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第十二話 行先のある煉獄

 押し当てられた銃口は、しかし火を吹かない。


「ダンテ、あなたは今、煉獄にいるのよ」


 そのままベアトリーチェは銃の向きを変えて、その持ち手を握らせる。


「なんのつもりなのかな」

「麻薬は人をダメにする。当然だわ。リロイはわかってやっている。だから必ず、使うのはルシィが気に入った後なの」


 銃を持ち上げる気にはならず、その先が今度はベアトリーチェの下半身を向く。

 このなかに弾は込められているのだろうか。


「ルシィが気に入ることがそんなに大事?」

「真実とは思えないだろうことをいうわ、あなたはわたしの正気を疑うかもしれない。でもお願い、聞いて。あなた、くちのなかに何か落とされたでしょう」


 渇いた唇を指先で触れられた。

 思い返せば確かにそういった記憶はある。


「しかし、あれは、その」

「ルシィがいた村の信仰では、神に音楽で祈りを捧げていたという話はもう聞いている?」

「はあ、まあ」


 それがなんだ。

 何故現実の話に宗教を持ってくるのかわからない。


「それが届いてしまったんですって」

「……何に?」

「彼女たちがいうところの神に。ある日黒い肌をした奇特な男がやってきて、心から音楽を求めた少女に応えてあげたそうよ。彼女の鳴き声が切実で、とても美しかったから」


 音楽を手に入れた少女は、今度は楽器を欲しがった。

 文化を知り楽を味わい、音は深くなったが、かつて叫んだ歌声を思い出せない。

 神にも届く歌を奏でることを彼女は望んだ。


「最高の音楽、最高の音色。そのための最高の楽器、最高の弾き手」


 突然、彼女が己の胸元をおさえる。

 そしてびりびりとシャツを引き裂く。布の悲鳴とともに広がる裂けめに視線が引き寄せられるのは男の業というやつか。

 衣服を破る動作に迷いはなく、潔くさえあった。

 それでも激しく動揺し、銃をとり落としそうになるのを慌てて掴む。


「わたし、ワインも弦楽器も好き。年月を経るほどいいものになるでしょう。どこまでもたかみに昇り続けられるようで……やればやるだけ磨かれることはこのうえない至福であり祝福。豊かな芳香を蓄え、味わい深さを増すところが大好きだった」


 彼女の柔肌が空気にさらされる。

 ふるりと小さく震える。抱きしめたくなるような反応に、伊達は何もできない。


「……傷?」


 踏まれたことのない白雪の如き肌に似つかわしくないものが、谷間の上に咲いている。

 むしられた薔薇のつぼみのように刻まれているのは傷跡だ。だいぶ治りかけているが間違えようがない。手元の銃と跡が結びつく。


――銃痕? ありえるのか?


 伊達には人体の仕組みはよくわからない。

 だがこんな心臓に近い個所を打ち抜いて、生き伸びるものなのだろうか。

 何より、これを見せる理由はなんだ。


「ダンテくん、前にいったわよね。成長し続けるというのは生まれ変わるようなものと」

「そう、だね」

「生まれ変わるには成長以外にもうひとつ大事な過程がある。――以前の自分が死ぬことよ」

「……おれをからかっている、というわけじゃあないよな。こんなの持たせてるもんな」


 こういいたいのだろうか。


――ベアトリーチェはすでに死んでいる。


 この人もまた頭のどこかを病んでいるのかと思いかける。

 理解を放棄しかけた伊達を引き留めたのは現実として存在する柔肌と傷跡だ。


「永遠にいとたかきところを目指す音楽のために、ずっと死に続ける。そこにいくための誰かが現れるとルシィはたまごを落とすの」


 先ほどベアトリーチェが触れた唇に触れる。

 もはや感触は残っていないが、深く植え付けられた毒々しいほど甘い一夜が思い返され、むせそうになった。


「虫の羽音が聞こえることはない? 彼曰く正確には虫ではなくて、羽音をもった神秘や怪異に近い《存在》だとかいっていたけれど……正直、そちらのことはよくわからないわ」

「おれにもさっぱり。あなたは本気で信じているのか?」

「事実は不動だもの。自殺したわたしがこうして奏で続けているのは事実。《蟲》は演奏者に寄生して感覚を鋭くしてくれるけれど、特定のものを除いて精神を餌にする」

「特定って?」

「決まっているじゃない、音楽よ。廃人になりたくないなら奪われきる前に人としての自分を殺すしかない。死ぬ瞬間ほどの強い決意がなければどんなに想いがあっても食われてしまう。音楽への執着が強ければ、音楽家の自分だけは生き残れる」


 伊達は質問をやめた。

 よどみなく話すベアトリーチェは狂ってなどいない。

 きっと《オーリム》が狂っているのだ。

 言葉で彼らを理解することは不可能だ。

 心のどこかで納得している自分もおかしいのだろう。

 《蟲》がいるからなのか、ベアトリーチェだからなのか、《オーリム》の演奏が人間離れしている理由に相応しいものであったからか。


「ひととしての自分を捨てるなら死ぬしかない。気づけば勝手に舞台に乗せられていた。みんな寸前になって選択の時を知らされるの。最低の取引だわ。でもわたしはもっと自分の音を深めてみたかった。楽譜は受け継げるけれど、寿命が尽きたら音色はそれまで。そこから解放される。魅力的だった。だから、誘いに乗った」


 かつて命を奪ったという傷を撫でる。

 その視線に込められている感情には喜びと悲嘆があった。

 表情は茨に抱かれたような苦痛に満ちているのに、瞳は歓喜にとらわれている。

 即興演奏の如く言外にしみこむ、複雑で、ありのままの姿だった。

 ひとは薬などなくともいつでも過去に酔えるのだ。


「わたしはわたしの演奏を変える気は全くない。最初のわたしが目指した音を目指し続ける。後悔はしてないわ。でも積極的に迎え入れる気はない。わたしはわたし、あなたはあなた」


 ベアトリーチェの姿に意識を集中させ、言葉を取りこぼそうとするもそうはいかない。

 黙り込み呆然としかける伊達を頬をつかんで叱咤する。


「エーリッヒの末路はもうわかったかしら。彼は奪われる恐怖に耐えきれず、死ぬこともできず、麻薬に逃げた。オーバードーズで死んで、中毒はなくなったけれど記憶が吹っ飛んだ。

 トランペッターがどういう選択をしたかもわかったかしら。彼は人として誇り高くついえることを選んだのよ、炎でからだが残らなければどんなに執着しても蘇ることがないから」


 トランペッター。あんなに好きだったはずなのに忘れかけていた存在にぞっとしない。

 彼女はただ彼の死を悼んでいたわけではなかったのだ。


「あのひとにも同じことをいったのか」

「……いいえ、どうせいずれ知ることだろうと思ったから、放っておいた」

「ならどうしておれに」


 目を見開く。

 するとベアトリーチェは今になって頬を赤らめる。


「いくら好きだからといっても、他人の哀悼にあなたが感謝したから」

「……はい?」

「忘れるつもりはなかったのに、忘れかけていたんだって思い出したの。あなたにはきちんと警告しなければと思った。ギターの演奏を聴いて、他人のために演奏できるあなたがここにいるのが正しいのかと、ますます迷ったわ」


――おれの音が届いていた。


 彼女を想って奏でたメロディは彼女に届いていた。

 とんでもない事態におかれているはずなのに、その喜びの前には些事に思われた。

 急に心拍数があがって、顔全体が火照りニマニマしてしまう。


「本当に、あなたってひどい。誰かのために奏でられる人がここにいるべきじゃないってそう思うのに、よりによってわたしなものだから、いてほしいって思っちゃったじゃない。ひどすぎるわ」

「そういう場合じゃあないけど、なんだ、嬉しいなあ」

「あなたってばかね、知ってたわよ」


 ねえ、信じてくれる?

 うるんだ瞳で見上げられ、我慢ができなくなった。

 ベアトリーチェは伊達の想ったあのひとそのままだったのだ。

 彼女の唇に軽くかみつく。

 冷たくつるりとして、溶けて消えるように甘い。真っ赤な唇も相まって、林檎のような味だった。


――恐怖ゆえの勘違いだろうか。


 いいや、そんなことはない。

 その感情は本物だ。だから届いたのだ。

 考えるべきことは多くあるが、今大事なのはそれだけだ。


「……抱いてはくれないのね。ルシィとはしたのに」


 何度かついばみ、名残惜しくからだを離す伊達を恨みがましく睨む。

 自分だけが知らない、知られているというのはなんとも不便だ。

 やけ気味に笑って冷たい指を握る。


「きみにはおれの永遠の女性(ひと)でいてほしいんだ」

「なあにそれ?」

「おれ、そっちには行けないと思うから」

「トランペッターと同じように死ぬの?」

「いや、演奏を続ける。でも死なない。おれはおれの音楽をする」


 誰かに届く音色を。その誰かは人間だ。

 自分と同じように嘆き、楽しむことを愛し、ベアトリーチェのように誇りを求め、慈悲を与えようとする誰かだ。

 ルシィのもとではそれは難しいとはっきりわかった。


「えっと、これで一度死ねばいいんだよね」


 もらった銃をこめかみにあてる。

 ベアトリーチェは戸惑いとともに頷く。

 恐ろしいならわたしが引き金をひくとも言われた。伊達は首をふる。

 自分のことは自分でしなければいけない。


「ルシィもおれにとって特別だ。彼女のものになったら幸せなんだろうな。わかる気がする。でも、おれの音じゃあないから」

「……そうね」

「おれはまだ音楽家として未熟に過ぎる。もしもおれがおれの音を見つけたら、迎えに行くよ」

「あら、人の地獄にせよ音楽家の天国にせよ、連れ戻すのは苦労するわよ」

「きみが好きなんだ。きみが待っていてくれたなら、諦めずに頑張れるから」

「勝手にすれば?」


 ベアトリーチェは伊達の胸をドンと突き放す。

 額に手をあて、座り込んで顔を隠すように指を組む。


「またね、ベアトリーチェ」


 迷っている猶予はほとんど残されていない。

 耳鳴りがそう教えてくれる。

 ベアトリーチェの家を出て、ひとり伊達は自宅に向かう。

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