十三話.休憩所にて
読心とは別の予兆があるとするならば、幻聴や耳の感度によって聞こえる高周波数の音であると知っていた。しかし、霊的なものを信じていない者、神経衰弱の兆しがない者にとって、幻聴は遠い存在の現象なのであって、義高の考えも例外ではなかった。ともすれば、高周波数の音を疑った。
周りの息使いや足音が、義高の思慮を分断させた。前方でダウンジャケットに隠れている痩せた背中が揺らめいていた。
「ちょっと、足がヤバいんだけど」
さっきまで雑草さえ観察してやろうと意気込んでいた川村は、太ももをさすりながら歩いている。早くね? と言ったのは菅野だった。
「作家とはいえ、体力は必要だぞ」
と言って、落ちていた程良い長さのある枝を手渡した。川村は杖をついたお爺さんそのものだ。
「知識と……想像力があれば、ハァ、ハァ、充分だ」
「おお~、自信持っていますね」
からかうように、よいしょした。
「では川村さん。これまでに何作書いているの?」
「二作。ハァ、一作は自信作で新人賞に送った」
ホームページに載っていた小説を除けば一作、残りの一作もすべて読まているのならば運が良いというのが、義高の主観だった。
「その自信作は、どんな内容?」
大井と紀子は並んで歩き、楽しそうに喋っていた。それも関係しているのだろう、川村は声を潜めた。
「言えないよ。ヘェ、盗作されたらやだからな。ヘェ、ヘェ、もし新人賞を取って、本になったら送ってやるから」
「待ち遠し過ぎ。ジャンルぐらい教えてくれよ」
「ミステリーだ」
「マジで!」
菅野が声を張り上げたのを機に、前を歩いている数人が振り返った。照れ笑いでやり過ごすと、根掘り葉掘り聞こうとする表情に変わる。
「推理小説なら、犯人が最初の方で出てくるのは常識だし、リアリティーのある設定でトリックを仕掛けないとフェアにならないからね。流石にトリックは出つくされているから、既存のものを応用するとか、現在のテクノロジ―を加味したものじゃないと、読者は納得しないし、リアリティーにしても、人生経験が必要だから」
当然知っているよなと言わんばかりの口調だった。
「当たり前だろ?」
川村はとても面倒くさそうだ。義高はそれを見て含み笑いをした。他人にも、その気持ちがわかってもらえそうだったからだ。
「ならさっきの話もわかるよね。作家も体力が必要。人生経験を豊富にするには体力が必要。資料を調べるにしても、気力がないとダメだろ。持っている知識で傲慢になっていたら、成長はしないよ」
「……わかったから」
編集者とダメ作家のやりとりは、こんな感じなのだろうなと思っていた義高は、紀子が後ろを振り返っていることに気が付いた。
「飴食べる?」
視線を手に持っている小さな包みとこちらへ交互に動かした。
「もらいます。ありがとうございます」
ちゃっかり紀子の手に触れた菅野の顔は、少し赤らんだ。糖質を取って、脳に栄養を与えなければならないという、どうでも良い使命感を持っていた川村は、嫉妬を隠しているに違いなかった。
熱が残っていた飴玉を頬張ると、ストロベリーの甘味が疲れを緩和した。
登山道が広がっている場所で、先頭を歩いていた成宮の脚が止まった。後列まで見渡してから、
「皆さま! 休憩を取りましょう」
木製のベンチで座れる人数は限られていて、暗黙の了解で、年寄りに席を譲った。
「え~、十五分後ぐらいに出発しましょう」
客達は輪を作るように成宮を囲んだ。
「ここら辺の木は、なんですか?」
厚いコルク状で縦に割れ目ができている、紅葉の葉をかろうじて携えている木々のことを、大井が聞いた。紀子はうっとりした目でそれを見守っている。
「クヌギですよ。花は雌雄別の風媒花でして四月から五月ごろに咲きます。本来は艶のある葉でして、夏は樹脂を求めて昆虫が集まるんです」
「へぇ~」
反応が良かったので、調子付いたのか、口角を上げながら続けた。
「材質は硬いので、建築材に使われるのですが、幸いここはそう言った林業はありませんから、切り倒されもせず、ずっと残っているんですよ」
おばさん達は、大袈裟に感心していた。まるであなたのポイントが上がったわと評価しているみたいでもあった。
会話が仲間内で展開されるようになると、夫婦かもしれないと思っていた女性が声をかけてきた。大きなリュックサックを背負いながらも、余裕のある表情からして、登山慣れしている。それに引き換え、自分達の軽装備は、素人まるだしで恥ずかしかった。
「学生さんですか?」
「ええ、サークルをやっていまして」
「まあ、登山サークルですか?」
「いえ、違うんです」
元々あってないようなコンセプトで作られているサークルに脚色を加えた菅野は、その後自己紹介をし、相手は新庄恭助、加藤玲子と、それぞれ名乗ってきた。
「面白そうなサークルですね」
不思議な旅ツアーに興味を持ってくれる新庄は、人が良いんだろうな。義高は思った。
「ありがとうございます。でも、発足してからいきなり螺鬼山のツアーでしたから。まだ不慣れな奴もいるみたいですけどね」
苦笑いした菅野は、疲労困憊で地べたに座っている川村を見た。
「彼は大丈夫でしょうか?」
心配してくれるのは当然だった。備え付けの看板には、この休憩所でやっと半分の道のりであると記載されているからだ。
「気にしないでください」
「ですが、顔色も良くないですし」
と、大きなリュックサックから酸素缶を取り出した新庄は、川村の前に歩み寄った。
「良かったら使ってください。少しはましになるかもしれませんから」
「ど、どうも」
遠慮のかけらもなく、川村はス―ッと音がしてくる空気を吸い込み、何度も深呼吸をした。結局酸素缶を貰った素っ気ない川村にかわって、菅野達がお礼をした。
「なんか、君達をみていると学生時代に戻りたくなるな~」
確かに、日頃の学生生活や、『美辞麗句探偵事務所』のアルバイトより楽しんでいるのも事実だった。
「そうですか?」
「ええ、気のおける仲間内で騒げるのも、若いうちですからね。この年になると、友達がどれ程大切かが身にしみて理解できますよ」
「いえいえ、新庄さんはまだ若く見えますけど」
「今年で四十ですから、おじさんです」
おじさんを随分前から受け入れている口調だった。しかし、外見は三十前後のさわやかな青年である。
「新庄さん達は夫婦ってわけではなさそうですよね」
菅野の質問に、二人の表情が強張った。義高は名字が違うんだし、デリカシーに掛ける奴だと思った。男女で来る方が楽しいですよ、きっと、と付け加える。
「は、はい。登山仲間なんですよ」
少しの沈黙が怖かったのか、紀子は焦っていた。やっと不味いことを聞いてしまったと思い始めたのか、菅野は話題を変えた。
「新庄さん達は初めて参加されたんですか?」
「そうです。実はあまり詳しくなくて、どんな儀式があるとか、まったく知らないんです」
「なら、俺達と一緒ですよ」
「行ってからのお楽しみって奴ですね」
「はい。待ち遠しいです」
腕時計を見た成宮は全員に向け、
「そろそろ出発しますので」
と声をかける。体も冷えて来たので丁度良い頃合いだった。新庄の心配りで川村を含めリタイアする者はなく、むしろ皆一様に登山の楽しみと、煩悩寺への期待を胸に秘めているようだった。
しかし、期待を持っていたのは煩悩寺に到達するまでだった。後になって起こる事件、それを知るまでのモラトリアムは、ツアー参加客全員に与えられた平等なるものだった。