第二十二話 続・熱田の街と神明社-奈菜の町、尾張名古屋は白づくし-
葦登奈菜は、少し短めのお洒落な白いレーススカートと後ろ留めのブラウスで友人を待っていた。ストッキングも白系だ。白い身なりの今日の彼女は、そこそこ美しく見える衣服のコーディネートだった。
屋内通路でお相手を待つ彼女の目の前には、偶然にも似たような服を着た大きなマネキンのオブジェが立っている。来月のジューンブライドの宣伝も予てなのか、白一色のコーディネートのマネキンだ。まるで彼女と一心同体である。
待ち人というのはかつての大学の同級生、浜北保伍である。彼とは、ここで待ちあわせをして一緒に舞楽神事を見物するのが毎年の恒例行事となっている。一年ぶりの再会だ。
数分前、彼女はJRの駅から横断歩道を渡り、名鉄のビルへと入った。通路を進んで行くと、冒頭紹介した大型マネキン人形ナナちゃんに出くわす。このデパートのメンズ館の通路エントランスには、この大きなマスコット人形が飾られている。そう、彼女が困ってしまうのは、その名前が自分と同じナナちゃんなのだ。彼女が学生時代は結構冷やかされた。
ここは昔から名古屋近隣の人が、待ちあわせに使う場所で、ご多分に漏れず彼女も友人との待ちあわせによく使っていた。それで冷やかされることもしばしばだった。
「あれ今日はメンズ館に行かんで良いんかいな?」や、
「名鉄デパートの入口で立ちっぱなしは大変だがや」といった具合だ。
「あたし、デパートのナナちゃんじゃないがあ」
そんなときは決まって彼女は、こう言い返すのだった。
本日はゴールデンウィーク中。その時期に名古屋市にある大きな神社、熱田神宮で舞楽のお祭りが行われる。境内には、五月晴れの中、嬉しそうに泳ぐ鯉のぼり親子が見える。
舞楽とは、高舞台と呼ばれる緑色の特設の舞台を神社の境内に作って、面をつけたり、着飾った舞人がその上で踊るのである。振鉾と呼ばれる舞台清めの踊りから始まって、稚児舞発祥の迦陵頻や胡蝶といった巫女舞、そしてメインの踊りへと演目は延々と続いていくのである。
煌びやかな装飾が施された衣装と小道具に多くの観客が賞賛の拍手を送る大昔から伝わる伝統儀式だ。もちろん宮中儀式でもこの舞は使われる。有名なモノだと『源氏物語』の中のワンシーンに出てくる「青海波」という演目の舞は、源氏の君自らが物語の中で踊るシーンとして有名だ。
奈菜は熱心な神社の崇敬者というわけでもないのだが、舞楽を見るためという名目で、保伍と逢えることに喜びを感じている。二人も大学を出て、もう数年、鈍感な彼のてこ入れ、そろそろ異性としての付き合い方に関係を変えることも視野に入れていた。
綿パンに開襟シャツの姿で保伍が現れる。
「浜北、遅いぞ! 五分遅刻だ」とナナ。
「しょうが無いだろう。電車の都合だよ、オレ定刻には列車に乗っていたもん」
保伍の言い訳は正当なモノだった。
「じゃあ許す」
そう言うと、二人は地下にある名鉄線のホームへと向かった。
名駅と現地では称される名古屋駅から熱田神宮の最寄り駅である名鉄の神宮前駅までは十分程度だ。ほとんどの種別列車が停車するので、神宮前方面の列車の待ち時間は少ない。
煌びやかな太古から続く衣装に、雅な舞楽の曲と楽器の音色。二人が神社に着いたときには既に舞楽は始まっていた。
「ねえ、浜北は以前ここに住んでいたんでしょう? 熱田に」
「うん。小さい頃は十歳近くも離れた姉に引っ張られてよくここに見に来たんだよね。興味も無いのに」と苦笑いの保伍。
「なのに、なんで今は自主的に毎年ここに見に来ているの?」
そう幼少期は仕方なく見に来ていた舞楽神事を、今は自ら望んでやって来る。一体何が彼をそうさせているのか、が不思議である。
「何て言うか、習慣になっていて落ち着くんだよね」と本音の彼。
「習慣?」
「うん。姉貴がまだ優しい頃の想い出がいっぱいここにはあるんだよね」
「え、何? シスコン?」とジョークめいた冷やかな目で彼を見つめる仕草。
「いやいや。そういうんじゃ無くて、幼少期の自分と対峙する省みる時間と行事なんだ。オーバーラップというか……」
「オーバーラップ……」
「ほら、当時聴いていた想い出の曲や想い出の景色なんかを見ると、脳内だけタイムスリップする郷愁感を味わうことがあるでしょう。それがたまらなくセンチメンタルというか、既視感というか」
そういうとナナは「なるほど想い出の地なのね。この蓬莱、熱田神宮が」と頷く。
「小さい頃、オレ泣き虫でさ。成長期前なんて背も小さくて、いつも姉貴にせっつかれて、泣く泣くがんばっていたんだ。本人なりに大努力していた頃なんだよ、幼少期って」
「ふーん」
「姉貴は努力家で、いつも人一倍努力する人でね。今じゃ、会社でも管理職。一部の人には初の女性役員候補って言われているんだ」
「やり手ね」と初めて聞く保伍の姉の素性に驚く。
「うん。でも本人曰く、姉貴の夢は可愛いお嫁さんになることだったらしくて、人生設計間違えたって、いつも言っている」とぎこちない笑いの彼。
その後しばらく彼は沈黙を続けた。
不安そうな面持ちで「どうしたの?」とナナ。
「いや、なんていうか……」と切り出しずらそうにしながらも、何か言いたげな保伍。
「言っちゃえば、楽になるよ」と笑うナナ。その微笑みは優しさに満ちていた。
「うん。姉貴が職に就いてすぐにウチは父が他界したんだ。オレはまだ高校生だった。大学を諦めて働くよ、と姉貴に言ったら、『バカなこと考えないで私に任しておきなさい』って、オレの頭をポンポンと優しく撫でるんだよなあ」と遠くを見つめて言う保伍。
「オレと違って、いつも姉貴は逆境に強いのよ。でもオレのせいで婚期遅らしたのかな、って」と弱々しい笑顔の保伍。
学ランを着たあの当時の光景が彼の目には焼き付いているようだ。多感な時期の大きな感謝ほど心に残るモノは無い。保伍の胸には心強さと優しさが同居するあの日の姉の姿がずっと映っている。
「それでこうしてオレは無事に大学に進学出来たし、お前とも知り合えたんだ。姉貴とこの熱田神宮はオレの守り神なのさ」と頷く保伍。
「そっか。良いお話だね。じゃあ、そのお姉さんの夢、私が代わりに叶えよう。可愛いお嫁さんになるという夢」
「なに、可愛いお嫁さんになる予定でもあるの?」
「あるよ」
その返事に、「そうか……」と少し俯く保伍。
「なに暗い顔しているのよ」とせっつくナナ。
「だってどういう顔で受け入れればいいのか、オレには分からないよ。このイベントも一緒に来るのが、今年で最後なのかな、って思うと……」と残念と悲しみを同時に表現した声が届く。
「なんでよ。私があんたの赤ちゃん産んでやるって言ってんのよ」と凄い直球の返答をするナナ。
「え?」と保伍。
「ん?」とナナ
この間、数分の沈黙が流れている。勿論、境内には雅楽の雅な調べが絶え間なく流れている。「胡蝶」の巫女舞が終わり、ふと気付くと男性四人舞の「敷手」が始まっていた。
「オレ、お前に手をつけたっけ? いや、代理出産? ……のはなし?」
身に覚えのない育児宣言を受けた保伍は、少々困惑気味だ。彼女の提案を子どもの『認知』というお話に彼は思い込んでいる。良い思いをしていないのに、やることもやっていないのに、結果を受け入れるというすっ飛んだ彼の空想夢物語である。
「バカ。女の私に言わせるな。これから手をつければ良いのよ。グラマーではないけど、これでもそれなりにいい女なのよ、私」と積極的な自己アピール。一間開け、そのあとで「……と自分では思っている」と恥ずかしげに語気を弱めるナナが面白い。しかも顔が真っ赤だ。言った後で羞恥心が芽生えた感じだ。
「ぶわっ」と吹き出す保伍。そして「それってオレの奥さんになってくれるって事?」と半信半疑の彼。
「当たり前じゃない。他にどんな意味があるのよ。わたし愛人願望はないわよ」と笑う。そして「どうなのよ」とせっつくナナ。
「うん。神前、しかも神事での誓いだもんな。断る訳にはいかないよ」
「なに? この場に及んで、あんたに断るって選択肢もあるの? 『YES』の一択でしょう、この場合」
少々、いけ図々しいとは思ったが、彼女の恋はノンストップ。当たって砕けるを選んだのだ。
すると保伍はなにも言わずナナの手を取って、会館の方へと引っ張っていく。
「なになになに?」
ナナは彼の猪突猛進のスピードに曳かれてはや歩き。短めのスカートの裾を押さえながらなすがままに歩く。
「オレ、貯金たんまりあるから、すぐにでも結婚できる。お前の気が変わらないうちに今受付に行く。これが答え」
真剣な眼差しで、一目散で会館の建物を見つめ歩く保伍に、ナナは自分の仕掛けたプロポーズ大作戦が大成功となったことに嬉しさを感じていた。また役所の婚姻届ではなく、神社の結婚式場予約というのが彼らしくて良い。
「ちょっと、今日はランチにウナギの白焼きをご馳走してくれる、っていってたの忘れてないでしょうね」
「勿論だ。でも今は結婚式場の空き待ち調べと予算確認だ」
「白無垢に決まったのね。私の結婚式は」というと、「そりゃ、今日この場所での告白なんだ。熱田大神のご神前での結婚式がスジだろう」と返すと同時に、緋絨毯の廊下を案内ロビーに向かって行く二人だった。
「今日この日の私。尾張名古屋は白づくし、ってか」と独りごちるナナ。
嬉しいような、呆れるような保伍の思いを受け入れる今日のナナだった。
了