ー願いー
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きっかけは些細なことだった。
彼女は、僕が辛い時に助けてくれた。
もう、彼女は覚えていないかもしれないが、それでも僕にとっては大きなことだった。
それが嬉しかったから、今度は僕の番なんだ。
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俺には、夢がある。好きな子に前を向いてもらいたい。昔のように明るく笑ってほしい。
彼女が昔のような笑顔を見せることはないと嫌でも理解してしまった。それでも、俺はもう一度笑ってほしいと思ったんだ。
中学一年のことだった。11月ももう半ば、肌寒い日々が続き、コートを羽織る生徒も出てきた頃のことだった。秋戸 佳奈が、3日間連続して休んでいた。先生は、体調不良で休んでいると言っていたが、どこか嫌な予感がした。
彼女とは、いわゆる腐れ縁で、子供の頃はよく遊んでいた。小学校の中学年になったあたりから、友人と遊ぶ機会が増え、徐々に疎遠になってしまったが、それでも心のどこかで気にはなっていた。
元気だと良いんだけど...
得体の知れないもやもやが、胸について離れない。
くそ、考えてても仕方ない。
皮膚を刺すような寒さから、逃れるように布団に顔を埋める。
気付けば、深い眠りに落ちていた。
ジリリという甲高い音が、頭に響く。
やめてくれ。
布団に頭を埋め、ベルを止める。これで、大丈夫。
いや、ダメだろ。寝ぼけてたんだ。マジに許してくれ。
慌てて食パンを頰に詰め込み、バッグを背負い、形だけの挨拶をして学校へ向かう。ハムスターのようになりながら、チャリを漕ぐ。急いで飯をかっこんだせいか、お腹が夜に冷えたのか、胃が驚きの声をあげる。
やばい、無事家をギリギリに出られたのはいいが、これは、やばい。
学校に着くと同時に、トイレに駆け込む。何とか最大の危機は乗り越えられたみたいだ。
安堵していると、始業を告げる鐘が鳴る。
HRは終わったが、まだ、1限は間に合う。ああ、良かった。遅刻じゃない。
腹の調子が良くなってから、教室に向かう。
バツが悪そうに教室のドアを開けると、先生は俯いていた。いつもは、甲高い声を響かせてふざける生徒を注意しているのに。嫌な予感がした。前の席から後ろの席に、メモ紙のようなものが配られているのが目に入る。胸の鼓動が、速くなるのを感じた。彼女は、今日も休みのようだ。
「春谷君、遅れそうなら連絡入れるように。それと、秋戸さんが入院してるから、励ましのメッセージを帰りまでに書いておいてね。」
「え?」
心が凍てつくのを感じる。今、先生何て言ってたんだ?
「どうしたの?」
「いえ、別に。失礼しました。次から気を付けます。」
思いとは裏腹に、身体は奥の自分の席へと向かう。気が気じゃなかった。
どういうことなんだ?首元を汗がつたう。
気がつけばHRは終わっていた。
「また寝坊か?紡。」
この前に座っている奴は、夏江 岳。こいつともだいぶ長い付き合いになる。常に楽観的なお調子者で、この明るさには何度も救われてきた。
「ああ、布団が俺を離してくれなくてよー。」
不安を、押し殺す。
「はは、なんだよそれ。まあ、気持ちはわかるけど...」
「だろー。それよりもさ...」
胸が、締め付けられる。
「その前に、宿題、見せてくれ。英語の、終わってないんだ。和訳、見してくれ。」
「おいおい。」
しぶしぶノートを取り出す。他愛のない会話で落ち着きを取り戻す。
「落ち着いたか?」
「ああ、朝賀先生が言ってた、秋戸さんの入院ってどういうことだ?」
右腕で強く胸を押さえる。ごまかしても、鼓動の早まりは抑えられない。
「安心しろ。事故や事件じゃない。元々の病気で入院してるらしい。」
「病気?」
「その、知ってるだろ。」
彼女は心臓の病気を患っていた。体育などは結構な頻度で休んでしまっていた。その時の寂しげにこちらを見つめる顔が、今でも胸に残っている。
「命に別状はないのか?」
胸に痛みが走る。気付けば右手の爪が、胸に食い込んでいた。
「…大丈夫、全く命に別状はないってさ。」
一瞬深刻そうな顔をしたように見えたため、血の気がひいたが、その一言で安堵した。
「そうか、良かった。」
ほっと胸を撫で下ろす。
「悪いな、先にそれを言うべきだった。」
申し訳なさそうに目を伏せる。
「いや、言ってくれてありがとう。手術だったりとかじゃないよな。」
それでも、不安だ。もし、何かあったら...
「ああ、そんなんじゃない。すぐに良くなるさ。」
そういって、岳はこちらの肩を叩く。
「何処に入院してるか言ってたか?」
「言ってなかった。」
「そっか。病気が病気だからな。クラス全員で見舞いは難しいかもな。だから、メッセージなのかもしれない。」
小突かれる。
「勝手に悩んで、うじうじすんなよな。」
「あ、ああ。そうだよな。まずは...」
教室のドアが開く。
もう授業の時間だ。岳は前に向き直り、軽く左手をふる。
身の入らない授業を終え、岳と共に昼食に入る。
「テニスラケット買って金欠でさー。」という岳に合わせ、同じ狐うどんを注文し、席につく。口早に食前の挨拶を済ませ、うどんをかきこむ岳に意を決して尋ねる。
「なあ、メッセージどうする?」
「無難に早く良くなってね、と書くかな。」
「そうか。」
「そっちはどうする?」
「俺は、俺もそうしようか...いや、でも...」
「迷ってるなら、先生に伝えればいいんじゃないか。一晩くらいなら、待ってくれると思うぞ。」
「ああ、そっか。」
「それに、そんなに気になるなら、見舞いに行ってもいいと思うぞ。」
「え? それは、相手に嫌がられないか?」
「さあな。逆の立場で考えて見たらどうだ?」
「いや、それは...」
「まあ、紡なら喜ぶと思うぞ。ただ、周りに気付かれないようにしろよ。」
「あ、ああ。」
「それよりも、腹空いてないのか?」
「え?」
気付けば岳はもう半分以上食べてしまっていた。慌てて食前の挨拶をし、食べ進める。
「大事なのは心の問題だからな。よく考えろよ。いつでも手を貸す。」
そう言って、肩を叩かれる。
岳と分かれ、食堂に背を向け、職員室へ足を向ける。
入室の辞儀を済まし、職員室に入り、先生の姿を探す。
目立たないように気配を消して周りを見渡したが、見つからない。
諦めて教室に戻ろうとしたところ、
「どうしたの?春谷君?」
先生と出会した。
「実は、秋戸さんへのメッセージの件で相談したいことがありまして...明日の朝まで待ってもらってもよろしいでしょうか?」
「うーん...そっか。仕方ないね。よく考えたら、突然だったね。じゃあ、全員明日の朝までにして、書き上がった人だけ回収することにします。」
「ありがとうございます。それと出来れば...」
お見舞いに、と言いかけたところで、クラスメートを見かけ、途中で言葉を噤む。
どうしたの?という先生に、伝える用件を忘れてしまった、と誤魔化す。職員室の入り口で、長話をするのも周りに迷惑と考えたのか、はたまた忙しいのか、先生からは、思い出したら話すよう言われ、その場を後にする。クラスメートに、聞かれたくはなかった。
冷静に状況を分析する。自分が、何をすべきか。
チャイムが鳴る。もう今日の授業はこれで終わり。
気が気じゃなかったが、岳のおかげで少し冷静になれた。
担任の先生が入ってくる。
「席についてー。帰りのHRを始めるよ。ちょっと、皆ふざけないで。」
朝の時とはうってかわって賑やかな教室だった。
静まるまでだいぶ時間がかかりそうだった。
「ま、まずは朝に配った物を回収するよ。一番後ろの席の人は集めて持ってきてね。」
先生は、一人一人ふざけた生徒を名指しで注意したせいか、息を切らしていた。
回収した紙を渡す。
「皆、書いてくれてありがとう。これは先生が送っておくからね。提出していない人は、明日の朝までに先生のところに来るように。」
「大丈夫か?」
前に座る岳が、こちらに向き直る。
「ああ、ありがとう。バッチリだ。」
「そっか。じゃあ、頑張れよ。」
そういってカバンを持って、教室を出て行こうとする。
「いや、お前もだろ。一緒に頑張ろうな。掃除のこと、とぼけるなよな。」
回り込んで進路を塞ぐ。
岳は、観念した様子で両手を軽くあげる。
掃除を早急に終わらせる。教室は、それほど時間かからないのが救いだな。
岳は、掃除が終わるや否や部活に向かった。
「さて、ここからだな。」
そう呟いて、メッセージを考える。
周りの人に気づかれないよう、今日宿題の出た教科の教科書とノートを出す。
早く良くなってね、頑張って、元気を出して、など様々な言葉が浮かんでは消えていく。
こんな、ありきたりな言葉では、駄目だと感じた。
「なにやってるの?」
不意に話しかけられて、心臓が止まりそうになる。
「え?し、宿題。」
顔をあげると、そこには職員室の前で見かけた女子生徒がいた。
どこまでも澄んだ、まるで子犬のような眼をしていた。
「嘘。全然進んでないよ。もしかして、言い辛いこと?やましいことなの?」
「いや、そんなんじゃ...」
「なーんて冗談。秋戸さんへのメッセージ、考えてたんでしょ。なかなか思いつかないよねー。どうしても無難な言葉になっちゃうっていうか。」
「いや、そうじゃなくて...」
必死に否定する。相手に迷惑はかけたくない。
「朝賀先生から聞いたよ。」
頭が真っ白になる。何を聞いたんだ。
「図星だったんだー。」
最悪だ。外見に騙された。迂闊だった。血の気がひいていくのを感じる。
「他の人には言わないでくれ。」
「言わないよ。私も同じだもん?びっくりしたよ。先生に、思い浮かばない、って言ったら、他にもそういう子がいるって言ったんだもん。それで、君が職員室から出てきたのを思い出して、カマかけてみたの。」
俺は、墓穴を掘ったのか...
「で、そんなに考えてるってことは、顔馴染みなの?」
「か、顔馴染みって何ですか?」
「べっつに〜。深い意味はないよー。」
相手が満面の笑みを浮かべる。こいついい性格してるわ。
「ただ、小学校が一緒だっただけ。そんな勘ぐるようなことはないよ。」
そっぽを向いて答える。
「そっかー。残念。何か特別な関係だったら、二人の思い出に答えはあるわ、とか言えたのにな〜。」
あなた、何でそんないい笑顔なんです?
「俺の語彙力が足りなくて、言葉が浮かばないだけ。勘ぐられて変な噂流されて、相手の迷惑になるようなことはやめて下さい。お願いします。」
平謝りに謝る。これでそうなったら、死んでも死に切れない。
「そんなことしないよ。私、学級委員だし。でも、ちゃんと考えてる人がいるみたいで良かった。お見舞いとかは考えてる?クラス全員でお見舞いに行けたら、って思ってて、先生に提案しようと思ってるんだけど...」
驚いた。そんなことを考えている人がいるとは、思わなかった。
その思いは嬉しかった、ただ...
「いや、それは相手の迷惑になるかもしれない。元々の病気で入院、ってことは体力がない可能性が高い。そんな時に、菌やウイルスを持ち込むリスクを、大きく増やすのは良くないと思う。」
「でも、それって寂しくないかな?」
「理想と現実は違う。もしそれで、彼女が死んだら最悪だろう。」
「それは...そうだけど。でもそれって、本当に幸せなのかな。」
彼女が病室に一人寂しく佇んでいる姿が、脳裏に浮かぶ。
「だから、リスクを下げないといけない。」
「少人数で行くってこと?」
「ああ。」
「ふーん。じゃあ、これを機に一人で行くんだ〜。したたかー。」
そんな視線を、俺に向けるな。
「からかうのはやめてくれよ。男一人が見舞いに行くなんて相手にとったら恐怖でしかないだろ。」
「そうだね〜。じゃあ、お姉さんと行こっか。」
「大丈夫なのか?」
「元々私一人で行くつもりだったし。それに、せっかく一緒のクラスになってみんなと仲良くしたいのに、それとなく避けるんだもん。」
ああ、そうだろうな。
「許してあげてほしい。」
「え?」
「ずっと、そうだったから。」
彼女は察したのか「そっか。」と呟いて、その場を立ち去った。
胸がキリキリと痛む。
辛いといって欲しかった、悲しいといって欲しかった。
結局、どんな人に対しても同じ扱いだったんだな。それは、俺に対しても。
重心を前に傾けて、進まない足を前に出し、帰路に着く。
途中でコンビニに寄り、夕食と可愛げな熊の書かれたノートを3冊購入する。キャラモノのノートを買うのは恥ずかしかったが、他に無かったのだから仕方がない。
倒れそうになる体に鞭を打ち、自室に着く。声を出す気力がなかった。
リビングの両親に目礼する。食事をとり、風呂を沸かす。
疲れが押し寄せる。風呂が沸くまでの時間にシャワーを浴び、身体を洗う。このままでいけないことは分かってる。気持ちの整理もおぼつかない。鏡に写る自分の顔は酷くやつれていた。
湯船を見るともう6割ほど沸いていた。お湯につかり、気持ちを切り替える。
学級委員との会話を思い起こす。二人の思い出か...
長いこと忘れていた。いや、避けていた。
ふと、ある言葉が浮かんだ。それは自分が言われて一番、安心した言葉。僕を救ってくれた言葉。
心に明かりが灯る。そうだ。俺は、あの時のお礼を返したい。