十四話.着信
十一
登山道には、朽ちかけた植物の名称を明示している看板や、草木を切り分けて伸びた獣道等、観光客の目を引き付けようとしていた面影があった。それは退廃的なものでもあり、人の手入れがなければ存続出来ないといった摂理を思い出させる。
それとは関係なしに、休憩所を出発した加藤玲子は、他のツアー客よりも高ぶっている心を胸に秘め、新庄の横でぴったりとひっつくように歩いていた。登山歴の長い者は山の景色を、距離を置いた視点で観察出来るのだが、今の玲子には周囲の景色がぼやけていて、目の前の男が鮮明に映っていた。
「古い母屋がありますね」
新庄はカメラのシャッターを押す直前のように、木造の母屋を見やった。
「誰か使っていたんでしょうか?」
知る由もない質問を投げかけているのに、気が付いていなかった。
「管理人の宿泊施設だったりして」
「なるほど。新庄さんみたいに」
「そんなに感心しないでください。当てずっぽうで入っているのですから」
「でも、説得力ありましたよ」
溢れんばかりの笑顔が毀れた。新庄は照れ笑いを返してくる。そのはにがんだ表情がかわいいと思った玲子は、素朴でくったくのないところに惹かれているのだと自覚し始めた。
職場は大手の銀行、世間では銀行員の男性は硬くてしっかりしていると思われがちであるが、少なくとも自分の職場を見ている限り、疑問を持っていた。あんなのマスコミが作り上げたイメージに過ぎないんだから。と言っていた女性は早期退職して三年経過している今でも、正論に思っている。
年収七百万を公言している、上司の男性は奥さんが居ながら女性社員との密会をしているし、お互い納得しているからなんて虚勢を張っていて、それについて隠そうとしていない。
もう一人はお客様の対応も一人前で、女性の対応も一人前な二つ年上の男性だ。未婚の彼は年末の忘年会にすべて欠席している。特に文句を言われないのも、女の子とのデートで余念がないからであり、周知されていた。そんな二人の女性好きとは別に、水面下で行われている噂は沢山あった。不倫、浮気、二股、三股、毎週のように行われている合コン、仕事をきちんとこなすならば、遊びにも力を入れなければならない。玲子の強めている銀行の裏スローガンだった。
ただ、大学を卒業してから七年もの間、大人しく銀行勤務をしているわけではなかった。困っている時に道しるべを教えてくれる、しっかりとした先輩に恋をし、二年間付き合った。別れた原因は、裏スローガンを実直に実行した相手にある。今も同じフロアで働いてはいるが、恨みや嫉妬は消え、相も変わらず若い子に手を出している彼を見て、呆れ果てていた。
「困ったお客さんはいません?」
玲子は顔を直視しないように尋ねた。
「そうですね~」
顎に指を置く。答えずらそうな新庄を察し、自分から話し始めた。
「結構前の話なんですけど、定期預金をした後日、いきなり乗り込んできて、お金が下せないのはどういう事だ。って叫ぶおじさんがいましたよ。結局、定期預金の説明を何度もして、納得してもらいましたけど、もう大変でした」
「いるんですね」
「いますいます、後、宝くじの当選結果を聞きに来るお客さんとか。うちではそんなことやっていないのに、どうしても今知りたいって言う者だから、職場のパソコンを使って調べたんですけどね。ほんと困りますよ」
「宝くじですか」
玲子は目を見開いて、口にてのひらをあてた。
「あっ、すいません私だけしゃべっちゃって……」
「いえいえ、構いませんから。じゃあ、こちらも愚痴っちゃっていいですか?」
聞かなくても良いですよ、とほほ笑んだ。
「登山中に子供が遭難したって連絡がありましてね。あまりにも気が動転している口調だったので、急いでその家族の居る場所まで登って行ったんです。そうしたら、待っていてほしいってお願いをしているはずの家族が先に進んでいて、聞いたら見つかったって言われて。聞いてみたら結局、その子供は勝手に仮設トイレで用を足していたんですよ。連絡ぐらい欲しかったですね」
「まあ、なんとなく帰りが遅い主人が連絡もせずにお酒を飲んでいた主婦の心境みたいですね」
「まさにその通りです。心配したエネルギーを返せって言いたくなりましたから」
二人は声を出して笑いあった。
リュックサックの小物入れが揺れ動いた。玲子は後ろを歩いている大学生の携帯に着信があったのだと思い込み放置していたが、新庄の指摘で自分のだと気が付いた。と同時に、少しの距離をあけた。発振主は知らない番号からだった。
「もしもし。加藤ですけれども」
声を潜め、耳の神経を集中させた。
『あの、中井です。先日は楽しかったです』実際聞くより、声の質が低かった。
「中井君? 私の番号教えていたっけ?」
玲子は必死に記憶を遡らせた。酔った勢いで教えていたのか…… しかし、すぐに否定した。第一、記憶を失うほどに泥酔した経験がなかったからだ。
『千恵子先輩から聞きまして』
「……そう」
顔を曇らせる。番号の又聞きは、玲子を不快にさせるのに充分だった。
『すいません。突然お電話しちゃって』
――まったく、話す順番が違うから。こんな時にかけてこないでよ。
と心で悪態をついた。見透かされていないか不安になった紀子は、眼球だけを横に走らせた。後列を歩いている、さっきの大学生を心配しているのだろう。新庄は振り返っていた。
「何か用があったの?」
『ええ、まあ、その』
歯切れが悪い。きっと悩みごとだろうなとたかをくくり、話しだすまで待つことにした。
『い……です……まで……いるんです』
急に電波が悪くなり、途切れ途切れで聞こえてきた。
「え? なあに?」
一語一句をゆっくり発音した。新庄が顔を向けて来る。早く切りたくなった。
『今、近くまで来て……いるんです』
「そうなんだ。偶然ね。ってえっ?」紀子は天然で乗り突っ込みをすると、耳が潰れるぐらい受話機を押しあてた。
「ちょっと、どういうこと?」
口に手を当ててから言った。
『加藤さんが……の話をしているのを聞いて、調べて来たんですよ』
「調べて来たんですよって。今どこにいるの?」
『ヤバい……その…………は』
玲子はヤバいとか、マジとか、新生児を気取った話し方が嫌いだった。彼の評価が下がったのは言うまでもなかった。それに加えて話がかみ合いそうにない現状、ため息を漏らした。
「何?」半分投げやりで聞く。
『えっ、声が聞こえな……ツーツーツー』
「……切れちゃった」
携帯電話に向かってそう言った。
「どうしたんですか?」
見兼ねた新庄は声を掛けてきた。
「会社の後輩が電話をしてきたんです」
「へぇ、有給休暇中なのに、大変ですね」
「違うんですよ」
と、その先を言おうとして思い留まった。イケメンの若手社員が近くまで来ているなんてしゃべって、新庄に変な誤解を受けたくなかった。むしろ、決して器用ではない自分の性格だから、何があっても電話のことは新庄以外にも絶対に離さないと誓った。
「用件を聞こうとしたら、切れちゃって……」
「かけ直してみたら?」
「圏外」液晶パネルの左上に表示されている文字をそのままだ。
素っ気ない態度だったのを、慌てて訂正するように、
「圏外になっているみたいです」それを聞いた新庄は、自分の携帯を取り出すと、神妙な顔つきになった。
「あっ、本当だ。こっちもダメみたいですね。何か手段はないかな」
言いながらも、ツアーコンダクターの成宮に頼もうとしている素振りをしている。
「いえ、もういいんです。折角の休みですから、仕事のことは忘れちゃいます」
パチンと音を立てて、携帯電話を仕舞った。
――いったい、なんだったんだろう。もしかして……私を追ってきたの?
愛情と執着は紙一重、いくらイケメンだって、本人が迷惑しているのならばきっぱり断るべきである。最近呼んだ女性誌に掲載されていた言葉だった。玲子は聞こえなかった部分を想像した。
――ヤバいです。その、加藤さんのことが。俺は好きに……
いくら評価が下がったとはいえ、追ってきたイケメンに好意を持たれているのかもしれないと思うと、悪い気はしなかった。気持ちが揺らいでいる。自意識過剰になっていることに嫌悪しつつ、でも気になって仕方がなくなっていた頃、ツアー参加者は、三百段はある急こう配の階段に差し掛かった。中腹部から緩やかになっているので、見上げてもその先が目視出来ない作りになっていた。
「皆さん。え~これを登ればお寺に付きますので。え~と、がんばってくださいね」
煩悩寺の標高は約九百メートル、後日行く予定となっている残り三つのお寺は、なだらかな登山道になっているので、これでリタイアしなげれば、大丈夫だと付けくわえた。物静かになった集団に、ちょっとしたどよめきが起こった。
階段を登っていく成宮が、何事もなかったように落ちていた白い布きれを拾っていた。山のふもとで見た、白装束を着た人達が落としたものなのかな、と玲子は思っていた。
「がんばりましょう」
新庄は手を差しのべてきた。玲子の冷えた手のひらは、彼の手のひらに包まれた。そしてもう一度誓った。
――中井君のことは、絶対にしゃべらない。誰にも。