きてたの、マックス」
それなら手伝ってくれればいいのに、マックスはいつもデイジーが家事を終えたタイミングで声をかける。
具合はと聞くと、彼はきょとんとした顔になった。
「お腹が痛かったんでしょう。大丈夫なの?」
「え? あ……あー、うん平気、部屋入ってすぐ楽になった」
こくこくと頷き、ごまかすように笑ってみせる。
「それより、こんな時間まで大変だな。お疲れさん」
「……どういたしまして」
「なんか悪いな、お前にばっかりやらせてさ」
「そう思ってたの?」
それは意外だ。そして分かっているならやれと言いたい。
そう思っている事などつゆ知らず、マックスはなぜかまだその場にいた。
明日も早いのに、一体何をしているのだろう。
デイジーがそう思った時、彼が動いた。
「ところでさ……デイジー」
肩を抱かれ、デイジーはびくりとした。
「そっちのベッド、狭くないか? 俺のベッドを使ってみろよ」
「……別にいいわ。広さは十分よ」
さりげなく振りほどき、マックスと距離を取る。だがマックスは逆に一歩近づいた。
「遠慮すんなって。マッサージもしてやるから、な?」
「結構よ。それより気安く触れないで。恋人でもないのに、おかしいわ」
「別にいいじゃん。いずれはそうなる予定だし……」
顔を近づけてくるマックスに、ぞわっと嫌悪感が駆け抜ける。反射的に押しのけると、マックスがむっとした顔をした。
「そういうつもりなら、正式に婚約を申し出て。私にじゃなく、両親によ。そもそもの話、こういうことをするのは結婚後だわ」
「いいだろ、それくらい。固いこと言うなよ」
なおも触れてこようとするマックスに、デイジーはふたたび後ずさった。
「婚約しないなら論外ね。これ以上何かする気なら、大声を出すわよ」
「別にそれくらい――」
「両親に手紙も書くわ。もちろん、あなたの両親にもよ」
黙ってはいないという意思表示に、さすがのマックスもひるんだようだった。強引に抱き寄せようとしていた手が止まり、指先だけがそわそわと動く。
「もう一度言うわ。婚約もせずに、私に触らないで」
「なんだよ、生意気だな」
ちぇっと舌打ちしたものの、婚約するとは言わない。両親の名前を出したのも効いたのか、マックスはしぶしぶ手を引いた。
「マッサージするだけなのに、自意識過剰なんだよ」
「それはどうも」
「俺と結婚したら、そういう生意気な態度は許さないからな」
そう言いながらも、未練がましくデイジーの胸元をちらちらしている。肌を露出する服装はしていないが、今後はもっと厚手の服を着た方がいいかもしれない。
婚約もせず、未婚の娘を好きにできると思ったら大間違いだ。
それほど好かれていると思えば許せなくもないが、性欲の方が強いと思う。本当にデイジーと特別な関係になりたいのなら、せめて順番は守るべきだ。
まだ物欲しげにこちらを見ているマックスを振り切り、部屋の扉を開ける。これ以上ここにいたら、本当に身の危険がありそうだ。
(疲れた……)
部屋に入ると、デイジーはすぐにベッドに横たわった。
マックスの分まで働いて、彼のために食事を作り、掃除をして、洗濯して、片づけて。毎日クタクタで、とても他の事を考える余裕はない。
彼にそんな目で見られるのは困るが、いずれは結婚するのだ。あまり邪険にするのもまずいかもしれない。
――そんな暇があるなら、お皿の一枚でも洗ってくれればいいのに。
そう思ったのを最後に、デイジーは眠り込んでいた。
***
翌朝、マックスは不機嫌そうだったが、デイジーは構わず朝食を出した。
今日の献立はライ麦パンと、夕食の残りの野菜スープ、そして冷たいミルクのみだ。
「えー、また野菜スープかよ? いい加減飽きた」
案の定、マックスが不満の声を漏らす。
「それに、なんで卵がないんだよ。ハムとかベーコンは? 分厚いソーセージとかさ」
「文句があるなら食べなくていいわ。というか、食費を払って」
ぴしゃりと言ったデイジーに、マックスはさすがに口をつぐんだ。お金を払っていないという自覚はあるようだ。
だが、まだ納得していないらしく、小声でぶつぶつと呟いている。
「……ほんと、可愛げのないやつだよな。そんなんじゃ結婚したあと、しつけ直すのが大変じゃん……」
「何か言った?」
「……別に」
ぷいっと横を向き、分かりやすく不機嫌をアピールしている。まずそうにパンを半分ほど食べ、野菜スープにちょっと口をつけた後で、ミルクを飲んで立ち上がる。
「もういいや。片づけといて」
「お昼までにお腹が空くわよ」
「外で適当に食うからいいや。そんなまずいもん、食いたくない」
面倒くさそうに吐き捨てたセリフに、デイジーの目が点になった。
――食費を払っていない分際で、外食する?
彼自身は自分の発言に気づいていないのか、わざとらしく顔をしかめている。どうやらまずいというジェスチャーらしい。
「……そんなお金があるなら、食費だって払えるんじゃない?」
「あっ……」
やべっとマックスが口を押さえる。
「い、いや、そういうわけじゃなくてさ。金はほんとにないんだ。今のは言葉のあやっていうか……」
「なんでもいいけど、お金は払ってもらうわよ。いつ返済してくれるの?」
「それはその……あっもう時間がない、ごめんなデイジー、その話はまた後で。行ってきまーすっ」
そう言うと、マックスは脱兎のごとく駆けだしていく。呼び止める暇もなく、玄関の扉が閉まる音がした。
「もう……」
机にはマックスの食べ散らかした跡と、ほとんど手のつけられなかった野菜スープが残っている。思えばここ最近は、「いただきます」や「ごちそうさま」も聞いた事がなかった。
当たり前のように食事を作り、掃除をし、洗濯をして、アイロンかけやボタン付けまで行って。まさに便利な道具扱いだ。
おまけに金まで稼いできて、家賃や食費を払ってくれる。水代や、こまごまとした生活費まで。
(これは本当に……どうにかしないといけないのでは……)
薄々感じていた事がはっきりして、デイジーがきゅっと眉を寄せる。
この部屋を出てしまえば話が早いが、そういうわけにはいかない。
デイジーの実家は今も仕送りを必要としている。父親の薬代は高額だし、幼い兄弟達も食べ盛りだ。そのすべてを放り投げてしまう事はできない。
村に戻っても両親は怒らないだろうが、医者にかかる事はできなくなる。それはどうしても嫌だった。
それに、たとえ戻っても、今と同じだけの稼ぎは見込めないだろう。
食堂の仕事は実入りがよく、思った以上に貯金もできる。冷静になって考えれば、ここで暮らす方がいい。
(それに、結婚も)
マックスに不満があるとはいえ、結婚を取り消すわけではない。
今の状況で両親に話せば、二人は心配するだろう。ただでさえ大怪我をした父親と、家族を支えなければいけない母親に、これ以上余計な心配をかけたくない。
そう、これは二人の問題なのだ。
ここで解決できなければ、この先問題が起こっても同じ事だ。
(なんとかしないと)
少なくとも、このままマックスと結婚する事はできない。
あんな誘いをかけてくる以上、彼の方はデイジーと離れる気がないらしい。それならそれで、ちゃんとけじめをつけなければ。
とりあえず、今はじっくりと作戦を練ろう。
お金を返してもらい、夜のあれこれはきっぱり断り、仕事は公平に分担する。そのためには、綿密な準備が必要だ。
動くのはそれからでも遅くない。
その前におかみさんにも相談しようと、デイジーは固く決意した。