拘泥の花
小説を読了した時の、あの、なんとも形容し難い甘美な気持ちは、実に美しい。そんな美しき気持ちに包まれながら、私は読み終えた文庫本を文机に置き、街へ出掛けた。
数ヶ月ぶりに街を見て回ると、晩春の頃の景色とは全く違っていて、太陽が輝いている時には蝉、月の輝く時には鈴虫が音を奏で、青空や星の輝く夜空が、まるで硝子玉のようであった。また、ふと立ち寄った駅で売られていた、各紙に少し目をやると、五つの、色とりどりの輪が大きく掲載されていた。最近よく、この五つの輪や市松模様のようなロゴを目にするが、これが今の流行りなのだろうか。
暫く街を彷徨ってから家に戻り、私は今朝読み切った文庫本の頁を再び捲った。
あの気持ちは、一体何処へ行ってしまったのだろうか。捲れど捲れど、そこには今朝と同じ甘美さは見つからなかった。しかし、
「やはり、この小説は、面白い」
微笑みながら、言葉を漏らしてしまった。
甘美さは暑さで溶けてしまったようだが、そこには、また別の形容し難い感情を帯びた文が飾られていた。
かの有名な某文豪が、小説は本来女や子供が読むもので、大人が批評し合うような性質のものではない、と綴った小説を読んだことがあったが、正にその通りなのかもしれない。少し前に書店を訪れたことがあったが、(昔は漫画なども嗜んでいたが、最近はめっきり文豪らの小説ばかりを買っては読み、買っては読む、そんな生活になっていた)その際も、棚の目立つ部分には色恋沙汰を描いた小説が何冊も並べられていた。全てが、最近刊行されたものらしい。
ここいらで、終わりにしましょうか。私は万年筆を置き、ペンに持ち替えますから、あなたも一息おつき下さい。
実は、この小説はもう必要ないのです。
この小説は、元々「金盞花」という小説の末尾に、一行空けてから繋げて書き、ひと続きの短篇にするつもりでした。しかし、金盞花はもう咲いてしまいましたので、この小説は要らなくなってしまったのです。
先程書きましたが、文学を統べる老大家はよく流行りのものを批評するようでして、或る時、「最近の文壇は、衰退する一方でございます。訳のわからない題や、支離滅裂な文体。ははは。ああ、すみませんねえ。笑ってしまいました」と言っているのを、聞いたことがありました。
衰退、とは。一体何なのでしょうか。
いつか、長い時が経った頃、あの時期の小説は良かった、とそう言われる日がくるのではないでしょうか。もしかしたら、名著もかつては嗤われていた凡作であったかもしれません。
どうやら衰退と前進は、朽ちてみなければ、見分けがつかないようです。
しかし、デカダンスなものが減り、明るさや光で満ちてしまうのは、とても悲しいものでございます。
これまでに書いたことは、正直どうなってしまっても良いのです。
私はこれまで花言葉に苦しめられておりました。自由に花の名すらも、今までは扱えなかったのです。これからは花言葉などを捨てさり筆を踊らせます。白いポピーを咲かせます。
金盞花、お読みになりましたか。勧めるつもりも、作品について語るつもりもありはしませんが、書きたいことが一つあるのです。
あの小説は、と或る小説をオマージュしようとして、し切れなかったものなのです。
私はずっと、拘泥をしておりました。執筆をしていた時も、書き終えた今も、私にとってあの小説は心臓に、いえ、膵臓に悪いものなのです。