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第九話 アクシデント

 

 時は流れ高校を卒業し、僕は今、佐野本短期大学の学生。今は入学して一年目の夏休み。

 

 もうすぐロシアのモスクワで、同門で僕の師匠である山岸さんの総合格闘技の試合がある。僕はセコンドとして一緒に同行することになっている。凱さんの強い勧めがあったのだ。僕が凱さんの代わりにセコンドに付くことになった。

 

 ダンクラスという日本の国内団体で、山岸さんはついに金網の総合格闘技七○キロの、ライト級のチャンピオンに輝いた。戦績も六戦六勝にまで伸ばした。そして念願の世界進出。M-0(えむぜろ)グローバルというロシアのトップ団体から出場オファーが来たのだ。

 

 M-0グローバルはロシアだけでなく、アメリカやヨーロッパやアジアなど世界各地で大会を行っている。資金力も豊富なヨーロッパで一番の総合格闘技団体だ。インターネットによる世界中への試合中継の配信も行っている。

 

 山岸さんが出場する試合は、今年のグランプリのチャンピオンを決める大会。七○・○キロリミットのライト級の八人で争われるもの。しかも過酷なワンデイトーナメント。グランプリのリザーブマッチも一試合組まれる予定だ。会場はモスクワのギガスポルトという屋内アリーナ。大会開始時間は午後三時。観衆は約一万五千人となっている。かなりの大舞台だ。

 

 試合のルールは肘打ちは禁止。サッカーボールキックはあり。試合時間は準決勝までが五分二ラウンド。決勝戦のみ五分三ラウンド。ラウンドインターバルは一分。判定にもつれ込んだ場合はドロー裁定無し。ジャッジ三人が必ず優劣を付けるマストシステムとなっている。

 

 なんと言ってもワンデイトーナメントだ。いかにケガをせず決勝に進むかが鍵になる。さらにはらはらすることに、肝心な対戦相手は決まっていない。モスクワに着いてから行われる、公開計量後の組み合わせ抽選会のくじ引きで決まる。世界から総合格闘技ライト級の猛者達が、リザーバー含め十人集うのだ。だが、対戦相手は現地に着いてからのお楽しみということ。対戦相手が分からないという形。出場選手のデータを調べても、調べることが多すぎて間に合わない。こればかりは運の良し悪しだろう。

 

 ちなみに、今回の戦いの場は金網ではない。ロープで囲まれた正方形のリング。金網では金網に上手く体重を預けられ、ある程度テイクダウンされないようにできる。リングではそうはいかない。リングでのロープ際の攻防では、体重移動が特に重要になるのだ。


 僕達チーム横光道場は田成たなり空港から飛行機で飛び立った。そして、モスクワのシェレメーチエヴォ国際空港に到着。

 

 十時間弱のフライトで、着いたのは現地時間で午後四時過ぎ。その後、タクシーで運営が用意した宿泊ホテルに移動。今の時期のモスクワはとても過ごしやすい涼しい気温。日本の夏とは大違いだ。さらに日がとても長いらしい。今の時期の日没時間は現地時間で午後八時を過ぎる、とのこと。同行してもらっているロシア語の男性通訳者、田中たなかさんが教えてくれた情報だ。


 僕達チーム横光道場は宿泊ホテルに着く。運営が用意したホテル内の大広間の特別練習場に入る。ここで試合前の練習をすることにする。特別練習場に準備されているのは二つのリング。各選手使っても良い時間がそれぞれ決められているのだ。

 

 現在の時刻は現地時間で午後七時過ぎ。のんびりと食事をしていたため、少しだけ遅刻してしまった。山岸さんが使っても良い時間は、午後七時から午後九時まで。すでに、もう片方のリングではスパーリングが行われている。見たところ、ミットに打撃を打ち込んでいるのは同じアジア系。恐らく選手だろう。

 

 長身の選手だ。付き人もみんな同じアジア系のようだ。つい、僕はその選手の綺麗な上段後ろ回し蹴りに見入ってしまう。そして、何やらハングル語を喋っているように聞こえる。多分、韓国人選手だろう。


 対し、僕達チーム横光道場も当然負けてはいられない。チーム横光道場のメンバーは、山岸さん、僕、西田にしださん、横光会長の四人。ちなみに、通訳者の田中さんにも同行してもらっている。短期滞在だがこちらの生活面でも困ることは無いだろう。


 チーム横光道場が一丸となっての練習だ。山岸さん一人に対し、スパーリングの相手を交替する山岸さんのための練習だ。スパーリングの相手は僕と西田さんの二人。横光会長がリングの外から監督する。


 山岸さんは僕とのスパーリングを終えた。インターバルを挟む。当然、次は西田さんとのスパーリングも用意されている。しかし、僕はスパーリング中に少し異変を感じていた。山岸さんが一度も得意の右ローキックを出さなかったのだ。軽めのスパーリングとは言え様子がおかしい。

 

 今は西田さんとのスパーリングを行っている。やはり、山岸さんは右ローキックを一度も出していない。

 

 案の定だ。西田さんとのスパーリングを終えると、山岸さんは右足を引きずって歩いている。

 

「どうしたんだ? 勝、お前もしかして、脚を痛めたのか?」


 横光会長が心配そうに聞いた。

 

「くっ……うっ……。おやっさん。すいません。実は右膝が……。先々週辺りから、少し痛みはあったんす……。最近は大丈夫だったので、大丈夫だろうと思っていたんすけど……。またぶり返してきたみたいで……」

 

「勝、骨に異常があったら、試合には出せないぞ。とにかく病院へ行って、緊急で診てもらった方がいい」


 検査の結果は右膝蓋骨不全骨折みぎしつがいこつふぜんこっせつ。要するに右膝の骨にひびが入っているということ。程度は軽いもので手術も松葉杖も必要ないらしい。しかし、山岸さんの右膝にはギプスががっちりと着けてある。これでは当然、試合には出られない。


 一旦、僕達五人は病院のロビーに集まった。ロビーにはベンチに座るロシア人の人も数人いる。みんな高齢の人のようだ。

 

 横光会長、西田さん、僕、通訳者の田中さんの四人。ロビーをうろうろしてみんな落ち着かない様子だ。山岸さんはベンチに座っている。天井を見上げていて放心状態の様子だ。

 

 ふと、横光会長はスマートフォンを取り出した。そして、通訳者の田中さんを通し運営に出場辞退申し入れの電話をする。しかし、運営側としては今さら代わりの選手を見付けることは不可能だという主張のようだ。どうしても山岸さんを出場させろということらしい。山岸さんはこのグランプリの優勝候補だから、出場してくれないと困るということだ。どうしてもそれができなければ、同行してきたチームメイトを出場させろということらしい。


「同行してきたチームメイトならいいって言ったよな? 上等だよ。いるじゃねーかよ。俺を投げ飛ばせる男が。そこによ。なあ? 一成」


 山岸さんが嬉しそうに言った。

 

「山岸さん!? もしかして僕に出ろって言うんですか!? 僕はまだ、一戦もキャリア積んでないんですよ!」


 早くプロデビューしたいのは山々だ……。でも、いくらなんでも舞台が大舞台過ぎる……。しかもワンマッチではない……。過酷なワンデイトーナメント……。


「……。悔しいけどはっきり言って、やまさんの代わりは俺より一成の方が適任だと思う……。俺は二戦一勝で一応キャリアはあるが、一つ下のフェザー級だ……。階級が違う……。それに俺は今やスパーリングじゃ、正直言ってお前にびびっちまう……。俺よりお前の方が断然強いぜ、一成……」


 西田さんが悔しそうに言った。

 

「……。徳義のりよしの言う通りだ。一成、俺の代わりはお前が適任だ。いいか? よく聞け。このグランプリ、優勝したら五百万ルーブル、日本円で優勝賞金約一千万円だ。それだけじゃねえ。優勝しなくたって、ファイトマネーだけでも一試合数百万円は貰える。KO勝ちや一本勝ちにはボーナスだって付く。金、欲しくねーのか?」


「金……ですか……? え……ま……まあ……確かに欲しいですけど……」


 山岸さんが金の話をすると、僕はまんざらでもない態度を取った。


「はっはっは。だろ? それじゃあ、お前が出ろ。はっきり言ってこの金額は、運営様がグランプリ優勝候補って言ってる、俺が吊り上げた金額だと言っても過言じゃねー。けど、お前は十分それくらい貰ってもいいくらいの男だ。いや、将来お前は億稼げるようになると、俺は思ってる」


「お……億ですか……? でも……出たところで今の僕の実力で勝てるんですか……?」


「ああ。億だ。勝てる勝てる。お前はつえー。自分がどれくらい強いのか知らねーだけだ。一成、俺の代わりはお前しかいねー。お前なら優勝できる。毎日お前とスパーリングやってる俺が言うんだ。間違いねえ。俺を信じろ」


「一成、やまさんを信じろって」


 西田さんも強気に言った。


「それにな、このグランプリ優勝したら、お前は世界チャンピオンと呼ばれるようになるぜ」


「……。西田さん……山岸さん……。分かりました。僕、やってみます」


 山岸さんがそう言うと僕はついに了承した。

 

 僕は山岸さんに優勝できると言われた。もう迷いは無い。それに、僕は勇斗のためにチャンピオンベルトを獲得しないといけないんだ。

 

「頼んだぞ。一成」


 横光会長が僕の左肩に手を置いてそう言った。


 第十話 ゴング へ続く……

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