第二十話 続・高層ビルの谷間の神明社-古書街と文学少女の静-
箱富倶静は神保町の駅で地下鉄を降りた。浅草の自宅からはそう遠くない距離である。三越前で乗り換えるとすぐに着く感じだ。
この駅は地下鉄のいくつかの路線が交差するちょっとした乗換駅だ。地上を走る電車ではないので、駅自体の大きな建物というのはないが、人の往来はそこそこ多い。
神保町という町は、もとからJR線からのアクセスはない。歴史的には東京市電や都電が交通の花形だった頃に形成された経緯を持っている。漱石や太宰、田山花袋の時代には既に中心となる町だ。
先に触れたが、当時の省線、すなわち現在のJR線からだとお茶の水駅から駿河台の坂道を下る場合と、神田駅から延々と小川町を経由して歩く場合もあるが、おおよその人々は地下鉄で神保町駅を使うことのほうが多い。
言わずと知れた日本有数の古書店街、神保町。本の町であり、古書の町でもある。意外に知られていないが中小の新聞社や雑誌社もこの周辺に多い。
とりわけ新聞社と雑誌社の両方が神保町の隣町、飯田町に何故多いのかというのは理由があった。平成の初めまで飯田橋と水道橋の中間地点に飯田町貨物駅という駅が存在した。これは乗客を扱わない貨物専用駅だった。ここから日本全国に雑誌と新聞が発送されている時代があったからだ。名実ともにこの町は、昭和から平成にかけて情報媒体の発信場所だったのだ。
そういった地域の特色と役割にあやかり、実務上便利な立地だったため、ますます出版関係の会社が群れをなし神保町から飯田町あたりに集まって、ひとつの印刷と紙の文化の集積地帯が作られていった感じだ。
また隣町の本郷、お茶の水、駿河台などに林立する多くの大学があることも、この地域に出版社や書店が集まった理由の一つだ。いわばジャーナリズムとアカデミズムの必要性で発展してきたということもこの地域の特徴である。
さて静の話に話を戻そう。
彼女は今回バイト先を探して、いくつかの古書店の面接を受けている。そのいきさつから行こう。
彼女は大学生になって、ここに来て色気づいたのか、牛乳瓶の底のような眼鏡をやめて、コンタクトレンズにした。いままでファッションなど興味のない超文学少女だった。まあ、重症な歴女と並び時代錯誤が行き過ぎたよくいるタイプだ。この手のタイプは高校くらいまでは、お勉強が得意なタイプであることが多い。
そして勉強を忘れて青春を満喫するためのキャンパスライフ。いわゆる大学デビューと相成る。ご多分に漏れず、彼女もファッション雑誌に目を通すような女性に憧れて、読みもしないのに大学の友人が買っている雑誌のお下がりを読み始めた。
もともと彼女自身、それほど器量の土台は悪くないのだが、どうにも男性受けが悪い。その理由は、入学時点での初見が悪かった。
男性に相手にされなかった典型的な「ガリ勉」ファッションだった。地味なシャツに地味なズボン、黒一色の髪留めゴム。リボンやバレッタのひとつもない。全身からこの難易度の高い大学のために日夜勉学に励みました、と言わんばかりのオーラが出ているのだ。なので派手さはないが、同時に清楚さも、アクティブさもない。言うなれば、キャンパスや合コンなどでは彼女の存在など、塀に書いた『へのへのもへじ』の落書き程度の存在感なのだ。
そんな折、色気づいてきた上昇志向を打ち砕かれる出来事に遭遇する。合コンを主催した同じ学科の女性に、「あんたみたいなガリ勉ブスと一緒にいるとこっちの品位が下がるから明日の合コン来ないで。アンタなんか本にまみれて生活してナよ」と合コンの出席を断られたのだ。
彼女ははき慣れた黒いパンプスの底がすり切れそうになったのを理由に合コンの主催者に辞退を伝える。言い訳としてはよく分からないが、まあ欠席の旨は伝わったようである。
『そっか、私、本にまみれていればいいのか』
ぞんざいで口の悪いクラスメートの罵りや誹りをアドバイスのように理解する静。本にまみれているというのは彼女の性質上決して苦ではない。
だがネコ型ロボットの出てくるマンガでは、自分と同じ名前の女の子が憧れのマドンナ、紅一点人気者なのに、日陰者の自分は名前負けと日頃から感じていた。
「よし、本屋さんのバイトだ」
そう思った静だが、意外にも今の本屋さんも結構華やかである。女性店員はいつもこ綺麗にしている。大学の帰り道に立ち寄った書店員さんの美しさに自信をなくす彼女。
「よし、古書店ならどうだ」
そう思って何故か古書店の求人を探し始めたというのが、彼女のアルバイト探しの理由である。
だが世の中そう簡単に思いつきで仕事が見つかるほど甘くもない。冒頭でお伝えしたように、面接は連敗づくしの玉砕中というのが今の静の状況である。
これまで受けた古書店は尽く断られている。理由は簡単、最近の古書店は学術書の専門書店などを除いて、その多くは男性の喜びそうな官能的なものを置くことが多いからだ。そこに若い女性が座って店番などしていたら、買いづらくて仕方ない。それが売り上げ減少に繋がると懸念されたからである。
そんな業界の事情を知らない彼女は、相も変わらず古書店という古書店を受けまくっている。とにかく素直に本の好きな静。その思いだけで、いくつかの古書店の面接を続けており、毎日のように面接に出かけていた。
ある金曜日。この日も三件ほど断れた。ただ今までとは明らかに違って感触は良かった。それはファッション雑誌に特集のあった「オフィスレディ特集」という雑誌のコーディネートと似たような服を丸パクリしたからだ。銀座や大手町の若いOLさんが好むようなテイストの服で面接をしたためだ。
だが、とは言っても官能雑誌をそのファッションで接客されても、お客は躊躇して寄りつかなくなる。残念だがTPOの分かっていない静には、やはり自分の実力が足りないと勘違いした。現実には労使の雇用と求人の希望不一致、そうミスマッチから未だ採用されないのであった。
結果、面接に落ちまくったその昼過ぎ、帰り道に何か食べて帰ろうと彼女は神保町から飯田橋方面に回る。大きな通りを渡ると東京大神宮の前に出てきた。東京でも大人気の神社さんである。今自分が着ているおしゃれな服、ここに来るには、ピッタリの良いファッションであることを静はまったく気付いていないのだろう。
参拝に列を作り大賑わいの神社さんである。とりわけ若い女性の参拝者が多いのも有名だ。
まあもともと、本来の目的としては、この神社さん、伊勢神宮遙拝のための神社でもある。つまり伊勢神宮に行きたくてもなかなか行くことの出来ない人のために伊勢神宮の神さまを遠方から参拝出来るという場所を都内に設置したのだ。そんな意味合いがこの神社さんの役割の一つでもある。
その後、ある時から縁結びに御利益があると言われたり、神前結婚式の発祥の神社と言うことで『良縁』や『ご縁』を願う人々の集まる神社として今現在の人気に繋がっている。
雑誌に載っている程度にこの神社を知っていた静も、鳥居が見えてくるとその女性だらけの人混みに興味を持つ。
「これもなにかのご縁だわ」と通り側から鳥居の前で立ち止まると本殿の方向に向き直り、軽く柏手を打って拝む。気休めの神頼み、この時の彼女にとってはそんな程度の参拝だった。男っ気ゼロで、アルバイト面接を尽く落ちまくる女。それが今の自分自身への評価である。
拝み終わって道を急ぐ。駅も近いせいか、商店やレストランが増えた。ここまでくるとお目当てになるような飲食店も多い。和食も洋食も結構集まっている。選り取り見取りだ。通りの少し向こう側はもう神楽坂、もとの花街なので料亭なども多い。町全体の雰囲気も華やかだ。
彼女は安価で美味しそうなお店を見つけるべく、駅前の路地探索を企てる。意外に坂の多い場所でもある。
飯田橋駅近くの線路際、お堀沿いの路地を一歩入った奥まった場所。そこに飲食店ではなく、一軒の古書店を見つける。もはや地図上では飯田橋ですらない場所だ。
しかし相変わらず、本の街らしく、下請けの青焼きや電算写植、DTPなどの文字が企業看板に延々と並ぶ。そんなこの場所で、見つけた当該の古書店も、昭和な雰囲気の他の建物群と並んで、見た目同じ香りを醸していた。
その古書店の看板には『文学専門飯田町書房』と店名が記載してある。その看板の下のガラスのショーウインド・ケースに『アルバイト募集』の貼り紙を見つける静。
「文学専門。私が探し求めていた古書店よ。神保町からは遠いけど、お目当ての古書店ではある。そうよ、あたって砕けろだわ」
何を思ったか、その求人募集の貼り紙に勇気づけられて、いざ出陣の運びとなった。
すかさず午前中に突っ返された履歴書をクリアファイルから取り出すと、徐にそのまま店に入る。木と紙の香りがする店内。少々古い木造住宅の香りに本の匂いがする感じだ。
通路両側の本棚には、太宰、芥川、川端、三島、井伏と戦前戦後に活躍した文士の全集が紐括りにされてセット売りされている。
「すごい!」
中には初版本や既に無くなってしまった発表時の上梓版元発行のものまで揃っていた。もう文化財並みの品揃えである。
また日本文学だけでなく、西欧文学も置いてあった。
本家ジョン・テニエルによる挿絵でおなじみのルイス・キャロルの童話集や同じ童話でビアトリクス・ポター作『ピーター・ラビットのお話』の世界最初期作品のひとつといわれるカラー刷り童話絵本。文学史には必ずといっていいほど紹介される有名本の現物である。
そして印象派の画家たちと並び、同時代に新聞や雑誌を一新させたカリカチュアで知られるドーミエの風刺画集も全て本物で揃っていた。いずれも明治期に輸入されたと思われる価値ある書籍だ。
「なんなの? このお店。お店まるごと文化財にできるわよ。まさに私にとって天国のようなお店じゃないの」
彼女は内心ドキドキしていた。そして『ここで働きたい!』、そう思いながら店の奥へと進む。
二十坪ほどの店内。眼鏡を掛けた好々爺、白髪のご老人が、この店の奥でうたた寝をしながら店番をしている。
「あの……」と静は声をかける。
就寝中に申し訳ないと思ったが、こっちもアルバイトを探すため必死だ。
「ああ、いらっしゃいませ」と寝ぼけ眼の店主。目を擦りながら、姿勢を正す。
「いえ、お客ではなくて、アルバイトの希望で……」と囁くように伝える静。そして履歴書の入った封筒をピュッと店主の前に差し出した。
「お願いします!」
彼女にしては結構積極的なアプローチをしたようだ。
「ああ、そうなんですね」と納得した店主は、そのまま履歴書を受け取ると、目線を静の横に置かれた椅子に向け、
「そこの丸椅子、申し訳ないがここに移動させてお座り下さいな」と促す。即、面接の実施となった。
「箱富倶静さんですね」
「はい」
「おお、梅塾女子大ですか。優秀だ」
「ありがとうございます」
「でも小平から通うのですか?」
「いえ、実家が浅草なので、大学よりこっちの方が近いぐらいで通勤に便利なんです」
住所欄をみた店主は、
「ああ、本当だ。しかも通学の通り道ですね。じゃあ、いつから来られますか?」と頷いて、店主は勤務希望日を訊ねてきた。
「明日からでも大丈夫です」
自信を持って答える静。なぜかこのお店に入ったときから彼女は、この店が不思議と自分にとって、とても落ち着く場所であり、本来の自分を出せている。
「希望時間は午後三時から午後八時、土日も出勤可能です、か。まあ、ウチは日曜日、定休なのでいいとして、土曜にいてくれるというのは助かります。出勤時は前掛けを自前で一つお持ち下さい。あと埃っぽい仕事もあるのでマスクも数枚自前でお持ち下さい。ああ、マスクは忘れてもここにありますけどね。では早速明日の土曜にウチの孫がいると思うので、彼に詳しい仕事内容は聞いて下さい。お待ちしております」
そう言って店主は履歴書を封筒にしまうと、丁寧なお辞儀をしてから、目の前の静にお構いなく足下に束ねた本の整理をし始めた。
帰り際、老店主から差し出されたショップカードを受け取り、店を出る。
『受かったってことよね、うん』と自問自答する静。お昼ご飯を食べ損ねた事も忘れて、夢うつつである。ショップカードの裏面に「時給1200円 交通費支給 水木金土15:00-20:00」と老店主が手書きで書いてくれた。これで採用でなかったら大きなずっこけである。憧れの文学専門の古書店での仕事が現実のものとなった。何故か彼女はそこで働く自分を格好いいと思ってしまったのだ。この残念な彼女の感覚はおそらく大多数の読者から賛同を得られないはずである。それほど羨ましい仕事場ではない。大多数の人はアメニティの充実した綺麗な職場こそ羨ましいと思う筈である。
翌日の土曜日の午後に、静は喜び勇んで飯田橋のその書店を訪れる。お堀沿いの道から路地に曲がったあの古めかしい建物が職場となる。勿論老店主に言われたとおり、お気に入りのスヌーピーのエプロンを持参し、そのポッケには使い捨てのマスクを数枚入れている。抜かりはない。
「こんにちは」と静。
昨日、老店主が座っていた会計の席には少し若い男性が座っていた。ジーンズにフリース姿で古書をビニル袋に次々と入れている。
彼は出勤してきた静の顔を見つけると、
「やあ箱富倶さん、久しぶり」と爽やかに笑いかける。サラサラの髪にきらめく瞳、世紀の二枚目俳優も仰天のハンサムボーイだ。
驚いたのは静。そう、彼の顔、見覚えのある顔だ。
「蛯原さん!」
そこに笑顔で待っていたのは、高校時代の部活の先輩の蛯原祐二だった。なんなら高校時代、静の憧れの先輩である。文芸部所属で、学生論文の全国大会で何度も受賞を経験した先輩だ。しかも秀才として学校では名高い存在だった。
振り向けば、既に別の仕事始めていて、梯子の中段に足をかけ、高い棚から本を下ろしている彼。そんな作業をしながら静に話しかける祐二。
「祖父から履歴書渡されたときは驚いたよ。じいちゃん曰く『お前と同じ高校出身のバイトさんを雇ったから仕事教えてやってくれ』って言われてさあ。で、名前見たら知り合いだし、ビックリ」と笑う祐二。
「私の方がビックリですよ。驚きですって。蛯原さんのご実家は船橋のほうって聞いてましたけど」
静の言葉に「うん、両親の家はそこ。でも父方の実家はこの古書店なんだ」と笑う祐二。そして「叔母もね、『鯨井出版』という会社をこの近くでやっているんだ。出版関係の編集プロダクションやデジタルコンテンツ関連の出版業をやっていて、どうも本や出版とは縁が切れない性分なんだな、我が家系は」と加えた。
静にとって憧れの秀才先輩である蛯原祐二。彼女が一年生の入学時、彼は三年生だ。塾に通うこともなく、家庭教師もつけず、ただ独学で東大の文科三類合格という、高校きっての奇跡の人と言われていた。希に見る本物の天才である。
「箱富倶さんは入学した新入生の時、その一年生の中でも、美人で有名だったよなあ。僕の友人はみんな可愛いって言っていたぞ。今一緒に働いているんだ、なんて言ったら、高校時代の僕の友達に、あいつらに、文句言われそうだよ」
「やだ、私なんてただのガリ勉で寂しい高校生活でしたよ。でもガリ勉しても先輩の足下にも及ばなかったけど」と謙遜する静。
「へえ、ガリ勉ねえ。いまの可愛いファッションからは想像も出来ないね。じゃあ僕たちの卒業後、二年三年生の時はぼっち生活だったの?」
「はい。ごく最近、大学デビューで、高校はぼっち生活。学校、部活、塾の繰り返しで地味に高校生活は終わりました]
「そっか、じゃあデビューついでに、今度あっちこっち連れ回してもいいかな? 文学探索や散歩に」
「嬉しい! ぜひ連れて行って下さい。大学もきっと高校と同じ暗い生活になると思っていたので、先輩がそばにいてくれるだけで幸せですよ」と言う静。自分でも驚くような言葉を吐いている。
その言葉に、少し祐二は顔を赤らめて、「みんなに抜け駆けって言われそうだけど、いいや、誘ったモン勝ち。じゃあ、今度文学館巡りのデートでもしようよ」と静に言う。
『デート』という言葉に過剰に反応する静。もう仕事所ではない。頭から湯気が出そうである。そんな静の態度に気付くこともなく、物怖じすることもない祐二は「あ、これ職権乱用じゃないよね?」と確認しながら笑う。
「もともと知り合いの先輩だし、その先輩との再会ですから問題ありません。それどころか、もう舞い上がっちゃうわ、私」
静の本音は、『なんか仕事で来た古書店なのに、上のそらの気持ちよ』という感じだった。当時は部活で執筆ばかりしていた彼が、もっと身近な存在でバイト仲間となる。口をきくのも恥ずかしかった高校時代からすれば、格段の進歩である。大学デビューの甲斐があった。
それどころか静を合コンから排除してくれたあの女性、今となっては感謝しかない。合コンに出ていたら、古書店の面接も、祐二との再会もなかったのだから。終わりよければ全て良し、そう前向きに考える静は笑顔が止まらない。普通にしていても、自然とにやけて、顔がほころぶ。端から見たら気持ちの悪い様子にも見えかねない。
彼女の新しいアルバイト、お洒落な神社との出会い、そして文学と古書と出版がご縁のこの町。そう、全てが動き出すキッカケになった。遅咲きの静だが、その彼女にとっての小さな小さな片思いが相思相愛の本当の恋の始まりとなった日だった。
了