サンタクロースは誘拐犯
なぜ俺は息をしているのか。
少年がその問いを発するに至り、己の存在意義を見いだせない日々を送るのに、大した時間はかからなかった。
群れを追われ、孤独という名の酒に酔いしれる心地よさを知った野生の獣とは異なり、この広い世界を生きるのに、少年はあまりにも未熟だった。
過ぎゆく時が身体を蝕むことはあっても、癒しをもたらすことはない。
のぼる朝日が心を乾かすことはあっても、潤いを与えることはない。
それゆえに今日も少年は、都心の凍てつく夜の街を、一人、流れるようにして彷徨っていた。
身に纏うのは、色褪せ汚れた服。目深に被られたフードから覗く、ぼさぼさの髪からは不潔な艶が輝き、顔には幾重にも上塗りされた汚れが芸者の厚化粧のようにこべりついている。
少年の足取りはおぼつかず、一つ歩みを進める度に、少年の全財産である小さく黒いリュックが悲しげに音をたてて揺れる。呼吸は決して穏やかではなかったが、僅かな息音も漏らさない。まるで、世界からその身を隠して生きているかのように。
どこから誰がどう見ても、少年は浮浪者そのものだった。
12月末の東京。人々が眠りについても、街は変わりなく営みを続ける。
新宿駅の喧騒が聞こえなくなったあたりの街中を少年は歩いていた。
やがて、少し掠れた声で、一人呟く。
「今日はどこで休もうか」
少年の呟きは誰にも聞かれることなく、夜闇に溶け込んでいく。
「昨日は公園だったからな。地面が土で寝心地がよかった。今日もできればアスファルトは避けたいんだけど…」
寝床を求め、少年は進み続ける。
すれ違う人々は少年の存在に気付いていないのか、その哀れな格好に目を止めることすらしない。
そう、これが正常な反応だろう。
ここで少年に気をかけ、声をかけることの方が異常だ。
だが時折、その異常な存在は現れる。
そして、その存在は善人というより悪人の方が多かった。
不意に、少年は背後から突き飛ばされた。
前触れなく訪れた強い衝撃に少年が耐えられるはずもなく、地面にその身を投げ出す。
「ゴーーール! ついに決めました鈴木選手! これで逆転です!」
調子のいい甲高い声が響き渡る。
その後、複数の男女の笑い声が続いていく。
少年が地面に這いつくばり、後ろを振り返ると、若い男女5、6人がこちらを指差し笑っていた。
その顔に赤みが見られることから、酒が入っていることがわかる。
少年は既視感を覚えた。確認するまでもない。こういう経験はこれが初めてではなかった。
酔った若者らの余興の一環として、蹴飛ばされたのだと少年は察する。
先程の言葉からサッカーボールか何かの代わりだったのだろう、と。
「ちょっと、さすがに可哀想だって」
「大丈夫大丈夫。めっちゃ気持ちいいから」
「それあんただけでしょ」
「えー、俺もやりたいやりたい」
「まあ、問題ないだろ。誰も見てないし」
「そうそう。なんかこいつも慣れてっるぽいしね」
「あははは、それひどーい」
少年を置き去りにして、彼らの周囲の温度だけが上昇していく。
少年の心には怒りも恐れも悲しみすらも湧かなかった。
その代わりに、深いため息がもれた。
その時、少年を蹴り飛ばした一番手前にいる男の耳にそのため息の音が届いてしまう。
「おい、何か文句でもあんのか? なあおい!」
癇に障ったのか、男はいきなり声を荒げ、地面に放り出されていた少年のリュックを蹴り飛ばした。
リュックの中身が歩道だけでなく、車道にまで散乱する。
「なんだこれ、汚ったねえ」
「おいおい、言ってやるなって」
散らばったリュックの中身を見て嘲笑う若者たち。
その笑い声を聞きながら、少年は地面に腰を下ろしたまま空を見つめていた。
何も特別なことはない。いつものことだ。
少年は目の前で起こっている「日常」に何の関心も示すことなく、時が過ぎるのを待つ。
やがて、何も反応しない少年に飽きたのか、罪悪感が生じたのか、若者たちは何も無かったかのようにその場を立ち去った。
再び、周囲に静寂が訪れる。
少しして、散乱した荷物を拾うため立ち上がろうとした少年だったが、思うように足に力が入らないことに気が付く。
何度試しても膝立ちまでしか、足で身体を支えることができない。
「…そう言えば、当分なにも口にしてなかったな」
最後に人間の食べ物を口にしたのは1か月前だった。
動物のエサや植物など、手軽に入手可能なものでさえ、最後に口にしたのは5日前。
ここ最近は水しか飲んでいなかった。
「そろそろ限界か……」
少年は静かに微笑み、荷物を拾うのをやめ、一番近い路地裏へと這いながら向かう。
建物の谷間にある僅かな隙間。存在を忘れられたガラクタや腐臭を放つゴミ箱の居場所である暗闇で、少年はダンゴ虫のように体を抱え込み、横たわる。そして、思索に耽った。
この世に生まれた理由を問い、
思い出せる限りの生涯の記憶を辿り、
このような境遇になってしまった原因である人物を頭に浮かべ、
人間の果てない愚かさを嘆いた。
ふと気が付くと、目元が濡れていた。
最初は涙かと疑った。
まだこの体に涙を流せる機能があったのかと。
まだこの心に感情が残っていたのかと。
しかし、そうではなかった。
それは、雪だった。
空を見上げると、建物の隙間の闇空から白く輝く綿のような雪が降り注いでいた。
「…そうだ。もしかして、今日はクリスマスか。もしそうだとしたら、ホワイトクリスマス、だな」
日付の感覚などとうの昔に失っていた少年にそれを確かめる術は無かったが、何故か少年には今日がクリスマスだと思えて仕方なかった。
降り積もる雪が少年の体を真っ白に塗り潰すのに大した時間はかからない。
雪も降っているというのに、不思議と寒くない。
むしろ、温かくさえ感じる。
それに、すごく眠い。
強烈な睡魔に襲われ、少年の瞼は静かに閉じていく。
誰の目にも止まることなく、哀れな命の灯が一つ、絶えようとしていた。
その瞬間だった。
「それ」は、ゆっくりと降る白雪とは対称に素早く少年の傍に降り立ち、しかし、その色彩は雪と同様、否、雪にも劣らぬ艶のある純白に包まれていた。
着地の衝撃で地面の雪が舞い、少しの間、視界が白くぼやけ両者の存在を隠す。
しかしそれも束の間。
視界がクリアになり、閉じかかっていた少年の目が見開かれる。
そして、「それ」は少年の瞳を捕らえると、不敵な笑みを浮かべ、宣言した。
「初めまして。誘拐犯です。あなたを誘拐しにきました」
そこには、サンタクロースの格好をした少女が、不敵な笑みを浮かべながら立っていた。




