五話.登山での出会い
四
夕刻に降り立った木漏れ日は、ペンシルライトのように頼りない。やがて漆黒の闇が辺りを包み自然が支配する時刻となる。人を食ってかかる急こう配、白い息が空を乱舞していた。肌に食い込んだリュックサックは人生の試練と同列の重みを与え、朝から歩き続けた加藤玲子は枯れ葉を摺って歩く。手に持つもう一本の脚は、冷気を吸収し、さらに硬度を増していた。止まれば立ち上がることが出来るのだろうか。彼女は木製のベンチを見ながらそう思った。反対側には、木々の隙間から下界の景色が広がっている。それを堪能したふりをして脚を進める。精神的な疲労が肉体的疲労とシンクロした頃、かなりの頻度で思考を支配することがあった。
「色気ないね」
彼女の趣味に対し、三十代になった会社の同僚が良く口にする言葉である。常識から考えて、もし多数決の場が設けられたのならば、同僚の意見に賛同する人が過半数を占めるだろう。出会いのタイムリミットは迫っている。
なぜ自分はこんな苦行を受けようとするのか?
標高一五〇〇メートルの頂きにある快楽を味わうためだった。その数値は、彼女に取って大きな意味はなかった。意味があるのは、遭難のリスクを乗り越えた後にある頂きの快楽だった。風邪が完治し、健康体になって味わうのがオルガズムによる男の快楽だとすれば、頂きで得る快楽は女の快楽である。
すれ違う登山客との挨拶にしても、都会のオフィスでは無愛想である彼女から自然な笑顔が垣間見れた。
残り一〇〇メートルの立て札が見えてきた。それを基に、別の登山道と頂きへの道とに分岐する。頂きへの道は途中から階段へと変わっていく。
「やっとね。大変だったわ……」
か弱い声で呟いた。と同時に額から光るものが目立つようになった。タオルで顔面全体を丹念に拭った。青白く映った空気には、男の影も含まれていた。
「奇遇ですね」
男は別の登山道から登ってきていた。疲労の色を隠している表情に、太い腿を覆ったカーゴパンツ、背負った荷物にしても玲子と比べ軽装だった。
「はじめまして」
男は復唱してきた。
「この時間だと、日が落ちてからの下山になりませんか?」
「ええ。ですが私の予定は」
と言った玲子は、息を整えながらスボンのポケットからはみ出たパンフレットを取りだした。ヨレヨレで開くのに手間取っていると、
「ロッジに宿泊するのですね。なら心配はいりません」
男に頬笑みが漏れた。皺の状態からして、年上だろうと推定した玲子は、自然な笑顔が出る。
「初めてだったので、道が間違ってはいないか不安だったんです」
「大丈夫ですよ。頂上から平坦な道を進めば、ロッジは存在しますので。宜しければ案内します」
「お願いします」
肩を並べて歩いている間、玲子の体は心なしか軽くなっていた。階段を歩く男のペースにも遅れを取らず、荷物を持とうと聞いていた申し出も断った。
男の名は新庄恭助で、登山道を管理する仕事をしている。それを聞いた彼女は妙に納得した。
「この高さになると、物資を自動車で運ぶのも困難でして。道路が整備されるなんて夢のまた夢の話ですからね。今日は見回りだったのですが、普段はゼイゼイ言いながら飲み物なんかを運んでいるんです」
「珍しいんじゃないですか? 私のような登山客は?」
そう言った玲子は、新庄の顔を覗いた。
「いえ、女性一人で頑張っている方も結構おられますよ。趣味も価値観も多様化している時代ですから男性も負けていられませんね」
そうこうしている内に、ロッジの屋根が見えてきた。木造の平屋には家族で泊っても持て余すぐらいの広さがあり、距離を置いて三件並んでいた。中央にはBBQ用の広場に水道が完備されていて、そのさらに向こうには、薄らと雪の跡がある山々が聳えていた。
「素晴らしい景色ですね」
到着した時は大きく感じた町は、ここからの景色では小さな集合体だった。幾つかの民家から発光された様子も伺え、お腹から空気を取り入れると、冷気が喉に心地よい刺激を与えた。
「絶景ですよ」
と言った新庄は上を向いていた。それを見やった彼女も、視線を上に向ける。
「空を手に入れた気分になれるんです」
片目をつぶり、両手を天にかざした。そのままの状態でしばらく動かなくなった。彼女は下方の景色は既に見飽きてしまっていて、天候が安定しない上空に興味がいっているのかなと思っていた。
「すいません。つい夢中になってしまうんです」
「登山にはそれぞれに目的がありますからね」
優しい口調だった。
「加藤様の目的はお聞きしてもよろしいですか?」
他人行儀な呼び方に寂しささえ感じていた玲子は、登山中の思考を話した。もちろんエロティシズムに例えた表現は除いた。
「頂きでの快楽ですか。わかりますね」
「そうですか」
新庄の表情は言葉と裏腹に曇っていた。意外と感情が表立ってしまう人なんだと思った玲子は、それ以上の話を広げないようにした。
黙々と点検作業をする新庄から目を話せなかった。頂きでの快楽が希薄になっている心は上の空であった。日が落ち切ってから、束ねていた書類にボールペンでチェックを入れ、彼女の元に歩み寄ってきた。
「点検が済みましたので、ロッジは自由にお使いください。テレビ等はありませんから、お暇になるかもしれませんが」
語尾の声量が小さくなった新庄に対し、玲子は明るく振る舞った。
「あまりテレビは見ないので平気です」
「よかった。では何かありましたら、室内にある電話で連絡して頂ければ対応しますので」
「あの……ですね」
「はい。用件でしょうか?」
間をおいてから言った。
「先程、私からなにか悪いこと言ってしまいましたか?」
「ああ、気にしないでください」
「なら、いいんですが」
今度は玲子の表情に影が散りばめられた。
「こういう仕事をしていますとね、加藤様が持っている感覚を忘れてしまうんです。ただ登って、業務を遂行する。終われば下山する。時には救援隊として動かなくてはならないんです。人の亡骸を相手にする場合もあります」
「大変、ですね」
「これの繰り返しなんですよ」
「もう、登山する楽しみは戻らないんでしょうか?」
それを聞いた新庄は顎を引いた。
「楽しみは、どこかに転がっているものですよ。そうでないと、この仕事は務まりませんからね。今度あるツアーに僕個人で参加するんです。登山とお寺めぐりに、お寺で催される儀式といった内容なんですけどね」
「盛りだくさん、ですね。とっても楽しそう」
玲子は胸で手を組みながら言った。
「でしょ? 具体的な記載がないから余計気になるというか、今から期待していますよ」
「期待に沿えるツアーになると良いですね」
新庄はごゆっくりどうぞと言い残し、下山する前に踵を返してお辞儀してきた。玲子は彼が見えなくなってもぎこちなく手を振っていた。
ロッジの室内は木の匂いが漂っていた。適温に設定された暖房は全体に行きとどいており、キッチンには基本的な調理器具が揃っている。まな板で持参した野菜類を切り分けていき、湯を沸かした鍋に順次入れていく。頃合いを見計らってスープの素を投入し、時間をかけて食した。
壁を隔てたひのき風呂からは湯気が立っていた。冷めないうちに強張っていた体を埋め、マッサージを施す。鏡に映った皮膚に化粧水を塗っていく。肉体は弛緩を欲していた。至福の時、いつもならそうなるはずだった。後悔として形を変えた違和感、窓を開けると、バスタオルで身をくるんだだけのほてった体は熱を奪われた。星達の輝きは玲子の後悔を埋めるに至らない。
ゆっくりとした足取りで電話の前に立った。二回の呼び出し音で彼の声がした。
「加藤様ですか? 不備でもありましたか?」
心なしか慌てた様子で聞いてきた。
「いえ、不備はまったくありません。快適に過ごしております」
「そう言って頂けると嬉しいですね」
「……実はお話されていたツアー、ご一緒できませんか? ご迷惑でなければですけど」
「良いですよ」
電話口から上気した声が聞こえてきた。連絡先を交換して、日程の説明があった。
「お仕事は大丈夫ですか?」
「有休休暇が残っていますので、使えばなんとかなります」
「わかりました。おやすみなさい」
「おやすみ」
意図的に敬語を省いた自分に赤面し、玲子はベットに横になり、すぐに眠りが訪れた。