第七話 ジレンマ
時は流れ年が明けた。僕は短大の二年生になろうとしている。もうすぐその進級前の春休み。
今、真夜中の真っ暗な部屋の中、僕はベッドの上で眠れずに考え事をしていた。僕のその春休み中に、東南アジアトップのシンガポールの総合格闘技団体、ザ・ファーストに山岸さんが出場する。体重七七・一キロリミットの、ウェルター級タイトルマッチに挑むことになっているのだ。
ザ・ファーストは東南アジアの各地で大会を行っている。戦いはいつも円形の金網の中。
試合のルールは肘打ちあり。サッカーボールキックあり。サッカーボールキックは元々禁止だった。しかし、去年の下半期から解禁されたらしい。普通のワンマッチの試合時間は五分三ラウンド。タイトルマッチの場合、五分五ラウンド。ラウンドインターバルは一分。判定決着の場合、ジャッジ五人のポイント合計による決着。つまり、マストシステムではないのでドローもあるということ。ドローの場合、チャンピオンベルトは防衛成功。挑戦者は勝たないとチャンピオンベルトは奪えないということだ。
ザ・ファーストはインターネットによる世界への試合中継の配信も行っている。近年は中国にも進出している団体。今回の会場はインドネシアのジャカルタにある屋内競技場、イストラ・スナヤン。イストラ・スナヤンは最大収容人数が約一万六千人。十分な大舞台と言えるだろう。大会開始時間は現地時間で午後三時半。もちろん、この大会には僕と西田さんと横光会長の三人もセコンドとして同行する予定だ。
山岸さんはかつて得たダンクラスのライト級王者のタイトルを返上した。そして、一つ上のウェルター級へ転向した。現在、ザ・ファーストのウェルター級で二連勝を上げている。その実績が買われ、ついにタイトルマッチの挑戦者として選ばれたのだ。
現チャンピオンはタイ人の元ムエタイファイター、プラサート・マウロー選手。マウロー選手は身長一七六センチ。打撃のリーチは山岸さんとさほど変わらないと思われる。ただ、肘打ちと首相撲からの膝蹴りは要注意。立ち技主体の選手でありながら、グラウンドでの打撃やサブミッションへの防御もほぼ完璧。ほとんど穴が見つからない選手とも言える。そんな強敵であるチャンピオンのマウロー選手に、山岸さんが挑戦者として挑むのだ。
しかも今回、山岸さんはマウロー選手の首相撲からの膝蹴りを警戒している。そのため、山岸さんは初めて柔道着を脱いで戦う。柔道着を着ると、奥襟を掴まれて首相撲からの膝蹴りを食らいやすくなると、山岸さんは言っていた。山岸さんの勝利へのこだわりはやはり尊敬すべきものがある。何しろその戦績は圧巻。今の時点で山岸さんの総合格闘技の戦績は、八戦八勝で未だに無敗。
僕の戦績も四戦四勝で今のところ無敗。あのトーナメント優勝以来、日本の総合格闘技団体「鉄神」で去年の大晦日に僕は一度だけワンマッチを組まれた。鉄神は日本トップの総合格闘技団体。名前の由来は鉄人から来ている。対戦相手はダンクラスの現ライト級チャンピオン、豊川仁選手。ダンクラスの看板を背負っているだけに、とても気持ちの強い選手だったのをよく覚えている。タフな試合になったが、僕は第三ラウンドでタックルを繰り出してきた豊川選手の首を捕らえた。首を捕らえると、フロントチョークを極め一本勝ちを収めたのだ。
会場は格闘技の聖地、埼玉ハイパーアリーナ。戦いの場は正方形のリング。暗い会場内に飛び交うカラフルな一直線の光、あちこちにちらつくカラフルな電飾やライトが僕の目に焼き付いている。演出もド派手だった。オープニングではリング上で上半身裸の高間統括本部長が太鼓を叩いた。そして、お決まりの台詞を言うと会場が一気に盛り上がったのだ。あの会場の熱気は今でも忘れられない。
あの時、雪音と琴音ちゃんが応援しに来てくれた。実はさらに、七海ちゃんと咲良ちゃんも応援しに来てくれたのだ。勝利後の夜は近くのファミレスで、横光道場のみんなに、雪音、琴音ちゃん、七海ちゃん、咲良ちゃんの四人も加わって僕の祝勝会をしてくれた。しかも横光会長の奢り。横光会長は山岸さんと僕の活躍によって横光道場の門下生が急増し、財布も気分もご機嫌だったのだ。とにかく、大好きなみんなが祝ってくれたのが僕にとっては忘れられない思い出だ。
それから実は、七海ちゃんはここ一年ほどの間に全国でも有名なモデルさんになっている。今では「ななみー」というニックネームで親しまれるようになっているのだ。横光道場のみんなや雪音や琴音ちゃんは、その本人に実際会うことができたことにとても感激していた。一緒に写真も撮っていた。
僕は複雑な心境だ……。なぜなら、今でも七海ちゃんはあの指輪をずっと着けてくれていて、僕のことをずっと待ってくれているから。それなのに、僕は雪音とずっと一緒にいる。そのことが七海ちゃんに凄く申し訳ない気持ちなのだ。
僕が世界一好きな女性は七海ちゃん。でも、いつも僕の側にいて、世界一僕を見てくれている女性は雪音。僕はそんなジレンマを抱えている。
「一成、男にはいつか必ず、決断しなきゃいけねー時が来る。だがその決断に、後悔だけはするなよ」
真夜中の真っ暗な部屋の中、山岸さんの言葉がベッドの上で眠れずにいる僕の頭を過った。
僕が本当に好きなのは……。僕が本当に一緒にいたいのは……。
もうすぐ、山岸さんのウェルター級タイトルマッチの試合が始まる。今、僕達チーム横光道場は控え室にいる。
イストラ・スナヤンにはほぼ満員の一万六千人以上の観客。物凄い熱気だ。青コーナーで挑戦者の山岸さんが先に入場で、赤コーナーのチャンピオンのマウロー選手が後に入場となっている。今回はタイトルマッチだ。僕はセコンドとして的確な指示を出さないといけない。なぜか自分の試合より緊張する……。間違った指示でも出せば、試合状況が悪くなるだろう……。僕のせいで、山岸さんの戦績に初黒星を付けることになるかも知れない……。もしそうなったら、僕は一生罪悪感を感じて生きていくことになるはず……。
控え室の中で、横光会長が構えるミットへ山岸さんが軽めのパンチとキックを打つ。
「おい、一成。なんでお前が緊張してるんだ? 試合するのは俺なんだから、お前が緊張してどうする? お前はいつも通り金網の外から、大声で指示くれればいいだけだろ」
それらを一旦終えると、山岸さんが僕にそう話し掛けてきた。
「あ、はい、そのー、今回はタイトルマッチだけになんて言うか、責任を感じると言うか……」
「はっはっは。心配はいらねーよ。絶対に勝ってやるから」
「一成。まっ、そういうことだ。俺達はとにかくやまさんを信じようぜ」
山岸さんが笑ってそう言うと、西田さんが言った。
「勝が勝てば、うちの道場はライト級とウェルター級の二階級制覇だ。そして、の!・り!・よ!・し!がフェザー級のベルトを取れば、三階級制覇だ」
横光会長が発破を掛けた。
「そりゃー、あんまりっすよー、会長。俺はやまさんや一成みたいな化け者とは違って、凡人なんすよー」
「わーはっはっはっはっは」
西田さんがそう言うと、僕と山岸さんと横光会長は大笑いした。
さすが横光会長。横光会長のおかげで僕はあっという間に緊張が解れてしまった。
今、僕達チーム横光道場は入場ゲートの裏の空間にいる。青コーナーで挑戦者の山岸さんが先に入場だ。
リングアナウンサーが山岸さんの名前を呼び上げる。さあ、山岸さんの入場だ。
「山岸さん、頑張ってください」
僕は元気良く言った。
「おうよ。任せとけ」
そう言うと、山岸さんは入場ゲートを出ていく。僕達セコンドは後ろから少し距離を開け、山岸さんに付いていく。物凄い熱気だ。僕が出場したM-0グローバルと鉄神のように、カラフルな一直線の光が暗闇の中を飛び交う。観客席や天井に向かって、たくさんのカラフルな光が目まぐるしく動いている。カラフルな電飾やライトがあちこちに混在している。インドネシアだけに客席にはヒジャブを被った観客。恐らく女性だろう。拳を上げ野太い声を上げている人。恐らく男性だろう。
山岸さんはレフェリーによるボディーチェックを済ませる。
「勝、頼んだぞ」
横光会長がそう声を掛けた。
「うっす!」
そして、山岸さんは金網の中に入っていく。
続いてチャンピオンのマウロー選手が入場を終えた。一際大きな声援が入場の時も金網に入った後も飛び交っていた。さすがチャンピオンだ。
山岸さんとマウロー選手は、ルール確認をするレフェリーの前で向かい合う。僕は金網の外からそれを覗く。山岸さんは黒い短パンサイズのぴっちりとしたファイトショーツを穿いている。ファイトショーツの左側には「横光道場」と白い文字で縦に書いてある。この試合で初めて柔道着を脱ぎ捨てた山岸さんは、横光道場の看板を背負うつもりだ。
一方、チャンピオンのマウロー選手は、緑色のハーフパンツサイズのファイトショーツを穿いている。ファイトショーツの後ろ側には白い鳥の翼が描かれている。
二人とも静かだ。だが、僕には二人の内に秘めた勝利への強い気持ちとオーラが伝わってくる。
レフェリーはシェイクハンドの合図を出す。二人は目を合わせて胸の辺りの位置で両拳を合わせる。お互いにスイッチが入ったようだ。
第八話 不敵な笑み へ続く……




