十一話.年の瀬の過ごし方
九
十二月三十日に忘年会を開催したのは、部長の都合に合わせたからだった。休日にも関わらず、びっくりするぐらいの高い出席率だった忘年会がお開きになると、家庭を持っている人の順から帰っていった。加藤玲子よりも若い社員は、むしろ上司と親密になる熱意からか、最後まで付き合うのが普通になっている。二次会に女性がいなかったら、きっと高いお金を払って話を聞いてくれる女性の店へと繰り出すに違いない。ふと、酔った勢いで沸いてきた正義感に駆られ、玲子はその場に踏みとどまった。
仲の良い同年代の千恵子は、流石に忘年会の場で新婚生活の甘い話題も出来なかった。運ばれてくる料理を取り分けたり、お酒を継ぎに行ったりで、大忙し。さらに幹事役が酒にのまれた姿を確認いした店員は、終わりの時間を千恵子に告げていた。そのバイタリティーには頭が下がった。しかし、いくら仲が良いとはいえ、彼女を取り巻く環境の変化や彼女の性格に対応するのも疲れてきたのも事実だった。寒空の下、散会していく社員達をご機嫌の笑顔で見送っては玲子を捕まえた。
「最近はどうなのよ?」
「えっ?」
千恵子の聞いてきた内容がだいたい想像が付いていたのだが、知らん顔で答えた。
「とぼけないでよ~」
口調がいつもよりねっとりしている。そのくせ、若手のイケメン社員、中井君への視線も忘れてはいない。彼は入社三年目で、趣味がスポーツ全般である。玲子が調べなくとも、噂で流れて来る情報だった。
「登山しているの?」
「そっちか。まあぼちぼちね」
玲子がそっけなく言い、タイトスーツの中井君の体はぴくりと動いた。
「えっ? 玲子さんって登山が趣味なんですか?」
中井君は揉み手でもするかのように、調子良いカットインをしてきた。玲子が苦笑いしてから頷き、
「あれ、知らなかったの? けっこう有名な話しなんだけどな」
――良く言うわ。あなたが噂で広めたくせに……
「いや~、知りませんでしたよ。良かったら詳しく聞かせてもらえません?」
あまりにもさり気なく誘われた玲子は、断る理由が見つからなかった。
「じゃあ、二次会参加しましょう」
やる気のある千恵子。
結局、二次会でも仕事の話をするお偉方に付き合っていたため、たいした話も出来ず、玲子、中井君、千恵子が三人でダイニングバーの扉を開いた頃には二十三時を回っていた。
「やっと解放されたわ。そう思わない?」
お酒が運ばれた後、ちゃっかり中井君の正面に陣取る千恵子がそう言った。
「いえ、解放ってこともないですよ」
「今は気使わなくていいの。仕事の愚痴でも悩みでも聞いてあげるから」
「ありがとうございます」
と言うと、顎の筋肉が動いた。
「さあ飲んで飲んで」
給湯室での表情とは雲泥の差があった。むしろ、この切り替えの速さが男を虜にするのだと思った玲子は、暗澹たる気持ちになりそうだった。
「そういえば、さっきの話ですけど」
中井君が話しかけてきた。
「ああ、登山の」
「はい、実はちょっと興味があったんですよ」
その言葉で場の空気が止まった。笑顔だった中井君の表情に、不安の色が濃くなった。
「玲子に?」
「あ、登山にですよ。凄いハードそうなイメージもありますしね」
「登山にか」
玲子にはきっぱり興味がありませんという意思が感じられなかったためか、千恵子の顔は引きつった。このまま、登山の話を広げていいものか迷っていたら、
「今年はどんな山に登ったのですか?」
「ううんとね」
「富士山とか?」
「は登っていない。人が多い場所はあまり好きじゃないの」
「わかります。富士山って、この時期は、特に危険なんですよね?」
「そうね。準備は大切」
「でっかいリュックとか背負うんですか?」
若者得有の、切り返しが速く、貪欲なる好奇心のペースに乗せられ、玲子は先日に登った山の話をしだした。頂きでの快楽を超える、あの感情は包み隠して。
「へぇ~。ロッジですか。本格的ですね」
「大したことじゃないわ」
「知り合った男性とは、何かなかったの?」
千恵子は上目使いで覗いてきた。
「何かって……」
やっとの思いでいう。呼吸を忘れていた。
「その反応、怪しい。絶対なにかあったんでしょ?」
曖昧さがかえって火に油を注いだ。登山話の言いだしっぺだった中井君は、細くて長い指を落ち着きなく動かした。その、あくまで中立を保とうとして優柔不断な若者に、男を感じられなかった玲子は、カクテルで喉をうるおしてから言った。
「今度、その人と登山に行く約束したの」
「うそ! すごいじゃん。いつ~」
「元旦。ツアーだから、他の登山客も参加すると思うけど」
千恵子はまったく関係のない場所や時間まで詳細に聞いてきた。淡々とした説明をし、最後にお友達だからね、念を押した。
「謙遜しないでよ、もう~、そういう話だったら早く言ってくれればいいのに。ねえ?」
今度は千恵子が目を向けた中井君の表情が曇る番だった。
「あっ、あまりこういう話は好きじゃないか?」
「いえ、聞かせてください」
「でしょ? 気になる、気になる~」
「ちょっと、勝手に盛り上がらないでよ。それ以上は何もないんだからね」
「本当に?」
「絶対」
嘘は言っていない。あるとすれば、好意を抱いていることだけだ。
「誰にも言わないから」
それは嘘だ、と玲子は思った。彼女からの口約束は余計に怪しい。その怪しさも飲んだ席なら三割増しになる。さらに、あの日から連絡が来ない状況も、玲子の口を固くさせる要因だった。
「お願い、勘弁して」
切実に訴えた。
「うーん、つまんないな」
「じゃあ、千恵子は旦那さんとはどうなの?」
「普通だから」
「それじゃわかんないよ」
「家庭の話してもつまんないでしょ」
そのタイミングで、中井君が携帯を取り出した。終電に間に合う時間にセットしていたバイブが動作したのだ。
冷えた部屋で起きた玲子は、上半身を起こし、むかむかする胃の部分を摩った。目覚めに考えたのは昨日の飲み会である。頭痛、そしてすぐさま自己嫌悪になった。たぶん中井君がいなかったら、もっと悪酔いしていたかもしれない。あげ足取り合戦が激化しなかったもの、中井君のおかげ。新庄恭助には決して見せたくない一面だった。
コーヒーを入れ、溜息をついたところで携帯電話がなった。知らない番号である。玲子は首を傾げた。
「もしもし、加藤ですけど」
「もしもし、新庄です。突然電話してすいません」
「新庄さん!」
玲子の声が上ずった。
「ど、どうして私の番号を?」
「ロッジに宿泊された時の名簿に書かれていたので、それを調べたんです。もしかして、迷惑でしたか?」
その手段は普通に考えて簡単なことだが、玲子はひどく感激した。
「あ、違います」
「良かった。例の明日に控えたツアーのご連絡をと思いまして」
「はい」
新庄のしゃべった敬語まで、すべてメモに書き写した玲子は楽しみにしています。といって相手が電話を着るのを待った。新庄も同じ姿勢を取り、いつまでも切られない通話に、お互いの照れ笑い声が響いた。
大晦日で盛り上がっているTV番組には目もくれず、玲子は準備をした。昼間に購入したプレゼントも、リュックサックへと入れて。