表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
24/26

第二十一話 続々・海風香る神明社-幼なじみの令嬢里梨花の正体-

「お疲れ様でした。打ち合わせは以上です」

 有名なフュージョン・ミュージシャンのスタジオセッションの打ち合わせは予想外にすぐ終わった。そのミュージシャン本人が多忙で欠席のため、デモテープを聴かせてもらったのと、本人からの依頼イメージがメモ書きで手渡された。なので、全体としてのグランドデザイン、各楽器パートの詳細は、各自イメージ全体像がつかめているようだ。

 僕は今回使わなかったギターのケースを手にすると、レコード会社の社屋の廊下をエレベーターに向かって歩いた。今回はアコースティックの依頼だ。まあ、アコギの依頼って久々なのでちょっと面白いと思って引き受けた感じである。


 エレベーターには結構な人数が乗っており、ドアが閉まり始める。

「あ、乗ります」といって女性の声がした。押し込むようにして入ってきたのが譜面を持った女性。視界が悪く、一番奥にいた僕にはよく見えなかったが、その声、どことなく聞き覚えがあり、どこかで会ったような気がした女性だった。だが仕事のことが脳裏をかすめたこともあって、気のせいだろうとその場はやり過ごした。

 彼女はドア付近なので、地上階に着くと真っ先に飛び出して姿が見えなくなった。


 それから数週間が過ぎた。僕は地元へと里帰りだ。これでいてなかなか忙しい身の上だ。

 江ノ電が高架の上を走り、デパートの中にある駅へと入っていく。湘南地域の町、藤沢に着く。駅前のペデストリアン・デッキから階下のロータリーをのぞき見ると、サーフボードを自転車の脇に載せて、ウェットスーツのまま走り抜けるサーファーのカップルが何組かいた。時折涼風が吹いて、梅雨の前のコンディションの良い季節、彼らの海への愛は変わらない。駅のコンコースでそんな事を感じた。僕も学生時代までは少しだけ波に乗っていた。今、この年齢になってからは世間の荒波に乗っている感じだ。


 さて遅ればせながらの自己紹介。僕は目春克美めばるかつみ。生粋の湘南ボーイだ。生まれ育った湘南、地元の海を見たくなって、帰省をかねて仕事場のある都会から仕事の合間を縫って戻ってきた。いや、そんな叙情的な話ではなく、これも正確に言えば家業の件で家の者に呼び戻された感じだ。

 我が家は神社、鵠沼の神明さまからちょっと行ったところでお好み焼き屋を経営している。亡くなった父の残した店を母と姉が引き継いで営んできた。その時は一旦、店をたたもうかという結論になったのだが、お得意さんたちから続けてくれないかと懇願されたことで、残してきた。結構地元では愛された店である。


 僕の仕事はスタジオミュージシャン。しがないギター弾きだ。今思えばなのだが、僕が音楽に携わったいきさつは、僕の近所に住むおしゃまな女の子の影響だったと思う。帰省する度に彼女の家の前を通るといつもそんなことを考える。今まさにその家の前に差し掛かっている。


 彼女の家は少し小高い丘の上にある。富士山がそこそこ大きく見える高台だ。このあたりの土地はもともと湘南砂丘という大地の上にある町なのだ。砂丘というと鳥取砂丘などを思い出す人も多いが、あの砂丘の上に舗装された道路や家が建っていると思ってくれれば良い。要は高低差のある、ゆるい起伏に富んだ土地という感じだ。


 その女の子の家は、僕の家の店舗兼住宅から五分とかからない。

 引地川の川辺に近い僕の家から、砂丘の坂を少し登ったところに白く高い石塀の家がある。コンクリートなどではなく自然石を利用した高級な塀だ。

九絵くえ』という表札が掲げられているその家。そこから聞こえてくるピアノの音が好きで坂の途中で立ち止まって聴くことも多かった。そこで聴いた曲を自分なりに調べて、どんどん曲や作曲家の名前を覚えたことで音楽がより身近になった。


 そんなある日、いつものようにその坂の近くに来ると、その日はクラッシック音楽ではないメロディがきこえていた。

 僕は立ち止まるとその旋律に聞き覚えがあったので、ピアノにつられてそのメロディを鼻歌で口ずさむ。すると塀の奥から「そこに誰かいるの? 学校のお友達かしら?」と女の子がカワイらしい声で訊ねてきた。

 慌てて僕は正体を明かす。

「あ、僕、この先のお好み焼き屋の息子で目春克美めばるかつみと言います」と返す。

「あ、あのお好み焼き屋さんの子なんだ。じゃあ先輩、お兄さんよね」

 そう彼女が確認して言うと、何故か足音が近づいてきて、僕の目の前にある勝手口の木戸が開いた。確かに彼女は二年後輩だ。

 顔を出したのは、ブルーのワンピースに大きなリボンをつけた上品そうな女の子だった。そう、なんていうか、往年の人気テレビアニメの『アルプスの少女ハイジ』に出てくるクララのような清楚な子だった。車いすには乗っていなかったけど。


「これって『トップ・オブ・ザ・ワールド』って曲だよね。結構昔の曲」と僕。

「そう、もとはカーペンターズっていうグループの……。何度もリバイバルヒットしてるみたい。お母さんが好きな曲なの。知っているの?」

「僕の姉さんが下手くそなギターでよく弾いているんだ。君のピアノの方が何百倍も上手だけどね」と僕が笑うと、彼女もクスッと笑う。

「ちょっと寄っていかない? 私のピアノ間近で聴いてみて」と彼女が言って、僕は初めてそのお屋敷に足を踏み入れた。人なつこい彼女は、見た目よりも親しみやすい性格だった。

 彼女の部屋は一階にあって、僕は玄関からお邪魔した。

「僕、いつも君のピアノを坂の途中で聴いていて、それを後で調べているんだ。ショパンやシューベルト、モーツアルト、リスト、ベートーヴェンも君のピアノで知って調べたんだよ」

 僕がそう言うと、彼女は「うれしい。私のピアノが誰かの役に立つなんて」と柔らかな笑みを浮かべた。僕にとってはそれが何にも表現しがたいほどの至福の瞬間だった。きっと僕の初恋だったのだろう。


 その時家の奥から声がした。

「あら、誰か、おともだち?」

 そう言って、彼女の母親が顔を覗かせた。その顔に僕は見覚えがあった。ウチの店によく来てくれる上品な女性客だったのだ。

「お邪魔しています」

 僕が立ち上がって頭を下げると、「誰かと思ったらお好み焼き屋さんの……」と、言って、「里梨花りりかがお友達を呼ぶなんて珍しいわね。今、お茶とお菓子を持ってくるわ」と部屋を立ち去った。

「綺麗なお母さんだよね。ウチの母親なんて見た目下町おっかさんだもんな」と言うと彼女は、「親しみのある良いお母さんだわ」と言い直してくれた。


 そんな小学生の時の彼女との出会いは今も僕の中で良い想い出だ。

 そして公立中学校に一足早く進学した僕は、学校での接点はなくなり、おまけに彼女は海の見える丘の上の中高一貫の女子校へと入ったため、時折道で会うとお互いに手を振る程度の近くも遠くもない仲になった。ちょっとした近況報告程度の付き合いだった。

 それでも僕に対して彼女は警戒心もなく、思春期特有のツンとした性格も見せず、いつものそのままの彼女だった。きっと彼女の育ちの良さから来ているんだろう。


 今も、そんな子ども時代のことをまた思い出しながら坂道を登ると、ちょうどあの時開けてくれた勝手口が開いた。そして彼女がその扉から出てきたのだ。

「あっ!」と彼女。

「よう!」と手を挙げて挨拶する僕。

 彼女は少しはにかんだように、「元気そうね」と笑う。もう立派な女性だ。レディである。膝丈のスカートにサンダル履きで普段着もそこそこ洗練されていた。別段再会の感動もなく、あの頃のいつもの距離感、挨拶で二人は向き合った。

「うん、今日は家の用事で戻ってきたんだ」

 僕の言葉に「そうなんだ。あとでお好み焼き、食べに行ってもいいかな? あなたにお話したいことがあるの」と彼女。

「話? 僕に?」と言うと、彼女は無言で肯いた。

「この間は急いでいて挨拶も出来ずにゴメンね」

 そう言って彼女は家の中に戻っていた。

「この間? いつの『この間』なんだろう?」

 いつだか分からない『この間』の明確な定義がなされないため、モヤモヤな気分で僕は、坂を下ると実家に向かってふたたび歩き始めた。


「ただいま」

 いつものようにお好み焼き屋のサッシで出来た引き戸を滑らせて店に顔を出すと、そこには母と姉のあおい、姉の夫、義兄の孝彦たかひこが僕を待っていた。彼らは鉄板付きのテーブルのひとつに陣取って、僕が帰る前からなにやら相談をしているようだった。一様に皆が暗い顔をしてる。

「どうしたの?」

 僕が皆に尋ねると、母が重たそうな雰囲気で話し始めた。

「実はね、ここの土地を売って欲しいという近所の大地主さんからの依頼があってね。代々ここはお父さんの目春家の持っていた土地なんでムリです、っていったら頑固に売って欲しいの一点張りで、近隣の大きな会社の社長さんまで連れてきて半ば強制のように言われてねえ……。大物二人が意見を揃えて言ってくるのよ」

「うん」

「先祖代々受け継いできたこの土地をお嫁さんの私がどうするとも言えなくてね。家督の跡取りの克美の意見を聞こうかなって思ったのよ」

 母がそういうと、姉と義兄はやはり小さく頷いた。

「僕の意見なんているのかな? だってこの店にはノータッチだし、この場所に戻るかも分からない浮き草暮らしの、しがないギター弾きだよ」と笑う僕。

「相手はこの辺一帯の大地主と言うこともあって、扱いを慎重にしないと結構やっかいなんだ」

 付け加えるように義兄の孝彦が言う。


 店の戸がスッとスライドして、九絵里梨花くえりりかが相変わらずの清楚なファッションで現れた。

「ごめんください」

 彼女の言葉に前掛け姿の母は、「あら」と言った後で、

「ごめんなさい。今日は臨時の休業日なのよ」と済まなそうに断りを入れる。

「ああ、そうですか」と残念そうな里梨花だが、僕の方に目線を向けると、

「克美君、ちょっといいかな?」とこっちに目配せをした。

 あたまを掻きながら僕は店を出て、後ろ手で戸を閉める。

「ごめん、今日が休業日って知らなくてさ」という僕の言葉に、

「ううん。それは良いのよ。きっと海蛇うみへび地所の件でしょう」と彼女が言う。

「どうしてそれを」

「このあたりの人は皆、今悩んでいるのよ。一手に買い込んで、高級リゾートの別荘地をここに作りたいみたいよ」

「君の家もその対象なの?」

「ううん。ウチは高台だから、不動産屋の今回の計画には入っていないわ」

「そうなのか、よかった」

 少し安堵する僕。

「変わらないわね。昔のまま、優しいのね」と嬉しそうな表情の里梨花。

 そして「この間はあのフュージョン・ミュージシャンの会合で挨拶しなくてゴメンね。急いでいたから」と話題を少し変える彼女。

「え、じゃあ、僕の記憶は当たっていたんだ。レコード会社の社屋で、あのエレベーターで最後に入ってきたの里梨花ちゃんなの?」

「うん。克美君がいたからドキドキしちゃった」とモジモジしながら嬉しそうに言う。


「僕にドキドキって、まるで恋してるみたいじゃん」と冗談を言うと、

彼女は顔を真っ赤にして「だってそうだもん」と角口をしながら笑った。

「うそだあ?」と僕。

 彼女は少し恥ずかしそうに「本当」とはにかんだ。両手を後ろにして石を蹴るような仕草。

 そんな彼女を見ていたら僕も少年時代の熱い思いが蘇ってくる。頬が熱い、鼓動がトクントクンと脈打つのが分かった。

「両思いだったの、僕たち」とおそるおそる訊ねる。

「そうみたいね」と赤い顔のまま彼女は言う。

 驚きを隠せないのは僕も同じだった。こんな品のよい美人がずっと僕を好きでいてくれたのだ。

「なんか変な方に話しがいってごめん。真面目なときに」

 僕は脱線した話を元に戻した。不謹慎に思われたらイケないので、彼女に詫びを入れて。

「ううん。あながちこの不動産屋の件と私たちの恋バナ、両者の話は無関係なわけじゃないの」

「僕らの恋バナと不動産屋さんの話が?」

 この二つの話に交点など存在するのだろうか、と感じる僕。

「うん」と答える彼女は、どこかで二者が交わることを知っているようだった。


「ねえ、私と結婚する気ある?」

 気迫に迫った彼女の瞳。唐突に、こんな美人に結婚を迫られたら大抵の男は腑抜けになるだろう。そう、僕も大抵の男なので、言わずもがな腑抜け状態となった。

 だが彼女の瞳はそういう色恋という意味を抜きにしての様相も秘めていたようだ。要は、彼女にとって、僕との結婚話は二人の相思相愛と、それ以外の重要な理由の二面的な利点をカバーできる話のようだ。

「ええ、僕と結婚してくれるの?」

 そんな隠れた理屈よりも、当然、今の僕は俗物的な喜びに満ちていた。幼い頃から憧れていた女性との結婚である。

「うん」

 覚悟のような彼女の凜々しい表情に少しだけ僕は戸惑う。

 気持ちを持ち直すと、どういう意味か説明してくれる。

「私の気持ちは間違いなくあなたを好きなのと、あなたの家のお好み焼き屋さんも好きなのよ。だから無くなって欲しくない」

「うん」

「もし私と結婚してくれれば、海蛇地所は土地の買収を諦めるわ」

「なんで?」

 いまいち辻褄の合わない彼女の理屈に僕は疑問を感じる。

「それは私が九絵国鉄総裁の孫だからよ。いくらなんでも海蛇地所も元国鉄総裁の孫の親戚の家を退かしてまで、別荘地開発に乗りだす勇気は無いわ。どこから追っ手が来るか分からないもの。しかも国鉄総裁は統括省庁の運輸省と建設省の下部機関のトップだわ。だから現時点で海蛇地所は私の家のすぐ横で境界線を引いたのよ。我が家を退かそうとするとやっかい事が絡むと思ったのね。それなら線引きをあと五十メートルくらい横にずらしちゃいましょう。あなたの家の横に境界線を移動するの」

「ええ? 君の家ってそんな由緒ある家なの? 知らなかった」

「それは祖父の代まで。いまは父は会社役員だし、特に普通の一般人として暮らしているから政治や行政とは無関係よ」

 特段偉ぶる様子もない彼女。自分個人と家はあくまで無関係と言いたいようだ。

「それでもお好み焼き屋の僕とは家の格が違いすぎない? なんか浮かれた恋愛のお花畑から一気に自分の身近な人間関係や社会と結びついちゃったよ」

「いやね。今は私もあなたも同じプロジェクトを抱えたスタジオ・ミュージシャンでしょ? 同じ立場の職業人同士の結婚だわ」

「うん」

 僕はあまりに嬉しい反面、彼女のバックボーンにそんな先祖系譜が隠されていたことに驚いた。確かに東京で仕事仲間として会うなら気兼ねなく口をきけるが、地元で周りの人たちを交えた交流の中では、彼女はきっと高貴な目で見られる人で、僕は普通のお好み焼き屋の息子なんだろうな、と朧気おぼろげに想像していた。


 それから数週間後、ふたたび音楽スタジオで有名なフュージョン・ミュージシャン、海牛五郎うみうしごろうのセッション演奏に出かけた僕。

 すると海牛が僕の前にやって来て、「目春ちゃん、九絵ちゃんと婚約したんだって?」と肩を叩く。

「ええ、幼なじみなので」と言うと、海牛は、

「いいじゃん。今度のセッションにはそのコンビネーションを活かせるアコースティックな楽曲用意しているからピアノとアコギのコンビネーション、十分に見せつけちゃってよ、おめでとう!」と言ってくれた。

 そして「はいこれ、お祝い」と言ってリボンの付いた小箱を僕に渡した。後で開けてみると東京の有名店の洋菓子だった。わざわざ並んでまで用意してくれたのか、と思うと感謝の二文字だ。

「え、ありがとうございます」と僕。

「今日は、いい音出してよ」と笑顔で彼はプロデューサーの方に去って行った。


 数週間後に僕はふたたび両家の顔見せのために時間を合わせて藤沢に戻る。ちょうど夏真っ盛りの新暦盆のあたりの頃だ。きっと鵠沼の神明さまは人形山車の季節、既に山車の手入れや準備に入っているだろう。例大祭が今年も華々しく行われるはずだ。今年は里梨花と一緒にお祭り見物に行って、お参りもしよう。そう考えている。楽しい夏になった。

 そして海蛇地所は案の定、計画変更を申し出て、この付近での事業展開をすっかり諦めたらしい。もう少し山側の国道一号線より奥に別荘地計画を変更したそうだ。


 ワイン工場の甘い香りと潮風が引地川の上で重なると夏祭りの季節。里梨花との結婚もあと少しとなる。えっ、僕の家柄と彼女の家の釣り合いの話はどうなったか、って? 彼女の両親もウチのお好み焼きの大ファン。常連さんで、異論は出なかった。ご近所同士の気心知れた仲なので思っていたよりもスムーズに結婚の話は進んだのだ。そして音楽を愛する者同士の結婚に両家の親も納得していたようである。


                               了


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ