きのせいです
小学校の中庭に立っている大きなイチョウの木。
教師達から強く木登り禁止と言われているその木の上に、そいつはいる。
どれ位前からそこにいたのかは思い出せないが、あいつがあぁなった瞬間を俺はここから見ていた。
何て名前なのかを直接聞こうにも、あいつは地上から遠く離れた場所にいる。
手を振って降りて来いと合図をしても、あいつは空を見上げたまま少しも下を見ない。
だから俺達はあいつを“新入り”と呼ぶ事にしたんだ。
最終下校時間が近くなり、台座の上で日が落ちるのを今か今かと待ちわびていると、サラサラと風に揺れる葉音が聞こえた。それと共に唸るような声も。
どこから?
首を動かす訳にもいかないから視線だけで音を探っていると、正面にあるイチョウの上の方から聞こえてきた。
ゴゴゴゴ……。
少しだけ顔を上げてみると、イチョウの上にいる“新入り”が唸り声を上げる猫と向き合っていた。
あの時も、似たような事をしていたっけ。
木に上って下りられなくなっていた猫を助ける為に“新入り”は木に上って行った。随分と警戒されていたせいで何回か引っかかれていたと思う。
猫の捕獲には成功したが、猫と一緒になって下りられなくなっていた“新入り”は、遠くを見たり、空を見上げたりして気を紛らわせていたと思う。
太い枝に座ったままの姿勢で、随分と長い間。
最終下校時間を告げる校内放送とチャイムがなる頃、1人の教師がイチョウの下から声を荒げた。
コラ、何やってる、下りなさい。
慌てたのか、驚いたのか、それとも安堵したのか……“新入り”は立ち上がろうとしたんだと思う。けど、長時間同じ姿勢で座り込んでいたんだ、スッと立てなくなっていて。
猫は空中でクルッと体勢を立て直して綺麗に着地すると、逃げるようにその場からかけて行った。
“新入り”は猫を助ける事は出来たが、それと引き換えに……。
サラサラ、サラサラ。
その直後、イチョウの木の下には木登り禁止の看板が設置され“新入り”はイチョウの遥か上の方から下りて来なくなってしまった。と言う訳だ。
「フー!」
また唸り声が聞こえて目を凝らすと、“新入り”は随分と下の方まで下りてきていた。どうやらまた猫を助けたいようだが、今回の猫は気性が荒い。
「俺はただ、助けたいだけなんだよ?」
聞こえて来る声は穏やかだ。
恨みもなにも持っていない?それなのに何故イチョウにい続ける?
「フー!」
猫は更に激しく唸り声を上げるから、観念したのか、諦めたのか“新入り”はスルスルといつもの頂上付近に戻ってしまった。その直後、
「ニャー……ニャァー……」
猫から聞こえるか細い声。
助けては欲しいんだな“新入り”以外の誰かに。
最終下校時間を告げるチャイムと校内放送、校舎内の電気が消えて、校舎内に残っている教師が全員帰ったら、俺達の時間が来る。そんな遅い時間の事、
キィィ。
校舎内にいた最後の教師が出てきた。
サラサラ、サラサラ。
風もないのに揺れるイチョウの葉から音がする。その音に混じって微かに聞こえるのは、
「こっちだ、こっちだよ!」
教師を呼ぶ“新入り”の声。
だけど九十九でもなんでもない“新入り”の声が普通の人間の耳に届く訳がない。あぁ、だから葉を揺らしているのか。
直接触れもせずに葉を揺らせるなんて、花子さんレベルの強者じゃないか?
「ニャー……」
結局教師は猫の声に釣られてこっちを見た。
軽い足取りでかけて来る体格の良い教師は、暗い中庭に立っているイチョウを注意深く見上げ、その間にも猫は何度か下に向かって助けを求めて鳴いた。
「分かった、分かったからジッとしてろ~」
教師はやっと枝にしがみついている猫を見付け、何度も「動くなよ」と注意をしてから運動場を走って行った。その先にあるのは用具入れである倉庫。多分ハシゴを取りに向かったんだろう。
ガシャン。
ハシゴを担いで戻ってきた教師は、イチョウの木にハシゴをかけてゆっくり上り始めたが、猫はそんな教師にすら恐怖して逃げ出そうとしている。それも、よりによってイチョウの上に向かってだ。
サラサラ、サラサラ。
ザワザワ、ザワザワ……。
「こっちに、来るな」
猫を上に行かせないため。
そう分かっていてもゾッとする程の気配を放った“新入り”は、更に両手を広げて分かりやすく威嚇した。
ポテ。
猫は腰でも抜かしたかのように座り込み、そこへ丁度やって来た教師に首根っこを捕まれ、ゆっくりとハシゴを下りてきた。
その様子を上から見守っている“新入り”に、地面に下ろされた猫がまた毛を逆立てて威嚇し始める。
「どうした?まだ怖いのか?」
あまりにも威嚇する猫を不思議に思ったのか、教師はイチョウの上を、上半身を左右に動かせながら色んな角度で見上げる。
「フー!」
なにもそんなに嫌う事もないだろ?確かに勘の鋭い猫にとって“新入り”の存在は少しばかり刺激が強かったのかも知れないが、それでも終始助けようとしてた相手だぞ?
「なにか……いるのか?」
ガシャ、ガシャン。
青い顔で慌ててハシゴを回収した教師は、まだ唸っていた猫を小脇に抱えて走って行ってしまった。
中庭に戻ってきた静寂。
さて、どうしよう?
今なら“新入り”もイチョウの下の方にいるし、何より教師の後姿を目で追っているから下を向いている。
台座から飛び降り、イチョウに向かって少し走る。
初めて真正面から見た“新入り”の顔は、まるで化け物が出た、とでも言いたげなまん丸と目を見開いた驚きの表情だった。
化け物同士、これから仲良くしようや。
「俺、二宮金次郎。お前は?」