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第五話 信仰

 バンドに入って二週間と数日。久々の休日だった。

 本当は一週間ごとにきちんと休日は設けられているのだが、最初の二週間は泥のように眠るか楽器をかき鳴らすばかりで休んだ気がしなかった。


「ここら辺に来るのは初めてだが、なんだ、平和なもんじゃないか」


 ルシィがいると示されたのは、宵路(よいじ)横丁と呼ばれている街外れにある場所だ。

 吹き溜まりとも評される。

 娼婦に浮浪者、薬物中毒に異形の人々が過ごす薄暗い通りだ。

 どこを見ても痛んだ家屋や古びたござ、糸のほつれた布、鼻が曲がるような異臭が転がっている。

 物乞いがござのうえからこちらを見、中毒者が柱の影でよだれを垂らす。

 それは確かに恐ろしいものがあるが、朝の宵路横丁は人の足音が聞こえるほどに静かだった。


「すみません、ル……地図をもらってうかがわせていただきました」


 そのうち小さな家屋の扉を叩く。どこで誰が聞いているとも限らない。名前を言いかけたのを抑える。

 しばらくすると、扉が今にも壊れそうな軋みをあげながら優しく開かれた。


「ああ、いらっしゃい。待ってましたよ」

「……リロイさん?」


 白いシャツをまくった彼がそこにいた。


「そこで立たれて詮索されるのも面倒なので、どうぞ中へ」

「あ、はい」


 いわれた通りに中に入る。

 中も見た目通りの古さで、あちこち壁の表面がはがれていた。

 そこには枝や布で編まれたよくわからない――まじないかなにかだろうか――輪や人形のようなものが下がっている。


「ルシィはまだ寝ています。起こしてくるので待っていてください」


 薄く香る薔薇の匂いといい、まるで奇妙な異国に迷い込んだような心地だ。

 ぼうっと立ち尽くす伊達に構わず、リロイはフライパンを片手に別の部屋に入っていく。

 まじないに目をとられて気付かなかったが、壁と同じ色をした扉が二つあった。

 左右あるうち右の部屋から、悲鳴があがる。

 反射的に飛び込むと、耳元でフライパンを叩かれ、両手で耳を抑える黒髪が見えた。

 むき出しの褐色の肩も。


「あああ、なんて粗雑で耳に痛い、リズムもクソもない音! でも家庭的な音色かもしれないィ」

「ほら、ダンテくんが来てるぞ、起きて」

「あーうー……あと五分、あと五分で絶対起きるから、お母さん」

「お母さんじゃない」


 リロイの広い背中越しに、シーツを握りしめて丸まる姿が覗かれた。

 なんだか気まずくなってそっと離れ、玄関のすぐそばにあるキッチンによる。

 どうやら玄関からそのまま食卓になっているようだった。


「すみませんね、見苦しくて」

「い、いえ! こちらこそ午前中からおうかがいしてしまって、ご迷惑をおかけします」

「昨日のうちにきていいといったのは彼女でしょう? まあそのうち起きてきますから。朝食はもう?」

「……そういえば忘れてました」


 ルシィの家に行くのだということで頭がいっぱいで、すっかり失念していた。

 思い出したように空腹を知らせる腹の音が響く。

 蛙が潰れたような訴えにリロイは苦笑する。


「簡単なもので構わないなら、ルシィもまだなので一緒に作ってしまいましょうか」

「ありがとうございます! おれも手伝います」


 上着を脱いで腕をまくる。

 キッチンにはまだ洗い物の皿がいくらか残っていて、リロイは露骨に顔をしかめる。


「夕飯はルシィの担当で。味はうまいんですが、これといい服といい後片付けと掃除は放っておくとどんどんためてしまって、まったく、困ります」

「リロイさんは……その、ルシィさんと一緒に暮らしているんですか?」


 思い切って聞くと、にやっと口角を吊り上げられた。彼にしては珍しい笑い方だ。


「その調子で臆さずどんどん聞いて下さい。音楽の話ですよ? ともかく、ええそういう形になりますね、生活能力はほぼ皆無なくせにあれこれやりがたるから目が離せません」

「優れた音楽家には片付けが下手な人が多いと聞きます」

「慰めのつもりかもしれませんが本人のためになりませんよ。彼女は人としてはおおいに問題があります。音楽としては最高ですがね」


 手早く皿を洗い、先ほどたたき起こすのに使っていたフライパンを取り出す。

 持ち上がった腕に水に濡れた時計が光る。

 帯の部分は赤い革で、長く使われているものにのみでる艶があった。


「腕時計、外さないんですか? 預かりますよ」

「これはいいのです」


 うっかり外し忘れたのだと思って手を出すと、腕を離して拒絶されてしまう。


「彼女があれですから。私はしっかり時間を意識するようにしているんです。でないと練習時間も帰る時間もめちゃくちゃになる」


 そのまま時計盤を見て、ああそろいえばそろそろだ、と呟く。

 なんのことだろうと思っていると、突然ピアノの音がぽん、と薄い壁越しに届いた。

 時の流れが遅くなっていく。

 その音色は気品をともなって優美。極上のベルベットのような手触りで始まった。

 音は滑らかな曲線を描いて浮いて沈みを繰り返す。

 小さく柔らかなフリルをひらめかせ、大理石のうえを買ったばかりの靴で踊る少女のような甘いメロディ。

 そこにはたっぷりのバニラとミルクの香りが漂う。

 幼い少女の甘い夢。永遠に続く黄金の朝の如く時の流れを低いピアノの音が編む。


「……パヴァーヌ?」


 しっとりとしたピアノに聞き入っていたが、ふと違和感を覚えてしまった。

 これはクラシックだ。

 弾いているのは間違いなくルシィだろう。

 一応のようにシャツを羽織って演奏に陶酔する彼女の姿が目に見えるようだ。

 しかし、クラシックである。


「割と最近の曲です。確かタイトルはいにしえの……おや、気になっているのはそういうことではない?」

「はい。これはクラシックですよね? そちらもこんなにお上手だとは知りませんでした」


 ジャズが劣るとは思わない。しかしその格調高さもあってどちらかといえばクラシックの方がよく聞かれる。この腕前ならば大劇場での演奏も狙えるのではなかろうか。

 そう思いかけて、首を振る。そこではない。彼女はジャズピアニストなのだ、名誉を望む演奏家ではない。


「ルシィは割りとなんでも弾きます。大体朝はクラシックを一曲弾いてから、あとは基礎(メソッド)の練習ばかりです」

「当たり前ですが……ルシィさんほどでも基礎を練習するんですね」

「当たり前でしょう? 基礎をおろそかにしては積みあがるものもあがりませんよ」


 焦って追いつくことばかり考えていた自分を叱咤されたようで、びくりと跳ねる。

 己の未熟の気まずさとピアノの麗しさがまたおかしな心地だ。

 沈黙がなんとなく気まずくて、演奏を遮るのもいやで、小声で口を開く。


「怒られたりはしないんですか?」

「あまり。ここらへんは出かけて仕事を受ける娼婦の方が多いらしいんです。だから夜に出かけて朝は泊まり、昼前に帰ってくるそうで。壁は薄いので時折怒鳴られますけれど」

「はあ、なるほど」

「こういう環境だとルシィも過ごしやすいようです」


 そこで演奏がとまった。

 数分ほどして、シャツにベストといつもの格好をしたルシィがのそのそと現れ出る。


「おはよォ」

「顔洗ったか? 服はかごにいれたか?」

「ぜんぶやりましたー、あさごはーん」


 無駄にくるくるとまわって食卓につく。

 リロイはその小さな頭を軽く小突いて皿を並べる。

 二人は特になにもいうことなく食べ始めた。

 やや勇気を出しつつ手を合わせて「いただきます」という。

 すると二人は顔を見合わせ、真似して手を合わせた。そして食べながらルシィは単刀直入に問う。


「えーっと、それで? 何かぼくに聞きたいことがあるの?」

「すぐにとはいいませんが、少しでも追いつきたくてうかがいました」

「ふーん。追いつきたいっていうか、上達したいっていう心意気でいいんだよ」

「ええ、素晴らしい演奏をしてくれれば、技術を盗むだけ盗んでよそにいってくださってもいいのです」

「そうそう」


 おいしそうに目玉焼きをほおばって、にこにこ伊達を見つめている。なにか期待する目だ。ここ最近で伊達もようやくこのバンドがわかってきた。


「おれは、このバンドがいいんです」

「ふふふ」


 そういうと思っていた、という様子で笑う。

 伊達自身、これを言わせたかったんだろうと思っていたからはっきりいった。

 リロイは茶番に呆れ、パンを切り分ける作業に入る。


「えーっとォ、ねぇ。とはいっても、ぼくもそんなひとにうえから教えてあげますっていうの好きじゃないんだよねぇ」

「だからといって、来ていいといっておきながら何もしないというのも」

「だよねぇー……」


 ぎぃぎぃと足を延ばして椅子に体重をかけ、揺らして遊ぶ。

 それをリロイに片手で止められ、ぶぅたれる。


「うーん。いやさぁ、ひとにああしなさいこうしなさいっていわれたところで、それってきみの音じゃないでしょ?」

「おれの音? ベアトリーチェさんの深い音色やエーリッヒさんの楽しそうな音、みたいな?」

「おお? わかってるじゃない?」


 同じ楽器でも人によって音色は全く違う。

 悲哀に満ちて慈悲を奏でるヴァイオリンがあれば、歓喜と愉悦に満ちたヴァイオンもある。

 珈琲ミルをひき始めたリロイの黒い腕をみて、彼のサックスを思い出す。

 まさに()ったコーヒーや割ったばかりの薪をくべる様を思わせる演奏だ。

 熱く焦げるようなものがありながら、それを親愛なるものとして受け入れている、熱と冷静さが共存したサックス。


「そうだな。多分、変にあれこれいうよりぼくのありかたを聞いた方が早いだろう。あのね、ぼくの音楽にはね、信仰があるんだ」


 ルシィは伊達の言葉を聞き、立ち上がって壁に手をそえた。神社の絵馬を思わせるさげられかたをした大量の人形のひとつをもつ。


「ぼくだって悔しい思いをしたことは何度もある」

「本当に?」


 若く見える東洋人とはいえ少女にしか見えない彼女とその腕前を思う。

 だがルシィは迷わず頷く。


「例えば鳥の歌声。生まれつき歌を歌うものはメロディを考えたことなどないのに聴くものを恍惚とさせる。心を動かし、鮮やかに響く」

「……しかし彼らは元々そういうものですよ?」

「そう、その通り! 彼らは生まれつき音と直結している! 音が命そのものとしてある。理屈も技術もないのにあれほど美しい、圧倒的とはあれのことだとも」


 技術をもって鍵盤を叩き、知識をもって音色を紡ぐ。

 センスや才能もあるだろうが音楽家とはそういうものだ。


「ぼくのうまれたところは名前も知られないような寒村でね。土着の信仰のようなものがあった。太鼓を叩いて神に平和と豊穣を願う。その太鼓はいつだって同じようなリズムで優れた技術なんてものはない。でも、いわば原始的な、熱い何かがあった。きっと祈りなんだろう。遠い遠いところにいる神様に届きますようにって必死に、祈る以外を忘れて叩くんだ」


 音が人を震わせるのはなぜなのか。確かなのは技術だけではないということだ。

 その想いは人々に深く根付いている。そのはずだ。なのに、ひどく近しいのに手に取れない。

 だから彼女は悔しがる。


「ぼくは神様を信じているわけじゃない。でも音楽という命への信仰があるんだ。きっと人間にだって命そのものの音色が奏でられる、ぼくの鳴き声がきっとある。音を奏でて楽しむんじゃない、楽しむことを音に!」


 その目は飾られたまじないを通し、姿なき何かを望んでいた。


――ああ、これが彼女の信仰なのだ。


 偶像はそれを忘れさせまいという誓いのしるしなのだ。

 そういう音楽が存在するはずで、己に祈ればたどり着くという願い。


「考えるより先に音を。命を音に。そこに顔はいらない。音は音」


 我を殺せっていっているんじゃないんだ、という。

 むしろ逆のことをいっているんだ、と。


「音には個性がある。その個性を極める。我そのものを音にする。音という我にするの。ああ、伝わるかなあ。とにかくそういうことなんだ。きみはきみの音楽を見つければいいんだ。それがぼくの喜びとなる」


 ルシィはピアノのある部屋をさす。

 すっかりからになった皿をリロイが下げていく。

 からんという無機物がぶつかり合う音が鳴った。


「ああそうだ、弾こう。ぼくたちの音楽を、ひたすらに。きっとぼくのなにかが伝わるだろう。そうすれば、いつかどこかに辿り着くだろう。この生活でさえそのためになる。あらゆるものをつぎ込もう、すべては素晴らしく幸福な音のために」


 ただ音楽家としてあり続ければ、弾き続ければ。それだけができることだろうと彼女は部屋に伊達を招く。

 彼女はどこまでも音楽家なのだ。


ーー伊達にもあるだろうか。そんな命の音楽が。

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