十五話.前兆
十二
「ごひょー」
奇声を上げたのは川村だった。息切れしている状態で無理矢理発生したような裏声で、正直寒気がした。
「どうした?」
「どうしたも、こうしたもないだろ」
声を掛けた菅野に、川村は目を見開いたまま顎で前方を指す。そこには微妙な距離を保ち続けていた男女が手を繋いで仲良く階段を登っている姿がある。
「ああ。やっぱカップルだったんじゃね」
そんな驚くことか? と表情で訴えていた。現に彼らが手を繋いだのは数十秒も前だったし、
「不倫を疑っていたの誰だっけ?」
義高は階段前で立ち止まっている二人に向けて聞いた。川村の体は動かなくなっている。代わりに菅野が「ここにいる小説家の先生」とふざけた。すると、川村は義高と菅野の肩を抱え、ラグビーのスクラムを組む陣形に追いやった。
「何だよ」
「お前ら……知らない……のか?」
「はっ?」
「ん?」
義高と菅野はお互いの顔を見合す。お忍びで有名人でも参加しているのか、とか、実は男女二人に対して驚いているのではなく、森のなかで冬眠している熊でも目撃してしまったのか、とか言ってみたが、まったく川村の反応がなく、ちょっとして首を傾げた。
「あの男は……んん、間違いないぞ」
「だからなんだよ」
「ニュースでやっていたんだ。冬山を登山中に遭難して、一ヶ月以上も行方不明になっている男性がいてな?」
「一ヶ月も! かよ……それ」
菅野は言いかけて、言葉を飲んだ。義高にはだいたいわかっていた。一ヶ月も行方不明になっていることがなにを意味しているかを。
実際捜査が開始されたのがつい最近だという。つまり、行方不明になって、一ヶ月近く経過してから周りが動き出したのだ。
「もっと早く、対処できなかったのかな?」
「誰かが捜索願いでもだしたんだろ」
「誰かって遅すぎでしょ」
行方不明の男性は身寄りがなく、両親とも死別していた。親戚か友人が連絡できなくなったので、慌てて探そうとしたのだろう、というのが川村の推測だった。しかし、働いていれば職場を無断欠勤し続けているわけだし、それなりの事情がないと、捜索願の遅延の理由にはならない。
「あんま関係ない」
「いや、大事なところが曖昧過ぎだよ~」
義高は呆れた。虚構を作り出そうと日々精進している人間を、完全に信用していいものかが、まず怪しい。金髪美形探偵であるケンジにその貧弱な話をしたら、どのぐらい叩かれるか想像しただけで怖かった。
「で?」
菅野が先をせかす。そもそも、肝心な話しから脱線していた。
「ま、まだわからないのか……これだけ伏線をしいたというのに……なんという洞察力の欠如、いや、推理力でもないな、想像力という言葉はもったいないし」
「おい。もういいから」くどそうな話しを菅野が遮った。
「あの、後ろを振り返った時の表情が、行方不明になっている新庄恭助にそっくりなんだ」
川村の話しはこうだった。
新庄恭助三十九歳は登山でよく使われるような山のふもとで待機し、遭難や道案内、山小屋のメンテナンス等を請け負う仕事をしていた。そういった山のスペシャリストがまさか行方不明になる可能性を想定していなかった&個人事業でやっていたのが、発見が遅れた原因とされている。
――初めっから、そう言えよ。
義高は小声でつぶやく。
「行方不明の男性がね~ツアーに参加するかな」
「間違いない」
「疲れているんじゃない?」
「俺は人の顔に対する記憶力は並はずれているんだ」
「へぇ~」
「もっと緊張感をもて。そして考えてみろ。な、世間では死んだはずの人間がなんでここにいるのか?」
「それは川村先生の思い違いだから」
「正解! って違うわ!」
「はは、今の乗り突っ込み面白い」
義高は本気で笑った。
「もう、その緩んだ顔と心でいいから聞け」
川村が真剣だったので、二人は顔を引き締めた。しばらくしてから言った。
「あいつは犯罪を目論んでいる」
三人はその場で立ちつくした。菅野がまたまた~と冗談っぽく宥める。のまでは認知できた。彼らは階段を登り始めている。恐らく何らかの手段で確かめようと、先走っているのだろう。
義高は視線を遠くに投げた。遠ざかっていく二人よりもさらに遠くを。それは自分が意識したというより、視線を動かされているようだった。
体に異変があった。
背が一センチぐらい縮小し、元に戻り、それが繰り返し起こる感覚と、脈動で全身が左右に揺れる感覚が同時に襲ってきた。一本の煙草を吸い終えるまでの時間立ち止まっていれば凍えてしまいそうな気温なのに、額からは油汗が充満してきた。
そして、急に地面が反転した。