最愛の人へ~最後に我が儘を言ってもいいですか?~
『ある男の悔恨』の『オリヴィア』視点です。
私は手紙を認める。
これが最愛の人に贈る最後の言葉になると知りながら。
最愛の人……でも、彼の心の中に、もう私はいない。
悲しいけれど、それ以上に願うことがある。
愛した人の未来が幸せに満ちたものになることを――
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私は『オリヴィア』、アルデノイト王国の三大公爵家の一つ、ノーザン公爵家の息女にあたります。
由緒正しい公爵家に生まれた者として、恥ずかしくないだけの品格を身に付けるため、母は私に厳しい教育を施しました。
しかし、それは愛情の裏返し。
普段はとても優しい母が、私のために心を鬼にしているのだと知っています。だって、終われば私を抱き締め、頭を撫でながら褒めてくれるのですから。
ですが、私が5歳になった頃、母は病を得て、天国へと旅立ちました。
そして、父は母の喪が明けぬうちに、ある女性を邸へと招き入れたのです。
私とさほど歳が離れていないように見える少女を伴って。
私は幼心に衝撃を禁じ得ませんでした。
前々から母が、使用人に父の予定を聞いて悲しげな表情をしていたのは、こういうことだったのかと、すぅーっと理解しました。
何とか体面を取り繕って挨拶を返しますが、私を憎々しげに見るその視線に指先から冷えていく感覚がします。
女性の脇に付いている少女は、私に笑いかけてきましたが、自分が笑顔を作れているのか自信がありませんでした。
それからは、これまでの幸せだった日々が、まるで虚構だったのでは無いかと、思わせられるような毎日となりました。
躾や教育と称して私を虐げる継母、継母と同じように痛みを伴う罰を平然と行う教師たち、罰を恐れて従順に従うしかない使用人たち、見て見ぬふりをする父――
その中で私に笑顔を向けてくれる存在がいました。
食事も同席できず、邸の中での行動も制限され、顔を合わせる機会など、滅多に無い異母妹の『シャルロット』だけは、私を慕ってくれる。
いまは彼女の存在だけが、この冷遇された邸の中で私の救いとなっていました。
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そんな辛い日々を過ごす私に転機が訪れました。
この国で唯一人の王子である『ローファ』殿下との顔合わせの打診を受けたのです。
『美貌の賢才』と謳われる殿下の、婚約者候補の一人として名前が挙がる。それだけで、これまでの血の滲むような努力が認められたような気がして、嬉しさのあまり舞い上がりそうになりました。
ただ、その気持ちは長続きしませんでした。
城に向かう馬車の中で、継母から嫌味と小言を延々、ネチネチと聞かされ続け、城に着く頃には、嬉しい気持ちなどすっかり萎み、見る影もありません。
沈んだ気持ちで案内された庭園へ足を踏み入れると、そこには色とりどりの花が咲き乱れており、思わず目を奪われてしまいました。
花に気を取られている私の背を継母が押してきます。
私が恐る恐る視線を上げると、扇で口元こそ隠していますが、不快感を露わに、私を鋭く睨む継母の顔がありました。
「ノーザン公爵の娘、オリヴィアがご挨拶申し上げます」
継母の視線に怯えながらも、何とか動揺を隠して学んだ通りの挨拶をすることができました。
醜態を晒さずに済んだことを内心安堵していると、私の目の前にいる殿下は、何故か固まったままでしたので、とりあえず、微笑んでおくことにします。
何か私に不手際でもあったのかと不安になりますが、まじまじと殿下のご尊顔を拝見することができました。
陽の光を浴びてキラキラと輝くサラサラの金髪、サファイアを思わせる碧い瞳、はっきりと整った目鼻立ちは、見惚れるのに十分なものがありました。
まさしく、美貌という言葉が相応しいその造形に図らずも、ドキリとしてしまいます。
それからすぐに私と殿下の婚約は結ばれ、私は妃教育のため、登城することが多くなりました。
初めの内はお互いの仲を深めることを優先して下さった陛下のご配慮もあって、教育もほどほどに、殿下とたくさんの時間を一緒に過ごしました。
二つ名に違わぬ膨大な知識量と広い見識に感銘を受けずにはいられません。
また、その落ち着いた声はいつまで聞いても飽きることなく、私を惹きつけて止まず、気付けば、私は彼の虜になっていました。
今から思えば、この頃が一番、幸せだったように思います。
城で教育を受けるようになってからしばらくすると、シャルロットも私と一緒に登城するようになりました。
本来であれば、直接的には関係の無い彼女を同伴することなど許されません。
城内には王族をはじめとする国の中枢を担う人物が多数います。彼らは常に命を狙われる可能性があるため、そういった危険を遠ざける意味でも、城内へは不特定多数が出入りできないよう、厳格に守られているのだから、婚約者の妹とはいえ、用件も無いのにみだりに立ち入ることなどできようはずもありません。
だけれど、どうしても大好きな姉と離れたくない、と泣きつかれた私は、ダメ元でローファ殿下にお願いしました。
すると、殿下は少し思案するように視線を落としてから、にこやかな表情で了承してくださったのです。
殿下の寛大な御心に感謝しました。思案する顔に見惚れていたのは内緒です。
妹と一緒に登城するようになってから、数日が経ったある日の事です。
教育を終えた私は、途中から姿の見えなくなったシャルロットを探して城内を回っていました。
基本的に私が受けている妃教育は、部外者に施されることはありません。例え、それが身内であってもです。
そのため、私が教育を受けている間は何もすることが無い妹は暇を持て余し、どこかに行ってしまいました。
いつも妃教育が終わった後は、殿下が忙しい身でありながら、一緒に過ごす時間を必ず設けてくれているのです。
大変な教育も、この時間があるから、愛する殿下と一緒にいられるから、頑張れる。でも、そんな私の大切な時間は刻一刻と過ぎていきました。
漸く妹の足取りが掴めた頃には、ほとんど殿下と過ごす時間は残されていませんでした。
ただ、向かった先が殿下の執務室だったのは、不幸中の幸いです。
それであるならば、残された僅かな時間も無駄にすることが無いからと、安堵していました。
この時までは――
殿下がおられる執務室の前に到着し、扉をノックしようとした時でした。
中から楽しそうな男女の声が聞こえてきたのです。
それは紛れもなく、ローファ殿下とシャロットの声でした。
「お姉様は本当に何でもできて、綺麗なんです。それに比べて私は……」
「そんなことはないさ。君も十分、魅力的だよ」
楽しそうに続いていた会話が途切れたと思えば、急に悲しげな声で自分を卑下する妹に、それを優しく慰める殿下の声が私の耳に届き、目の前が暗くなるような感覚に襲われました。
しかし、私はノーザン公爵家の令嬢にして殿下の婚約者、この程度で動揺する姿を晒すわけには参りません。
私は静かに大きく息を吸い、お腹に力を込めて扉をノックしました。
入室の許可を確認して中に入ると、正面には執務席に座って穏やかな表情を浮かべる殿下と、そのすぐ横にいる妹の姿が目に入りました。
その仲睦まじく見える姿に、私の心に傷が入りました。
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それからもずっと異母妹は私について登城し、私が教育を受けている間は殿下とともに過ごして続けました。
本心から言えば、私も妃教育など投げ出して殿下のお傍にいたいです。
でも、投げ出すわけにはいきません。将来、殿下の隣に立つのに相応しい女にならなければなりません。そうでなければ、私はきっと見限られてしまいます。
私はその一心で来る日も来る日も、妃教育に打ち込みました。
そして、終わって殿下の下を訪れるたびに二人の仲を見せつけられ、私の心の傷は次第に大きくなり、声にならない悲鳴を上げます。
でも、私は聞こえない振りを、見えない振りをしました。
辛いのは今だけ。
妃教育が終われば、殿下との時間が増える。
婚姻すれば、ずっと一緒にいられる。
その希望を胸に私は耐えてきました。
自分の願いとは裏腹に殿下との時間が減り、一緒の部屋にいる異母妹への黒い感情から言葉を交わすことが減っても、自分を誤魔化し続けます。
――大丈夫……私は大丈夫、と。
以前に私はあまりの辛さから、「彼女への接し方を考えてほしい」と、殿下にお願いしました。
しかし、殿下は――
――『嫉妬かい? 醜いからやめた方がいいよ。母親は違っても彼女は君の妹なんだし、先々、家族になるかも知れないのだから』
そう言って私を諫めるばかりで聞く耳を持ってもらえません。
そして、何より殿下の『家族になるかも』という未然形の言葉に、『我が儘を言うと、切り捨てるよ』と、言われた心地がして体の芯が冷えるような感覚に陥りました。
もう私の心はボロボロで何もかもが、悪い方向に進んでいるようにしか思えません。
食事は満足に喉を通らず、夜もよく眠れないため、私はすっかりやつれて、元からそんなに平均より細かった体が更に細くなってしまいました。
殿下は気付いていないようで、安堵するのと同時に寂しさと悲しさを覚えます。
そんな私をある衝撃が襲います。
いつものように登城するため準備をしていると、異母妹が私の部屋を訪ねてきました。
彼女はとても上機嫌ではしゃいでいます。そんな彼女を観察すれば、今まで見たことの無い耳飾りをつけていました。
それを認めた私の心臓がドクンと大きく脈打ち、俄かに視界が揺れ動きます。
私の心は、『聞きたくない!』と、叫んでいるのに、口からは勝手に言葉が漏れていました。
情けない程に震え、掠れた声で。
「その耳飾りはどうしたの?」
「これ? 昨日、殿下に贈って頂いたの」
満面の笑顔を浮かべた異母妹からは、嬉しくて堪らないと言った様子が見て取れます。
対して私の心は深い悲しみに覆われ、奥底から黒い感情が湧き上がります。
――昨日? 私が体調を崩して帰った後に二人は……
私はもうまともに彼女の顔を見ることができませんでした。
それまでは彼女の事が可愛くて仕方が無かったのに……
胸を焼く様な感情を隠しながら、私は目の前の女に言葉をかけます。
「そうなの……ねえ、あなたは殿下のこと、好き?」
それは、どこからこんな声が出せるのかと、自分でも疑うほど冷たい声音でした。
しかし、そんなことにも気付かない様子で女は私の問いに明るく返答します。
「もちろん! だって、家族になるのよ? それより、何で先に帰っちゃったの? お姉様も一緒に行けば、殿下に――」
「うるさい! あなたに“姉”と呼ばれたくないわ!」
気付けば、私はこれまで出したことの無いような怒声を上げていました。
これには目の前の女だけでなく、使用人たちも、そして、私自身も驚きを禁じ得ません。
私はこの場から一秒でも早く離れたい一心で、城へと向かいました。
「殿下、お伺いしたいことがあるのですが、よろしいですか?」
「何だい?」
「妹の耳飾りの事です」
城に到着した私は、普段であれば挨拶もそこそこに妃教育のため、執務室を辞するのですが、この日ばかりはそういう気分になれず、無礼を承知で殿下に、あの女が殿下からの贈り物と言っていた耳飾りのことを聞いていました。
私は心の中では何かを期待していたのだと思います。
二人の関係を否定してくれるような何かを……
しかし、殿下の口からは――
「他愛の無い事さ。君が気にすることじゃない」
と、何の弁明も無く、冷たく突き放されました。
それは言わずとも、『私に執着するな』という言葉が聞こえそうな拒絶とも取れる言葉。
私の思考は完全に停止しました。
今までの仕打ちに耐えてきた私の心はとっくに限界で、この瞬間、音を立てて崩れ去ったのです。
その後の事はよく覚えておらず、いつ、どうやって帰ってきたのか記憶が曖昧でした。
それからの私は何かをする気力も湧かなくて登城することも無く、ただただ、無為な時を過ごしていると、二日目の夜に父が私の部屋を訪ねてきました。
父は人払いをすると、一つの小瓶を私の前に置き、冷たい目で私に言います。
「シャルロットは殿下を愛している。そして、殿下もお前ではなく、シャルロットを選んだ。だが、お前から婚約者を乗り換えたのでは体裁が悪い。ただ、急逝したとあれば、問題はなかろう」
淡々と語る父の言葉は、とても実の親とは思えない程に残酷なものです。
しかし、既に疲れ果てていた私は、何もかもがどうでもよく思えました。
だから、この後に続く父の言葉を聞いても、動揺することなどありません。
「殿下を自由にして差し上げろ」
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私は愚かでした。
私の愛は一方通行の独り善がりなものだったのに、勝手に自分も愛されているなんて勘違いをして……
それでも、この気持ちに偽りはありません。
彼の事を愛するこの気持ちに。
だからこそ、私は願わずにはいられないのです。
彼の未来が幸せに満ちていることを。
身勝手な愛を振り撒き、愛されることを望んだ憐れで惨めな女。
こんな私ですが、最後に我が儘を言ってもいいですか?
「ローファ殿下、私の最愛の人……どうかお慕いしたまま、逝くことをお許しください」
小瓶の中身を一息に煽り、ベッドで横になった私が一人呟いたその言葉は、誰にも聞かれることなく夜の闇の中へと溶けて消えた。
ご覧頂きありがとうございました。