九話.母親との再会
雲が濃厚な昼時は、雪をも予感させた。委縮した皮膚が震えに変わり、人々の歩き方も俯き加減である。今のところ駅スパートで調べた時刻通り、目的地への進路を辿っている。
八王子から八高線で拝島駅へ、青梅線で奥多摩行きの電車に乗り換えた。数年前から変わっていないオレンジ色の車体は、様々な思い出を湧きあがらせる結果となり、自然と古くからの知り合いがいないか辺りに視線を移動させる。その落ち着きのなさが地元住民と思われるあばさんには不思議だったらしく、珍しい者を観察する様子を感じ取った義高は、寝たふりをして、その場をやり過ごした。
ガタンゴトン、ガタンゴトン。
そのシンプルな音に規則正しいリズム、足元からの熱風がふくらはぎ部分のブルージーンズを温め、やがて半分意識を失った。
青梅駅から奥へ進んでいくと乗客は格段に減る。出発まで五分、ドアから侵入してくる冷気で義高は目を覚ました。擦った両手に息を吹きかけ、身を縮めて出発時間を待った。
川村から借りたエンターテイメント系の小説を読み始めた頃、電車のガラス窓から緑一面の景色が見えてきた。永久に日の当たらないのではないかと思わせる場所のなごり雪が自ら光を放っている。
母親がこっちに移り住んだのは、義高が中学進学直前の時だった。元々母方の両親の実家があり、離婚して数年経ってからの引っ越しである。田舎育ちの母は、神奈川の横浜よりも住み心地がよかったのだ。子供ながらに受けた義高の印象である。その当初は、都会からの転校生にクラス全員不思議がっていた。幸いだったのは、それを異端児だと決めつける生徒もいなかったと言える。必要のない嫉妬は仲間はずれを招く。本人が悪いという自覚が希薄であることに子供の残酷さは際立つ。
奥多摩周辺は都内の登山道からキャンプ場はだいたい揃っている。夏であればそれらの観光客で賑わう。店を構えた店主達にとっても収穫期なのだ。丁度、海の家が海開きをする行為にも似ている。ただ地元住民は一年中堪能できる。義高も中学校の頃は登山道で足腰を鍛え、川で魚釣りに夢中だった。中学の三年間はバスケットボール部の部員として過ごし、都内の屈強なチームにも、土地柄で鍛えられた足腰で対抗した。そんな経緯もあり、菅野から登山ツアーを誘われた時は密かな自信も芽生えていた。足腰の強さだけでは安全だとは言えない登山、しかし持参する荷物を知っているか知っていないかでだいぶ違う。
次は終点のアナウンスが流れ、身を正した。首と肩を交互に回し、大きく息を吸う。減速した車体が定位置に止まる。隣座席に座らせておいたリュックを背負い、改札口を抜けた。
バスで十五分の距離を歩いてみた。野熊に注意の通学路はこれの倍はあった。
いくつかの同級生が住んでいた家を通り過ぎる。地元を大切にする者、都会の魅力を消し去ることが出来ず一人暮らしをする者、結婚して遠くへと嫁いでいった者、彼らの情報はあまり知らない。ある時期は過去を振り返らないようにしていたし、情報を知っている人間から積極的にアプローチがなかったせいでもあるだろう。こうして長年なじんできた地を踏みしめている最中、知らないことがちょっとした後悔になった。
傾斜の激しい坂を登り、木々と共存しているかのような民家が実家である。建物は二棟あって、親戚のところへ出かけている祖父、祖母が住み、奥が母用である。
京理と書かれた木目の表札、母方の名字を持っていた父は五年前に再婚し、自らの名字に変わっていた。インターホンを鳴らすわけでもなく、母、久美子は姿を現した。
「お帰り」
前に会った時と変わらないのが、これ程安堵させるものなのかと実感した義高は、
「ただいま」
ぎこちない挨拶をし、寒いから早く内へ入りなさいと催促してきた。
微かに香る生活臭を堪能し、ストーブの上で湯気を立たせているやかんに目を配らせ、こたつに入った。飾り気のない台所と繋がっている居間の支柱には、身長の成長過程を記したカッタ―の切り傷が残っていた。
「どうしたの? 急に」
作業を再開した久美子が言った。返ってきた本当の理由、現在探偵事務所にアルバイトをしていて、殺人事件の捜査を任されたプレッシャーを紛らわすためとは言えない。
「たまには、帰ってこようと思って」
あたり障りのない回答をした。
「そう。まだ食事は済ませていないんでしょ?」
「済ませてない」
「待っていて。もうすぐ出来るから」
焼き魚の匂いが漂ってきた。
「テレビでも見てて」
とリモコンでスイッチを入れ、手渡してくる。バラエティー番組の再放送がひどく場違いな感じだったので、ニュースに切り替えた。調理しながらも突然来訪した息子に気を使う。その忙しない動きに、義高はじっとして待っているのも悪いかなと思った。が、お酒でも飲むなんて聞かれたので、遠慮なく地元産の日本酒を頼んだ。
「駅前の酒屋さんの?」
「そう。最近は息子さんが店を任されているんだけどね」
恰幅の良い初老のおじさんが駅前の酒屋を切り盛りしているはずだった。一年前に脳の病気を患ってからは、体調がすぐれないと言う。
「確か息子さんとは同じ学校だったでしょ?」
「うん、先輩」
彼とはたいした面識はなかったので、会話は続かなかった。
二人して政治の話をBGMに食事を済ませる。久美子の前でおいしいなんて言ったのは初めてかもしれない。控え目な照れ笑いをした彼女は、熱かんをついできた。
「お酒は、相変わらず飲めないの?」
「最初だけは貰うようにしている」
じゃあと言って空になった茶碗に注ぎ返した。もういいから、加減が分からなくなっている。
「来年卒業でしょ?」
「大学生活も後、四ヶ月だね」
「就職先は決まっているの?」
「今のアルバイト先にしようかと思ってる」
深く追求してこない久美子に心で感謝した。言おうと思っていた感謝の言葉は、面と向かって別の言葉になる。祖父、祖母も元気でやっていると聞いて満足してしまった。他愛のない会話が続き、
「今日は泊っていくんでしょ?」
「うーん、明日早いから」
嘘だった。大学は冬休みに入っていたし、探偵事務所のアルバイトも二日後のツアーに備えて休みを貰っていた。
「もう、おじいちゃん、おばあちゃんに顔を合わせるぐらいはしてってよね」
曖昧に肯定した。
結局、連絡があり、日が沈んでも祖父達は帰ってこなかった。
「また来るよ」
「体には気を付けなさい。後、用がなくても連絡もしなさいよ」
頼りない街灯が点在する帰路を、義高は辿った。