第九話 狂騒のエーリッヒ
今夜もライブが幕を閉じた。
夜も遅く、気取った若者と遠くを見る大人、灯った熱の残滓を残して、一人ずつ帰っていく。
店は夜明けまで開くが、演奏会は続かないのだからとそうなることは演奏者として誇らしい。マスターには申し訳ない喜びだが。
「ああ、あんた、この間の……この前はちょっと勢い任せだったけど、今日のはよかったよ!」
「ありがとうございます」
顔を赤らめた観客の一人にそう声をかけられ、片づけをする手をとめて微笑む。
最初はバンドの足手まといと揶揄されることも少なくなかった。
最近はこうして応援を送られることが増えた。
素直に思えば嬉しいことである。代償はあるといえばあった。
バンドメンバーには音が少し変わったといわれ、その度心臓を傷めている。艶と落ち着き、娯楽を得てよりよくなったと評されても素直に喜べなかった。
――うまくなっている。彼女の言う通り。
入口へ向かう観客の背を見送るついでにピアノを見やった。
ルシィは帰る準備を一足先に終えたらしく、ピアノの前に座ってまた鍵盤を叩いている。
もうすぐ咲くだろうふっくらとした蕾のうえで蝶が踊っているような愛らしい曲だ。
夜には似つかわしくない。しかし終わりの寂しさを慰めるにはちょうどいい。
客の何人かは曲の影響でか、さくらんぼが入ったカクテルなどを頼む。
宝石が溶けたような酒のなかで赤く丸い実が転がる。
――しっとりと夜が明けて、光がにじむ。もうすぐ子どもがはしゃぐ時間だ。
夜にひたる大人の時間が、終わる。
実際にはまだまだ夜が明ける時間は遠い。だが演奏会が終われば眠るだけ。
世界において行かれるような心地がして、伊達はピアノの合間に静かに溜め息を忍ばせた。
「どうした」
「えっ、ああ、いや、今日も終わりだなぁと思って」
リロイに呼びかけれ、挙動不審な態度をとってしまう。
横に立った彼は伊達に話しかけながら、目線は楽しくピアノと遊んでいるルシィの方を向いていた。
――なにもかもが気まずい。
ルシィと一晩を過ごした朝、彼はしっかりそこにいた。
明け方に帰ってきたのだろう。貫かれる瞬間の、絹の如く織られた歌声を聴かれたか。そう罪悪感にうつむく伊達をリロイは責めなかった。
「ルシィは人間としては問題があるが、音楽としては最高だ、とは前にもいったな。だからいい。関係を持ちたがったということはそういうことだ、バンドメンバーとしては喜ぶべきだろう」
ちっとも嬉しくなさそうに祝福を述べられて、伊達は一体どうすればよかったのか。
その後朝食まで用意して、当たり前のように一緒に練習場所に行った。
自分の方がおかしく思えそうだ。何もしていないと時々吐き気を催す。ふらつく思いはあるのに、音がよくなるという一点が決め手で一線をこえてしまう己が拍車をかける。恐れている一方で、愚行を重ねる伊達をリロイがいっそ責めてくれたならという思いすらあった。
思い出してまた溜め息をつく。
それでも《オーリム》の演奏は素晴らしい。だから、やめられなかった。
目の前の彼らに視線を戻す。
エーリッヒはバーのマスターに酒を注文している。ベアトリーチェは一歩離れたところでカウンターに背を預け、ルシィの演奏に耳を傾けていた。
「気になるのか」
他の誰かに届かない声量の問いに答えあぐねる。どれのことだ?
「ルシィは音楽のためならなんでもする。このバンドは彼女にとっての理想だ。ある意味では驚くほどに真面目で純粋だよ、他の男だけじゃなくて時に女とも寝るほどだ」
「怒っていないのか?」
「私も楽器だからな」
諦めの裏に誇りを重ね、即答される。
「そういうものも私の音になるだろう」
「……エーリッヒとベアトリーチェは仲がいいのかな」
話題を変える。彼の言葉を続けたくなかった。
「さあな。バンド仲間としちゃ悪くないんじゃないか。何か思うところでも?」
「別に、どうしても知りたいというわけじゃあないんだ。ただ……」
「遠慮せず直接聞けばいいだろう。前奏をする前はできはじめてたというのに」
弾き方の相談とはわけが違う。
だが、知りたいならば本人に聴くしかないというのはその通りだった。
「ほら、持って行け」
たずねかたを考える伊達にリロイが銀色に輝くスキットルを差し出す。
「演奏前はおすすめしないが、味は悪くない。あまり落ち込むようなら気を和らげる程度に嗜むのはよい事だと思う」
「ありがたく受け取っておく」
「楽しく飲んでくれ」
そう締めくくり、リロイはルシィの演奏に集中してしまう。
手の中でスキットルの表面をこすって弄ぶ。
これは以前エーリッヒに与えていたものと同じ酒だろうか。蓋をあけて鼻を寄せるとツンとアルコールの匂いが奥をつく。果物に似た爽やかな芳香がある。種類はよくわからない。
――酒か。
そういえば、エーリッヒに何度誘われて、断ったのか。
決してエーリッヒと仲たがいがしたいわけではないのだ。
酒といえば交友を深めるのにもぴったりだろう。伊達はカウンターでちびちびとグラスに口をつけている彼の隣に立つ。
ベアトリーチェが何か察したのか、コントラバスのケースを背負って音もなく離れていく。リロイの方へ行ったようだ。
エーリッヒは伊達に気付くと目を真ん丸に見開き、輝く笑顔を浮かべた。まるでひまわりだ。
「どうしたの! あ、うるさいかな、つい。最近ちょっと避けられてるみたいだったから、あっ、勘違いだったらどうしよう」
「おれの事情なんだ、ごめん」
いやに明るいのは酔っているからだと思うが、しかしエーリッヒだ。素かもしれない。
スキットルに手をつけようとしてやめた。マスターの前だ。なんの嫌がらせだろう。代わりに一杯だけマティーニを注文して己を鼓舞する。スキットルは上着の内側にしまう。
そして改めてエーリッヒに向き合う。伊達の態度に嫌がる素振りもなく首を傾げる。
「あのさ、二人で話せないかな」
「二人で? 他のみんなのいないところ、ってことかな」
「そんなとこ」
「わかった」
笑みを消したエーリッヒが舞台裏へ足を向けた。
ついていこうとして、先程までベアトリーチェがいた場所にヴァイオリンケースが置きっぱなしになっているのを見つけた。
彼女の方を見れば何かリロイと熱中した様子で話しこんでいる。口を挟むのもはばかられ、かといって離れているうちに誰かにとられないか心配だった。
恐らくエーリッヒがいるからおいて行ったのだ。楽器は決して安くない。
マスターに自分が楽器を預かっていることを伝えるよう頼み、ヴァイオリンケースを持つ。
「みんな片付け終わってルシィの方いってるし、大丈夫でしょ。それで、何?」
人と楽器が片付けられると急に広くなったように思われる。
店の表に比べると随分質素に見える部屋のなか、エーリッヒがこちらを向く。
扉を開けて覗いてしまった光景が蘇り、胸にちくりとした痛みが走る。
「エーリッヒはさ、ベアトリーチェとは仲がよかったりするのか」
遠回しな問いだった。エーリッヒはハイコンテクストな面では考えず、そのままとらえた。
「そりゃあ、バンド仲間だから。時々けんかするけれど、そこそこいいと思うよ。お酒のみにいったり冗談言い合ったりする程度にはね。音楽に関しても変な遠慮はしないでいいし」
「いや、そういう意味じゃなくて。例えば――口づけ……キスとかする仲なのか」
思い切った。酒のちからも背中を押してくれた。
高所から飛び降りる心もちであったというのに、エーリッヒはぽかんと口を開ける。そしてまるでおかしな冗談をきいたように笑う。
「まっさかあ!」
――まさか?
「ベアトリーチェは美人だし仲間としては尊敬しているよ。だからこそそういう仲には思えないかなあ。ちょっと近すぎて。いや、僕、仲よくできる人少ないから本当に大切だけれどね!」
君ともそんな楽しいバンド仲間になれたらなって思っているよ。
そんなことすらいうエーリッヒに湧き上がったのは、安堵ではない。
自分でも理不尽なことだと思うが、悪意の暗い火が灯る。
怒りにも似て、遥かにねっとりと汚く燃えるそれに苦しむ。
――まさかってなんだよ、おれは見たんだぞ。
それでも激情のまま怒鳴ることはできなかった。
一方的な都合だとはわかっていたからだ。
行き詰った感情の行く先を探し、手元のヴァイオリンに思い当たる。
音楽仲間の楽器に触れる自分を戒める声を人としての伊達がかき消してしまう。
「そうか。じゃあ、エーリッヒ。ちょっとお願いしてもいいかな」
「なに?」
「おれはきみの仲間だろ。じゃあ、きみの音色ってやつを聴いてみたいんだ」
「へえ、ルシィみたいなこというね。フルートならいつだって聴かせてあげるよ」
「いや、こっちだ。昔はこれをやっていたんだろ? そっちも知りたいな」
ひゅ、と目の前の好青年の心臓が縮まる瞬間を耳にした。
持ち上げたのはヴァイオリンケースだ。
「でも、僕、は」
断りの言葉を紡ぐ。だが、不思議なことにエーリッヒはこちらに近づいてきていた。
尊いものを与えられるように両手を差し出す。
伊達は落とさないよう細心の注意を払ってケースを手渡す。同じ音楽仲間の彼なら大丈夫だろうと己に言い聞かす。
「ヴァイオリン」
エーリッヒは楽器の名称を確かめるようにあげ、取り出した。
「ヴァイオリン。……楽器」
伊達から距離をとる。部屋の中心に移動して、慣れた動作で構えた。
何かおぞましいものに触れるように、真っ青な顔色に変わっていた。
唇がわなわなと震え、血がにじむほど噛みしめて堪えている。
フーッフーッと獣の如く低く喉を鳴らす様に酔いがさめる。
己の浅慮と悪意を謝罪し、今すぐ手を離させようと動く。動こうとした。
だがそれよりも先に、演奏が始まる。
――このような音を、人が奏でられるものであろうか。
一言であれば嵐。
引きつったような音は伊達の心臓を打ち抜き遥か虚空まで響く。そこには旋律があった。
まばたきひとつせず彼は弦を嬲る。
まつ毛一本でさえ些末な感情にとらわれることを拒む。
木々が千切れるほど激しく風が吹く。吹くためではない、どこかへ行くために。
人間をまるで考慮しない音楽。
ただただ、届け届けと飛んでいく音色。
――彼は、死ぬのではないか?
脈絡もなくそう思った。
日頃の明るさと穏やかさを失って、彼はどこも見つめていない瞳を空に向け、時折からだを弓なりにのけぞらせる。
ヴァイオリンは弦が切れると妄想させるほど激しく高く鳴いて、遥か高い場所へ至るほどのびる。
一瞬でも弦から指を離さない。
音の波が、勝手に聴いているだけである観客の硬い知性の壁を打ち砕く。ひとつひとつの音は最早誰にも届かぬ祈りの弾丸であった。
――どうして彼は泣いていないのだろう。
その音の願いは叶わない。聞き取るべきものはこの世になく、彼の祈りは届かない。ゆえに彼の内側で荒ぶ。
これこそが、エーリッヒの音色なのだ。
こんなむごい音色が、彼の魂の鳴き声なのだ。
なのに、その音色を奏でておいて、どうして彼は涙をこぼさないのか。
伊達はエーリッヒの鳴き声に耳をすます。今、ここから目を逸らせば、とんでもないところへ連れて行かれてしまう気がした。
――ああ、そうか、捧げてしまったんだ。この音の一粒が涙の一滴なんだ。
しなやかな弦の音色は痛みを抱え、本人も自覚しない想いで空間を満たす。
音色のなかに、くびきは存在しない。エーリッヒという弦楽器は人がましいカテゴライズから解放されていた。
名を持たぬ意志は説かれ明かされるよりも先に、世界を裂く。裂き、乗っ取り、訴える。
ありのままのかたまりが、伊達をのみこみ、その音を生み出した激情を叩き込む。
伊達のことなど意にも介さず――
――のみこまれる、我を失う、形のない世界に溶かされる――
「エーリッヒ!」
他者の音色に埋没しかけた伊達を抱き上げたのは、鋭い女性の叱責だった。
青いドレスのすそが視界の隅でウェーブを描く。
「手を離しなさい!」
強い口調で命令し、今まで聞いたこともない大声でエーリッヒが握るヴァイオリンを奪い取ろうとしているものがいた。
「……ベアトリーチェ……」
暴力的で麗しき音色の海から浮き上がったばかりの伊達は数瞬反応が遅れる。
そしてはっとして、立ち尽くしていた自身の肉体に鞭をうつ。
まだ陶酔していたいと心が嘆く。
戻ってきた知性でねじ伏せて、ベアトリーチェに加勢する。
エーリッヒは頬をはたかれ、勢い余って手の甲をひっかかれても凄まじいちからで楽器を構え、鳴き続けていた。
二人がかりでようやく引き離すことに成功する。
弦楽器を失ったエーリッヒはしばらく呆け、楽器を持った体勢のまま宙を見つめていた。
再びベアトリーチェに思いっきり横っ面をはられ、ようやく瞳の焦点が合う。
「あー……えー、っと。僕、なにしてたっけ」
「…………」
「ヴァイオリン? 弾こうとしてた気は、するんだけれど……そう、うん、いや、弾いた。弾いてた。ああそう、前みたいに……あれから必死に逃げようとしてた時を思い出して、だからあの音が」
地震に怯える老人のように頭を抱え、黄金の髪をくしゃくしゃにする。
ぶつぶつとわけのわからないことをこぼすエーリッヒの背中を、ベアトリーチェが何度もさすった。
「エーリッヒ」
「うん?」
「昔のことよ。あなたにはもうないの」
「ああ……そうか」
言い聞かせるベアトリーチェに、とろける笑みを浮かべる。憔悴してもいた。ひどい顔色だ。この数分で目の下が黒くなっているような錯覚すらあった。
――おれの知っているエーリッヒだ。
そのことに伊達も心底安堵して、繰り返し謝罪を述べて抱きしめる。
エーリッヒはぽんぽんと伊達の背中を叩く。そのリズムが優しくて、伊達は震えた。
ここは本当に、自分が思っているようなものなのだろうか。