7.
気が付くと気持ちのいい朝を迎えていて、ヘティは少しだけぼんやりする頭を押さえながら、そういえば昨日は何を話したのだろうかと朧げな記憶を遡った。
そういえば結局トシキにもたれかかったまま眠ってしまったような気がする。横並びでもたれかかっても眠れる気がしなかったので、トシキに後ろから抱きすくめられるようにして、背中を全面的に預けて寝たはずである。
だが当のトシキはおらず、自分はいつの間にか地面に横たえていた。ひどい男だと思ったが、そういえば元から彼はこういうところで気の回らないところがあったかもしれない。鋭いようで抜けている、とヘティは思った。
ふと耳を澄ませると、店主用テントから色んな声が聞こえてきた。曰く、
「いやヘティの話を聞くって言ったのに何で主様だけしか喋ってないんですか!?」
「まあ話の流れっていうか」
「聞こえてた。神経、逆撫でてた。もう、滅茶苦茶」
「ああ、上手い言葉が思いつかなくてさ」
「……馬鹿?」
「かもな」
「ええと、その、ご主人様の考えが分からないのです。というか、神経が、その」
「面目ない」
――いいように言われていた。
久々に面白いぐらいトシキが思い切りけなされており、「いや、私たちがそんなことを言う立場じゃないですけど、でも、こんな馬鹿な真似は絶対にしません」という論調で、トシキは終始「反省している」としか返していない。
ミーナたちは皆、大元の原因として悪いのはアルレッキーノであってトシキではないということは理解しているようであったが、トシキのやり方が拙過ぎる、というのは衆目の一致するところだったらしく、トシキの方法を「ふざけている」「色々と地雷を踏み抜いている」「何で逆鱗に敢えて触れに行くのか神経が分からない」などと散々言い散らしていた。
「だって主様! この世界はゲームじゃないんですよ!? 選択肢は何でもかんでも選べばいいぜーって訳じゃないんです! 身も蓋もない話をしますけど、こういう問題は誠意を見せる問題です! 何度も頭を下げて、時間をかけて、一度失った信頼をゼロから積み立てていくような、そういうお話ですよ!」
「そっちの方が正しいってことは分かっているんだ。でもそれは今回に至っては間違いだ。誠意だったらもう精一杯、全力で見せたとも。でも誠意だけじゃだめだ。誠意を見せたら許してもらえるって態度で時間を待つのはある意味甘えだ」
「でもこれは流石にひどいです!」
「その、もうちょっと言葉を選ぶとだな、ミーナ。誠意を見せて時間が経つのを待つのは社会的には正しいんだ。そしてそれでもうどうしようもなかったら切り捨てて次だ。そうやって別のことによって信用を積み立てて、ってやるしかない。割り切るしかない。それが正しい。――でもそれは、じゃあこれでお終いだって切り捨てれる場合の、あくまで社会的な話だ。そうだろ?」
「……やりようの問題でしょ? 貴方、私に物はやりようって言ってたじゃない。それがこれって」
「ユフィ、お前痛いところを突くな……。まあ一つ言うなら、相手の心を読み取る能力に長けている俺なら、全力でぶつかって本音をさらけ出すにしてもまずい方向に転がらないようにそれなりにコントロール出来るっていう狡い計算はあった」
「……。そのお前のことお見通しって態度、私、物ッ凄く嫌いなの。相当傲慢よ」
「そんな態度しないさ。絶対に。人に向き合う以上は敬意を払う。それは俺の信念だ。……まあユフィに対してはしたかもなあ、だってお前俺のガキの頃のすげえ腹立つ頃にそっくりで」
「……こ、こいつ……いや、貴方……」
しかも何か、意外と飄々としているのが本当に腹立たしい。昨日のアレは一体何だったのか。いやきっとまごうことなき本音なのだろうが、それにしてもあっさりし過ぎである。
あんまりなものだったからヘティは、浮かび上がった苛立ちやその他諸々を、呆れの感情とともに、何だかどうでもいいかもしれないと却って許してしまいそうであった。
(……。これだからご主人様は)
実はヘティの中には、ずっとそう思ってきてはいるのだがトシキ本人には言っていない発言がある。
欠陥人間。それも根本的な部分。
同じく人の心がよく分からない欠陥人間のヘティがトシキに親近感が湧く理由の一つであり、そして何ならば、自分よりもしかしてこの男ダメなのではと思って止まない部分でもある。
「いやあの、一応言っておくけど! 俺はアレだ、ヘティをアルレッキーノになんか絶対に渡さないつもりだ。もっと言っていいなら、他の奴に渡すのもまあまあ嫌だ。本人が望むなら仕方がないけど、その限りじゃないなら、俺はアイツが必要なんだ」
――――――。
「だから、今回は本気で勝つ。心底本気でだ」
強く断言するトシキに、ヘティは、改めてこの男は本当にどうしようもない人なのだろうと思わざるを得なかった。自分より賢くて自分より器用で、そして自分より重要な部分がごっそり抜けている人間から、ヘティはずっと目を離せないままであった。
トシキとマハディとアリオシュ翁との間で話し合いがなされた、ということがアルレッキーノの耳に入ったのは最近の事であった。
どうやらマハディは激昂したらしいが、論理的にはヘティを助けるためには手を組むべきだと理解したらしいし、それに元より手を組むつもりだったので渋々手を組むことに合意したと聞く。
密偵から一連の話を聞いたアルレッキーノは「つくづく面の皮の厚い男だ」と吐き捨てた。
上手くいかないでくれたら、とアルレッキーノは思っていたが、効果はなかった。トシキの手でヘティを売らせればこの共同戦線は瓦解すると踏んでいたが、そっちの方は見込み外れであった。
あの男は商売の神に愛されているかのように旨く立ち回りする。立ち回りが上手いというわけではないのかもしれないが、結果として旨く立ち回っている。平均よりは弁が立ち交渉も出来る程度と思っていたが、少しばかり考え直す必要がありそうであった。
上方修正ではなく、下方修正だが。
(……つくづく不愉快だ。思考の埒外だ。下品だ。美しくない。俺が本当に欲していた、二者択一性と試される人間の心理を踏み荒らした。愚凡、卑怯、見るべき点もない。――祝福された能力だなど、奴には過ぎたおもちゃだ)
アルレッキーノは殊の外この事実を失望していた。
少しは自分に食らいついてみせたあのマレビトが、もしも選べないほどの二者択一を突きつけられた場合、どう絶望し、どうあがき、どう演じてみせるのか、それを知りたかったアルレッキーノの心に泥を塗りつけたようなものだ。全ての意味を台無しにしてみせたのだから。
アルレッキーノは、彼は本当の答えを出したわけではなく逃げたのだとしか思わなかった。本当にその答えを出したのであれば納得する過程を示すべきであり、彼は究極の意味で、本当に試されている命題の意味を台無しにする形で狡く立ち回っただけに過ぎなかった。
アルレッキーノの価値観に従うと、人はいつか大きな命題に試される。試されないまま生きることが可能な人間もいるであろうが、それは彼の感覚で言うと『試されていることに気付かず台無しにしている愚凡』か『試されていることから逃げ回ることしかできない小物』かのいずれかであった。
もしかすれば相当に幸運な男――自分以上の幸運を備え持つ男であれば、人生において試されないのかもしれないが、それでもである。その男には自らを試す機会が山のように存在していた、なのにその男は自分を試さなかった。それだけでアルレッキーノにとっては、その男は本物から逃げ、一回り小さいぬるい自分を演じて過ごした着ぐるみの中の男にしかならないのであった。
勝負。
アルレッキーノの人生において、全ての命題は勝負であった。あるいは、可能性を試す真価の試金石であるともいえた。本当にそうなのかどうかは、目で見ても数字で教えてくれるわけではなく、そういった無数の試金石を乗り越えるか、どの段階でつまづくのかを見なければ分からない。誰も真価など教えないから試すしかないのだ。
この世に生まれるということは、徐々に死んでいくことと同義である。
特にアルレッキーノにとって、己の死とは永遠のテーマであった。それはつまり、言い換えるならば命の意味、人生の意味、という言葉に他ならない。何が人生で、何が命なのか、という命題は、アルレッキーノが生涯をもって追い求めるべきものであった。
(世界における見えるもの、見えないものの全ては、俺から始まって俺で終わっている。俺で完結された世の中に善も悪もない)
極悪非道を尽くすアルレッキーノに、善と悪はない。人生は大いなる死への旅である。アルレッキーノにとって世界とは、自分が見えるもの、自分が見えないもの、すべてを包み込みながらも、全ては自分で始まっていて自分に終わっているものだった。
善と悪という概念は、必ず物事には正解があると信じている人間の生み出した妄執である。もはやそれは一種の願望でしかない。
善悪は神が規定した、と誰かが宣ったことがある。心底笑わせるような話であった。
神は何もしない。何かをするのは人間であって、神ではないのだ。
(恨むぞ、マレビト。だが感謝もしている。俺が勝負の神の加護を持っている理由も、人より数多くの人生を享楽している理由も、全てはそれなのだ。だからこそ俺は、これほどに人生に近づけた。生きる意味や命の意味を、他の愚凡よりも噛みしめることが出来た)
アルレッキーノは人生が欲しい。欲しい。欲しい。欲しい。
気の狂うような自問自答の末に選び抜かれた、どうしても切り捨てられない多者択一の答えが欲しい。そこに息づいた感情、思い出、思考過程、その本物が欲しい。
「さあ、俺が夢の続きを見れるか、それを試そうじゃあないか」
この世界は等しくマレビトにとっての偽物である。偽物として定義された者たちに命は、人生は、そこにはないのか。アルレッキーノはそれを超越したいと酷く強く願っていた。




