十話.謎の宗教団体
八
軽トラックのハンドルが重い。
駐車所で何度も切り返しを行い、加圧で皮膚が持ってかれる感覚がある。五十分間のドライブ、腰に発生した違和感、やっとの思いで停車した車体から降りた貪平は痰が絡んだ喉を鳴らした。
十六時半過ぎ、閉館の準備に取り掛かれる時間帯、スピーカから村全体に夕刻を知らせる物悲しい音楽の音色が流れた後だった。
衣服の隙間を縫って侵入する、刺さるような空気が僅かな時間であっても耐え難かった。
貪平の姿を確認した職員は、本日の出来事談義にはなが咲いていたのを止める。奥でのけ反っていたお偉いさんは、部下に目線を送り、普通の人間ではわからないアイコンタクトでしゃべっている。
「あの~ですね」
「ご用件は?」
手前に居た女性職員が対応してきた。
「今度の螺鬼山ツアーのことでお話があるのだが」
「はあ、少々お待ちください」
困惑気味の女性職員は、お偉いさんのところまで小走りである。観光の相談まで対応しているのか、調べは着いていない。しかし、貪平にはどこに相談すれば良いのかわからず、前はいつ来たのかさえ記憶にない村役場しか思い当たらなかったのだ。
「お待たせしました。あちらの部屋で伺いますので」
五十の外見にしては綺麗な声である。酒も煙草もやらんのだなと、素直に従った貪平は思った。案内された部屋はお客様相談室だった。
テーブルに手を組んで置いたお偉いさんは五島と名乗った。
「今日はどうされました?」
「螺鬼山ツアーのことでお話が」
「それは伺っております」
言葉を遮る五島の表情に苛立ちが見え隠れした。
「止めてもらいたい」
貪平の唐突かつ単刀直入な申し出に、
「はあ?」
村民への対応とは思えない生返事をした。すぐ様改めた。
「失礼しました。どのような理由でそうおっしゃるのですか?」
返事を待つ。
「言いづらいのですか? ドアを閉めましょうか?」
ゆっくりとした口調になった。
「閉めてくれんか」
貪平は、言いづらいのかという質問が聞こえていなかった。部屋は密閉され、静かな談義が聞こえなくなった。
「はい、ドアは閉めましたよ」
独特の間である……五島は老人を労わる態度に変わった。
「おたくはここの新米かの?」
「違います。ここに勤めて十年目です」
それを聞いた貪平の表情は硬くなった。五島は諦めがてらに言う。
「私がここにきて初めての催される螺鬼山ツアーですよ。儀式をしてくれる団体の方はボランティアです。お客様も二十人程度は参加予定なんです。長く住まれている方ならわかりますよね? この規模の催しが滅多にないチャンスだと」
そこで言葉を切り、言い直した。
「いや良い機会だということをです。村おこしだと思って、考え直して頂きたい」
「わしは螺鬼山のふもとで三十年、蕎麦屋を経営しておる」
「それでしたら、なおさら利益になりますよね。きっと観光客の数名はお立ち寄りになると思いますよ」
五島は笑顔で言った。もちろん、心の底からの笑顔ではないと、貪平も知っていた。
「おたくは知らない。螺鬼山での儀式がなにを意味している……」
グェフォ、
グェフォ、
グェフォ、
グェフォ、
「だ、大丈夫ですか?」
声にならなかった。意味を、伝える言葉が薄れゆく意識の中で錯綜した。
体が揺すられている。
遠のく意識が戻る。虚ろな目に、天井の冷たい光が映る。
「救急車を!」
五島の叫びに慌てて入室してきたのは先程の女性職員だった。
「至急、救急車を呼ぶんだ」
「はい」
「待て!」
貪平のすべてを振り絞ったかの声に、動作がぴたりと止まった。
「ですが……」
「たいしたものではない」
肩に置かれていた手を払いのけ、毅然とした態度で向き合った。五島は困惑した表情で見つめてきて、しばらくしてから言った。
「どうしますか?」
女性職員の問いに、呼ばなくて良い。五島の指示で立ち去った。
「無理はなさらないでください。日を改めるのも手ですよ」
――言葉にならない。なぜだ。
頭では整理が着いているにも関わらず、喉の奥が詰まる。
――あのことは話しておかないと……やはり呪われているのか。
思えば思うほど、震えが止まらなかった。ふと考えを他の方向へもっていくと、楽になる。
――この状態で伝わるわけない。馬鹿にされるだけだ。あの時と同じく……仕方ない。
「日を改める」
「分りました。ご自宅までお送りしましょうか?」
膝に手を置いて立ち上がった。
「いらん」
出口まで見送った五島の姿は、貪平に映らなかった。
――山が嫌いと思った試しがない。
海沿いや盆地に住むぐらいなら、山のふもとが良いと決めていた。
そう、きっかけは単純だった。
妻は登山を愛し、その影響もあって山が好き、だった。
だから螺鬼山を卑下する意見はない。
妻は信じやすい性格でもあった。宗教に身を置いていた時期のせいもあるだろう。
結婚する以前から、心身ともに救われた経験を持つ宗教団体を賛美していた――
夫婦仲が芳しくなかった頃、貪平の妻は突然ある宗教団体に興味を持ち始め、すぐにのめり込んだ。
『鴈道教』今回の螺鬼山ツアーの主催者でもある団体、彼女の話では疑うべく点は思い当たらなかった。が、それも夫婦仲が覚めていた頃の話であり、真意は定かではない。市民個人の力では調査しても実体さえぼやけた宗教団体なのである。
貪平の手元には、形見となった置き手紙が残っていた。正確には、一時期の話である。それは捜索願の結果、螺鬼山で転落し遺体として発見された後、随分たってから見つけたものだった。しかし数日後、何者かによって盗まれた。
鴈道教の教えに従い『修羅の道』を辿ります。数日間、家を空けます。
直筆でそう書かれていた。出かける前、彼女は貪平に豪徳寺の参拝に行くと告げていた。置き手紙との差異は埋まらない。持っているはずだった置き手紙を必至で証明しようと鴈道教、『修羅の道』を連呼した貪平はかえって怪しまれ、調査の結果事件性はないと判断された。置き手紙も見つからないままである。
役所の人間は鴈道教を慈悲深い団体であると信じている。
貪平の落胆に拍車をかける要素でもあった。
やっとの思いで自室に到着し、布団に腰を下ろした。
その頃になると、関節の節々に痛みが発生し、鼻からの呼吸に詰まるものがあった。悪寒、明日のしこみだって残っている。一休みして作業をしよう。そう思った貪平の容態は数日間、
回復の見込みはなかった。