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修羅の道  作者: 京理義高
3/15

三話.螺鬼山

 二


 F県にある螺鬼山は、ヘビを象徴させる、蛇行した山脈である。緩やかなカーブを描いた山ではなく斜面への建造物や道路の設置が困難であり、近隣の開拓しようと試みる住民には悩みの種でもあった。足を滑らせたら、崖に落ちるのと遜色ない形状である。しっかりした道が構築されるまで、興味本位で登山をしていた人間の転落が頻発した。唯一人の侵入を許可されたかの場所に登山道の入り口を置いた。軽トラックが走れば、対向車なぞすれ違うスペースがないという塩梅、観光名所で名を売ろうとしたが、いつしか知る人ぞ知る山になり下がった。


 無人駅から徒歩三十分の距離に登山道がある。バスの定期便も破たんしていた。入り口付近にはシャッターの閉まった店が存在感を独占しているため、細々とした経営をしている蕎麦屋と御土産店は、人目につく確率が低い。加えてこの季節、予兆を持たない細雪の固体化が、人の足を止めてしまうのだ。


 登山道の入り口から歩いて4.5キロの道のりに位置し、標高約七百メートルに煩悩寺が設えてある。さらに山道は続き、計四か所の寺が存在する。異例なのは、どの寺にも住職が存在しないことだ。戦前にも遡り、計測屋を生業としていた人物の成果が看板に記されていた。


 入り口〜煩悩寺(標高九百米)  距離 四千米

 煩悩寺〜豪徳寺(標高九百九米) 距離 四千四百米

 豪徳寺〜乱天寺(標高九百九十米) 距離 四千四百四十米

 乱天寺〜人羅寺(標高九百九十九米)距離 四千四百四十四米


 蕎麦屋で手打ちの仕込みを終えた男、貪平は、この看板を磨くのが日課となっていた。ささくれだらけの手に湯気の立った雑巾を持ち、キュッと音を立てながら丹念に。それでもいくつかの錆びは慢性の傷跡となっている。勢いあまり、錆びで怪我をした経験も記憶に新しく、ちゃんとした手当も受けていなかった。自らと共に老化していく様は、彼にとって微笑ましくもあり、長生きしてほしい対象物ともなっていた。


 貪平は珍妙な数値に疑いを持たなかった。満足な物資がない時代、約○米と記しても信用の度合は少ない。彼と計測屋の内に繋がりはない。御土産店のシャッターだけを開る作業が、かなりの重力を身に沁みさせ、よっこいしょの掛声で万年床に腰を下ろしたキヌ江は、脅迫観念じみた貪平の行動に歯止めを聞かすことを諦めていた。


「冷える、冷える」


 手を擦り合わせながら戻ってきた貪平は、瞼が垂れさがったキヌ江と目が合った。


「あんた、いつまでもそんなかっこしていると風邪引くよ」


「いや〜」


 薄汚れた調理服にランニングの下着で前掛けの貪平は、後頭部を掻いた。


「そろそろ店の閉めどきなのかいな?」


 冗談半分で言ったつもりだったが、キヌ江は真意に受け止めていた。


「なに弱気になってんだい。目の黒いうちはやっていかな」


「強いね〜」


「当たり前でしょうが」


 むすっとした顔をしてきた。幾度となく繰り返された会話だった。目を見れなくなった貪平は、店頭にならんでいる登山用の杖を物色した。


「今年は客来るかの?」


 白い息をたらふく吐いたキヌ江は立ちあがり、茶筒をポンと開け、玄米茶の用意をした。曲がった背中を盗み、感情的になった。


「いつも悪いね」 


「お礼はいいから、ちゃっちゃと飲み」 


「はい、はい」


 お互い、伴侶を失った身であった。体力がまだ充実していた頃、貪平の妻は豪徳寺への参拝の道中に転落した。キヌ江の夫は、人羅寺に辿りつく前で凍死した。山道を進んでいくにつれ、設備も貧弱となっているのだ。


 惨劇を踏まえ、山岳救助隊の常駐話を持ち掛けても村長には相手にされなかった。予期していたかのように、二人の怒りは長続きせず仕舞いで、特に恨みももたず鎮静した。村の財政は他の方向に進み、老人福祉施設の大量生産で落付いた。


 いつしか支え合うようになり、恋心とは無縁の絆を育んでいた。


「ふ〜温まる」


 喉を鳴らしてガブ飲みした。熱で悲鳴をあげそうになり、咳ばらいで堪えた。また茶の飲み方について注意されるのかと、密かな楽しみを抱いていた貪平だったが、反応を示さない老婆を前に、立ちつくすしかなかった。


「今年は客来るだと。しかも大勢だと」


 聞くと、茶椀を手にしていることも忘れていた。


「……そんな話があるんか?」


「ほんともほんと、団体客みたいだから接待よろしくと、頼まれたんよ」


 しばらく見せなかった笑い顔だった。貪平はこれで少しは儲かる的な心中を読み取っていた。こうなると、笑い顔をかき消す手立てを実行しようとは思えなくなった。


「なんとまあ……」  


「心配いらないて。わたしらと違って若い団体客と聞いとるし、寺かてたまには参拝されんと寂しむ」


「わかるんだがな」


 瞬時に悪い記憶が蘇っていた。そして自らの力ではどうしようもない事実もだ。際限ない泥沼に足を突っ込むべきではないと判断した貪平は、声を張って言った。


「昼飯は、手打ちそばを御馳走してやるからな。腹減らしておくんだぞ」 


「はい、はい、楽しみにしているよ」


 硝子張りの空間で、小麦粉がちりばめられたまな板の上にそばの塊を広げていった。長方形の包丁で均等に切り、客に出す分量よりも少なめな束にし、木箱に移していく。麺つゆの味を確かめ、大きく頷いた時、再び悪い記憶に捕らわれていた。抑えようとすればするほど、広がっていく。その広がりは味見さえままならなくさせていった。作業を止めた。貪平の持っている悪い記憶は、伴侶を失った経験をも思い出話と片付けられる程だった。


――来客を拒むのは今しかない。


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