第七話 破裂の音色
《オーリム》が極東にやってきて一年が経つという。
しばらくゆっくりとどまって新メンバーを探していたのだが、そろそろ次の土地へ移ろうと思ったのだとのことだった。
「一応トランペットとクラリネットが入りかけたんだけれど、結局ダメになっちゃってねェ。他にも何人かばばーっと声かけたりもしたんだ。そっちもダメでした。ギターのダンテくんはよくやってくれているなって思うよ」
「は、はあ。ありがとうございます」
「最近15分近く朝の即興も保つようになったしさ。いい頃合いかなと」
いきなりソロでの前奏を命じられたことの動揺が収まらない。今まではずっと他のメンバーとともに演奏し、「悪魔の音楽」と評される即興にも参加していなかった。はっきりいって完全な脇役だったのだ。
かといってルシィが容赦をするわけがあろうか。
「だから今度の前奏で様子をみてよさそうだったら一緒に来てもらう。それで記念ついでに二回目で即興やって、って具合かな」
「……もしダメだったら?」
「考えなくていいよ。だめなときはだめってことさえわかってくれれば、あとは楽しくやっちゃって」
その言葉が安易に安心していい意味ではないぐらいわかる。
咥内がからからに乾くのを感じた。
○
その日は二週間後にやってきた。
朝から落ち着かなくて、無為に何度も弦に触れては離すを繰り返す。
あと十数分で出番がやってくるという今も、椅子に座ってぼうっとしていた。
いつも通りの舞台裏のはずなのに、心臓がばくばくとうるさい。
それでもぼうっとできるだけの余裕があるのは、自分以上に取り乱している人間がいるからだろう。
「き、気持ち悪い……」
そういって先程からエーリッヒは背を曲げてうずくまっていた。
元から顔は白いが、今日はいつにもまして蒼白だ。
「お前の方が緊張してどうするんだ」
「だって、だってさぁ、ソロだよ、一人だよ、寂しいし緊張するじゃないか」
「だからソロをやるのはお前じゃなくてダンテくんだと」
「だからなに!?」
聞けばエーリッヒは現在のメンバーでは一番新人なのだという。
もし伊達がメンバーになれば、初めての後輩ができる、らしい。
だからやたら気にかけているのだろうとリロイがいっていた。
「これでも飲んどけ」
腹をおさえだすエーリッヒにリロイが鈍く銀に輝く瓶を差し出す。
しばらくそれが何であるかわからなくて、少ししてからスキットルだと理解した。
スキットルといえば、ウイスキーなどアルコール濃度の高い蒸留酒を入れる携帯用の水筒だ。
「だ、大丈夫なんですか? 演奏前なのに」
「こんな精神状態でいられるほうが不安です。大丈夫、こいつは強いし、ひとくちだけだけですから」
「はあ」
「あなたはだめですからね」
「わかってますよ!」
とんでもないと叫び返すと、りきんだからか肩のちからが抜けた。
そのまま何度か深呼吸する。
リロイが腕時計を指す。時間だった。
舞台に立つ。客足はまだ少ない。一番が伊達だとわかっているからだろう。
人目がまだ少ないことに安堵する自分が情けない。
黄昏色のスポットライト。ここにくるとまるで現実世界を一歩踏み外したような気分になる。
カンと頭に何かがうちこまれたように衝撃が走る。痛いほど冴えた瞼を開けてしまって、こめかみのあたりが急に澄んだ心地になって、太い縄の上を歩いているようだった。
空を飛ぶ開放感とも、落ちていく不安ともつかない最高で最悪の気分だ。
――大丈夫、おれらしくやればいいんだ。
並んだ人の顔が怖くて見られない。
舞台から視線を下げればすぐに映るそれらを意識から消すために、軽く目を伏せた。
――いや、だったら誰に聴かせればいいんだ?
当然、彼らに聴かせねばならない。
立場は違えど、敵ではなくて同じ音楽を愛し楽しみたいと望む同胞なのだから。
急にそんなことが頭の隅に浮き上がった。どうでもいいことなのに「すぐにかき消さなくは」と思うほど強く主張してくる。
弦に指をかける。しかしうまく動き出してくれない。一音目をど忘れしかけていた。
――知らない誰かのための音色なんて、おれにはまだない。
顔が浮かばない。音色と心が躍らない。
観客が無言でいぶかしむのが伝わってくる。息をつめ見守っていた誰かが舞台から目をそらし左右を見渡すたびいたたまれない。
緊張がじりじりと足元から脳天を目指してつぎあがっていく。
助けを求める声をあげたくなる。その時、閃くように脳裏に美しい相貌が浮かぶ。
――ベアトリーチェ!
そう、あの日のような、誰かの心を浮き立たせ楽しませる音を。伊達が一番楽しい瞬間はあれだった。
ならばベアトリーチェのことを想えばいい。
指が動き出す。拳銃の撃鉄に触れたような重さだった。
うまくやれよ、という内側からの声を殴りつける。
上品さを投げ捨て、音を破裂させた。
フライパンのうえで跳ねるポップコーンのように忙しなく、熱く、コミカルでさえあるリズムをかき鳴らす。
自然とからだが小刻みに動く。調子がよくなったところで鋭敏になった聴覚とからだが頭より先に油断を突きつける。
――あ、今、指を間違えた!
勢いのある曲を勢いのまま弾こうとしたら、一本隣の弦をおさえてしまった。
ぞわっと背中が泡立つ。吐きかねない焦りと自己嫌悪で指が乱れかけた。全身にいやな鳥肌がたち、しかし構わず演奏を続ける。
とまる方が恐ろしい。この勢いを、この愉快な熱情を、最後まで。
息を吸う。
コントラバスのように深く麗しくはなく、フルートのように幻想的で軽やかでなく、サックスのように静かに焦げる音でもなく。伊達のギターはそういう音だ。
――新しい風はいつだって賢いか間抜けに見える。今のおれは何より自由であるべきだ。
バターを入れ過ぎて甘さと香ばしさをふんだんに振りまく音色で、油で焼ける鉄の上を滑る。
よくいためつけられたポップコーン色のライブハウスいっぱいに、伊達の音が広がっていく。
熟練というには真新しすぎる。あっという間に跳んでなくなる。
だがうまくつかめば、その豊かな風味、あふれるほどの伊達の歓喜が届くだろう。
もしも今の伊達に破裂するほど大きなものがあるのなら、この喜びと感情、感性なのだから。
そう信じられる音を弾き出せている、そう伊達自身が深く思いこめられた。
かき鳴らすほど、そう動くためのように動く指と鼓膜を揺らす低くノリのいい音に高揚してしまう。
段々と緊張が嘘になって、もっともっとという欲がでる。
心なしか自分だけのちからではなくて、ギターも気前よくいい音をくれているのだという気がした。
――あの子はポップコーンなんて食べないだろうな。
――でも楽しんでくれたらいいなあ。
「おい!」
気持ちよく音を奏でていた最中、誰かが怒りの声をあげた。
――しまった!?
他のメンバーのものを聴き期待していたのに、自分の演奏が裏切ってしまったのか。
そう思ったが、様子がおかしい。
数秒経って観客が舞台でなく、《カレエド》の入口を見ているのに気づく。
何事かと一望した。すると小さな悲鳴をあげ、人が何かを避けている。道のように不自然に空いたそこには、一人の男がいた。
あちこち擦りきれ埃がついたぼろを着た男がよろよろと、転がるように進んできている。
目は血走り、皮膚が醜くたるんだ醜い男だ。元は悪くないのだろう。しかしその瞳は大事な何かが欠落していて、印象を獣じみたものへ変えてしまう。
――麻薬中毒者だ! どこかから入り込んできたのか?
近頃おかしな中毒者が増えたとは聞いていたが、こんなところ、こんな時にまで来るとは思っていなかった。
しかもどうやら彼は何故か真っ直ぐに伊達の方を目指している。
人がましい知性を取りこぼした形相に、生理的な怖気を覚えた。
ギターを庇う形で握りしめ、一歩後退する。そのまま闖入者からいっときも目を離さない、離せない。
だから中毒者がうわごとを述べながら舞台に手のひらを乗せた時、その顔面に爪先がえぐり込む瞬間もはっきり目撃した。
「何をしているんですか、外へ」
「リロイさん!」
絶叫して床に転がる男を見下ろす。
騒ぎを聞きつけたリロイが思いきり男を蹴り飛ばしたのだ。
いくらなんでもやり過ぎなのではないかと中毒者に対して憐れむ気持ちがわく。
「今は我々の演奏中です。何人たりともその音から耳を逸らす要因は許しません」
言われた通りに中毒者を放りだそうとする客たちを意味もなく止めようとしてしまった。
その伊達にリロイが容赦ない言葉を投げつける。
――彼の言う通りだ。
そう思う自分がいることに納得し、驚嘆した。
音楽家としての伊達と人間としての伊達だった。
言葉を失う伊達の肩に、リロイが優しく手を乗せる。
「続行しましょう。……お疲れ様、いい演奏だった」
「――」
単純なもので、微笑みとともにくだされた評価に満面の笑みになってしまうのをどうしようもなく自覚した。
しかしそんなことは客に関係がない。はっと己を戒める。舞台上の伊達は客にとって仲間ではなく、ただのギタリストなのだ。
戻ってきた観客がざわつく前に、駆け足で舞台裏に戻る。
――そういえば、ベアトリーチェさんとエーリッヒさんは平気だろうか。
すぐに解決したことだが、念のために確認したかった。
長くはない廊下を通って、こじんまりとした部屋にたどり着く。
ノックをするのも忘れて、扉を開いた。そしてすぐに閉じる。
――あれ、おかしいな? スポットライトで目がやられたのか?
気のせいでなければ。伊達が気持ちのいい演奏で中毒のように酔っぱらってしまっているのでなければ。
エーリッヒがベアトリーチェに口づけをしていたように見えた。