最終話 いつか
川のほとりに腰をおろす。
そのまま背中を倒して寝そべると、太陽の光が閉じられた眼窩の裏までも焼く。
首筋を冷たい草の先が撫でる。青い匂いが鼻腔をくすぐった。
「ぽかぽかしてて、いい天気だなぁ」
この村にやってきて数か月が経つ。
ようやく自由に動けるようになってきた。
華やかな街も楽しいが、なんだかんだで自然豊かな田舎は落ち着く。こうした安らぎは何事にもかえがたい。
誰に言うでもなく呟いたのだが、その声に勝手に答えるものがあった。
「あっ! マレビトさま、もう出歩いて大丈夫なのですか?」
視線を堀の上へ向ける。
質素な服を着た少女が脇に睨んできていた。母親の手伝いをしていたのだろう、脇に籠を抱えている。
まだ幼さが面立ちに残っている年頃だ。あれこれ背伸びをしたい時期らしく、やたらダンテの世話を焼きたがる。
「まだ寝転がったばっかりなのに」
「そんなこといって。お怪我がひどくなったらどうするんです?」
腕のあたりの皮が吊ったように痛む。
そうはいっても、この村に転がり込んできたばかりに比べたら完治といってもいい。
体中に火傷があったというのに、数週間で綺麗に回復したことに村中に驚かれた。
普通なら気味悪がられるか驚異の回復力とはやしたてられるか。
幸いなことに、この村にはマレビト信仰が残っていた。
旅人や来訪者を外からやってきた見知らぬモノを、異界からやってきた福、人であれば福を運ぶ福の神とする風習だ。
おかげで吉兆として手厚く歓迎される日々を送っている。
――ここにおれを落としたのは、リロイなのだろうか。
目が覚めれば見知らぬ土地にいたのだから、《蟲》と同じく超常のちからが働いたのは間違いなかった。
至れり尽くせりの日々を送れる場所を意図して選んだのなら、これもまた底意地の悪い真似に思えてくる。
確かめようもないことを考えていると、少女が隣に腰を掛けてきた。
自分よりずっと低い位置に降りてきたつむじが目に入る。
「体調がよいのならいいんですけれど」
言いながら少女の目はちらちらとどこかを気にしている。
視線を追えば、そこには今の相棒が素っ気ないそぶりで佇んでいた。
ああ、とがてんする。気づかれたことに気づき、少女は日に焼けた頬でもそうとわかるほど赤く染めた。
「ギターケースが気になるのか」
草の上でどっしりと構え、陽の光を吸い込むように黒く重いケースを指す。
少女はしばらく逡巡してから、控えめにうなづく。
「ぎたー、っていうんですね。あれ。今日はまだ演奏しないんですか」
どうやら彼女が音楽に興味を持っているらしいことは知っていた。
腕が鈍るからと毎日少しだけ弾かせてもらっているのだが、どうやって聞きつけたのか、少女は毎日欠かさず聴きに来ている。
家の裏で壁に耳を貼り付け、隠れているつもりだったのだろう。
まさかダンテの耳のよさがどれほどかなど、彼女には知りようがないのだから仕方がない。
「弾こうか?」
「本当ですか!」
「休んだらね」
そういって頭の上で手を組むダンテに、大きく嘆息する。
慌てて己の口をおおい、ごまかすようににっかり笑う。
なんとも目まぐるしい。くすくす笑えば目が泳ぐ。
少女はダンテの笑いを遮るように質問の雨を降らす。
「あの! ギターって琵琶に似てるのにまた違う音がしますよね。街ではそういう音楽がはやっているんですか? 他にもあるんです? 今日みたいな日だったらどんな楽器がいいんですか? ダンテさんはギター以外は弾くの?」
「今日かぁ。ギターとか、クラリネットとか、ヴァイオリンかな。どんな楽器にも無限の表現があるとは思うけれどね。低くてものびやかで、高くても丸みがあって、こういう日はのんびりそんなのを聴きたくなる」
「くらりねっと……う、うぁ、ヴァイオリン」
「ギターは、まあ、そうだね。海の外から来たものだと思ってくれていいんじゃあないか、学術的なことを聞かれているのならおれにもこたえづらいが。流行っているのは間違いないと思うよ。新しいものが流行っているし、音楽に国境はないから」
「コッキョウ?」
知らない言葉の連続に少女は首を傾げた。
日頃使っている言葉が当たり前でない、という感覚は久しぶりだ。
いつの日かの喫茶店でのエーリッヒの演奏を思い出して口角があがる。
「住んでいる場所の違い、とでもいえばいいのかな。言葉とか文化とかがまるで違う場所。でも、耳が聞こえて歌を歌って、旋律にからだがうごいて、笑って泣いて――っていうのは一緒なんだ。しかも音はただ耳に届くだけじゃない。空気も動く。同じ空気を吸う奴なら、どんな人間にも伝わる」
目を瞬かせ、少女は両側のコメカミを握りこぶしで押す。
「君がおれの音楽が好きだって感じた、ってことだよ。あれに言葉なんてなかっただろ?」
「……それなら、ちょっとわかる気がします」
こくこく頭を上下させる彼女に胸をなで下ろす。無事応えることができたようだ。
ダンテが気持ちよさそうに眠っているのにつられてだろうか。
少女も腰を下ろし、小さな膝を抱えた。
「本当に今日はいいお天気ですね。洗濯物がよく乾くって母が喜んでいました」
「それは素晴らしいね」
「はい」
会話が途切れる。
目を閉じてうとうとし始めたダンテに、ためらいがちに問いが重ねられた。
「あの、マレビトさまは、いつまでこちらに?」
「怪我が治ったら、かな。安心して、ずっとはいないよ」
いつまでも居座っては迷惑をかける。かといって村の一員になる気もない。
だからなるべく早く出ていくつもりだった。
しかし、予想に反し、少女は首を横に振る。
「あたし、ずっと音楽が聞いていたいです」
息をのむ。
どう答えればいいのか。彼女の望みは一音楽家として、とても喜ばしいことだ。
かといって、地図とにらめっこしなければすぐに場所がわからないような田舎中の田舎。自分がいなくなれば、この村で音楽が奏でられる機会は遠のくだろう。
人としてのダンテは同情してしまう。
しかし音楽家のダンテはいう。――受け身に享受するだけで本当に満足なのか?
「そうだね、じゃあ、歌を歌えばいい。あるいは懸命に生きるとか」
「歌と楽器は違うじゃあないですか。人の喉と音楽の為の道具ですよ」
「そのためにあることが大事なんじゃない。そのために使うという心が大事なんだ。こう考えよう。人の声ほど多様で唯一無二を奏でるものも珍しいじゃないか。歌ほど伝わるものも少ない」
「懸命に生きるなんて、誰でもできます。つまらないです」
「とんでもない。自分の人生を歩み続けようというのは、とてつもなく気力のいることだ」
上半身を起こしてギターケースの取っ手に指をかけた。ひきよせて、金具を慣れた手つきで外す。
「ギターだって使い続けるうちに代わりのないものになる。この世に音楽に相応しくない楽器なんてひとつもない。全部、それだけの素晴らしい音色をもっているんだ。あとは引き出せるかどうか」
そのための方法、表現を探す。
きっとそれが音楽家の使命なのだ。
「風が吹く音に人は世界の存在を感じる。さびれた岩に雨が落ちる音に感情の機微を知る。紡がれる言の葉に癒されて、奏でようと動く指に自分が何者であるかを教えられるんだ」
「音楽をやっているとそう思うんですか?」
「ああ。自分という存在が解放されて、一人ぼっちのはずの世界が広がるような――感じたものすべてでおれはできているんだと思い知らされる。生きたあかしが芽吹く瞬間にすくわれた心地になるんだ」
弦のうえに指の腹をつつと滑らせる。
この程度では音はならない。だがダンテの鼓膜にはありありと高らかな音色が響く。
ダンテという男の歌、その魂の音色。
生きてきたすべてがあり、生きていくすべてがこもる。
「だからここにはいられない。おれの歌はまだまだ遠くに伸びたいといってるからね」
「わかりました……いつかまた来て、といっても難しいですよね。道、わかりづらいし」
「運が良ければまた出逢えるさ。でも、そうだな」
水面を見やる。
かつての自分の故郷、自分という音楽の種がまかれた場所を思い出す。
底には藻が生え、乙女の髪のような緑の糸が川の流れになびく。
太陽を受けてきらきらと輝く。
「帰る前にここで演奏会でもやろうか」
「えっ、ここでですか!? 蚊がいっぱいでますよ!」
「平気平気。蚊ていどの虫はカワイイもんだよ」
「かわいくないです! すっごくかゆいの! 知らないんですか!?」
「こう、板を張ってさ、その上で演奏するんだ。川床って知ってる? 涼しいし綺麗だしで面白いと思う」
「人の話を聞いてますか!?」
刺されてもいないだろうに蚊を払って腕を叩く少女に、口を開けて笑って見せた。
――ああ、おれの人生には幸福と祝福で満ちている。
脳裏に古い木でできた練習場が蘇った。
彼らの背は遠い。想像の中ではいつも銀髪の女性と金髪の男性が、顔を半分だけこちらに向ける。
相貌と表情は実際に会って確かめろと叱咤して、あなたならできると慰めてくれる。
褐色の女性は焦るほど早く、真っ直ぐに遠くへ走っていく。
黒い男は余裕綽々とした態度で、包み込むように見下している。
その度、思うのだ。
自分はなんて恵まれているのだろう。
あそこに必ず辿り着かねば。恩を返すための刃を突きつけるために。
生きれば生きるほど、動けば動くほど決意は固まる。
こうして音楽を愛する人は、常に生まれ、成長し続けているのだ。戦友は多過ぎるほど多い。
この思い出さえあれば、どこまでも歩んで行ける気がした。
彼の世界は果てもなく、白くまばゆく輝いている。
白痴のダンテは誰よりも、世界にあふれる音を愛しているのだから。
ここまでお読みくださった方へ心よりの感謝を。ありがとうございます!
一人の音楽家の終わりと始まり、そしてひとつの答えに行き着き進む物語。いかがだったでしょうか。
お楽しみいただけたのなら恐悦至極でございます!
悩む時もありましたが、書きあげることができたのもひとえに読者の皆様のおちからあってこそ。
改めて、本当にありがとうございます!
○
以下に、頂いたFAを掲載させていただきます。
セキ(twitterアカウント:show_nen0707)さんから頂いたルシィ
第八話のワンシーン! い、色っぽい……!
こんなに色っぽく迫られたら断れません。やっていることに反し、悪戯っぽい笑顔にくらっときます!
セキさんから頂いたメンバー
《オーリム》のメンバー。透明感のある色合いと明るい表情に、真実を知る前の伊達には彼らがこう見えていたのだろうなと思ってしまいます。
きらきら輝いて見えて、とびこみたくなってしまう!
本当に表情に活力があって、綺麗です……!
三茶(sansa_Q)さんから頂いた表紙
まるでコンサートのポスターか表紙のようにカッコイイ……!
抽象的なイラストは華麗ながらメリハリがあり、ロゴもシンプルだからこそパワーが伝わる力強さがある気がして。もしこんなポスターがあったならフラフラ引き寄せられてしまうかもしれません。
三茶さんから頂いたロゴ
ロゴも単体でいただいてしまった! 背景が白になるとまたイラストの中にあった時とは印象が違います。両方違って両方いい! タイトルは物語の顔といいますが、格好いいロゴは最高に優れたお化粧の如く文字だけで「伝え、楽しませる」ちからがある気がします。すごい……!
まほそ(mahoso_fuki)さんから頂いたベアトリーチェ
あまりにも麗しいベアトリーチェ。女性の美しさにも様々ありますが、音楽家としての強い目線に創作者として心惹かれ、白い髪と肌に真っ赤な唇が鮮烈な美貌にうっとりしてしまいます。
高貴であり華美であり、なのに飾ったように思われない。熟れた林檎のように魅力的で、もしこんな女性がいたら目を奪われるのもやむなしです!
まほそさんから頂いたベアトリーチェ(色塗り前)
色を塗る前のベアトリーチェも賜ってしまいました!
こちらも素敵です、そして色塗り前とはまた違った良さがあります。
どんなものでも表現しだいで大きく変わるものですが、実際に並べて目にすると表現の幅と奥深さにうならざるをえません。
その怜悧さは際立ち、鋭さは繊細さと硬質さをともなって、ぴんと背筋をのばしたくなるような感覚が強くなりました。細く柔らかい線の一本一本すらも美しい……!




